6月29日のこと
夕暮れ時のキャンパスは静かだった。
空が、ようやく藍色に染まり始めている。
帰り始める学生が多い中、
私はベンチにすわったまま動けずにいた。
今日も失敗した。
グループワークで話そうとして、
言葉が詰まって、
焦って、
余計に吃って。
空気が少しだけ止まった気がした。
大学生にもなると、誰が笑うわけでもない。
でも、それが逆につらかった。
だって、
“気を遣われた”のが分かってしまったから。
思い出すだけで、自己嫌悪で胸が苦しくなる。
今日はもう帰ろうと思ったのに、立ち上がる気力がない。
このまま誰にも見つからず消えてしまえたら楽なのに、とぼんやり考えていた時。
「どうしたの?」
静かな声がした。
彼だった。
鞄を背負ったまま、
いつもの穏やかな顔で立っている。
私は反射的に背筋を伸ばす。
「……ご、ごめ」
謝ろうとして、
また喉が詰まる。
その瞬間、自分で自分が嫌になった。
この人が相手であっても、言葉が上手く出てくれない。
誰であっても、どんな時でもまともに話せない。
彼が少しだけ首を傾けた。
「なんで謝るの」
怒っているわけでも、
困っているわけでもない。
純粋に分からない、という声音。
私は視線を落とす。
「……きょ、今日……っ」
うまく言えない。
言葉にしようとするほど苦しくなる。
彼は、無理に続きを促さなかった。
その代わり、
私の隣へ静かに座り、
私の顔を見る。
「うまく話せなかったの?」
小さく肩を震わせた。
図星だった。
しばらく沈黙が落ちる。
怖かった。
慰められるのも、
「気にしなくていいよ」と軽く流されるのも
どうせ自分の苦しさなんて、
ちゃんと伝わらないと思っていたから。
そして、彼に対してもこんなことを考えてしまう。
そんな自分がとんでもなくみじめに思えて、涙が出そうになった。
でも彼は、
少し考えるみたいに遠くを見て、ゆっくりと口を開いた。
「俺、人にはそれぞれの『かたち』があるって思うんだよね」
つい顔を上げる。
「得意なこととか、苦手なこととか、考え方とか」
「みんな違うかたちをしてる」
静かな声だった。
教えるみたいじゃなく、
ただ自分の考えを置いていくような話し方。
「石みたいな感じ」
「よくできてるところも、ちょっと崩れちゃってるところも」
「別々にあるわけじゃなくて、同じ石の表裏みたいなものだと思うんだ」
私は少し眉を寄せる。
「例えば君って、人の空気読むのすごく早いでしょ」
目を瞬く。
そんなこと、
言われたことがなかった。
「多分ずっと失敗しないようにって、周り見てきたからだと思う」
そう言って、彼が微笑む。
「欠けてるところばっか見えちゃうかもだけど、君には君にしかない良さもあるし」
「欠点にしか見えない部分でも、ちゃんと意味があるって、俺は思う」
何も言えない。
ただ胸の奥がじわっと熱くなる。
吃るし、緊張するし、人と話せない。
そのくせ、すぐ自分を嫌いになる。
私だけ、ちゃんとできないって思ってたから。
すると彼が、
少しだけ柔らかい声になる。
「だから、急がなくていいんだよ」
彼の目線は宙に浮いていた。
でも、その言葉は力強かった。
「無理に変わろうとしなくていい」
「ゆっくりでいいから」
「少しずつ、見つけていこう」
励ましというより、
許可みたいだった。
“ちゃんとできないまま存在していい”
って言われた気がした。
鼻の奥がツンとする。
私をちゃんと見てくれたのが嬉しくて、暖かくて、
胸がきゅっと締まる感じがする。
気づけば、涙があふれそうになっていた。
恥ずかしい。
慌てて顔を逸らしちゃったけど、
彼は何も言わない。
でも、見なかったふりもしない。
その距離感が、どうしようもなく優しかった。
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夜。
なんだかいつもよりも静かな空気の中、
ベッドに寝っ転がって、彼の言葉を思い返していた。
「大丈夫だよ」とか「気にしないよ」って言われるのが好きじゃなかった。
できない私、足りない私を見捨てるかのような言葉。
でも、彼のものは違っていた。
肯定されたわけじゃないし、
できなかったことを慰められたわけでもないけれど。
ダメな私を全部見ているよって
いいところをこれから見つけていこうって
そう言ってくれた。
どうしようもなく嬉しくって、
また、泣きそうになってしまう。
こらえるように深く息を吸い込んで、軽く目をつむる。
「欠点にしか見えない部分でも、ちゃんと意味があると思う」
この一言が、ずっと引っかかっている。
私の中にはずっと、“直さなきゃいけない自分”がいた。
言葉を上手く出せない自分。
緊張してしまう自分。
誰かの前で縮こまってしまう自分。
それらは全部、短所として積み重なっていた。
どうしようもない欠点。いらない部分。できることなら切り捨ててしまいたい。
でも彼は、それを欠点じゃなくて、
「かたち」だと言った。
いらないところでも、間違ったところでもない。
それも含めて私なんだ、って。
小さく指を握る。
まだ、うまく飲み込めない。
こう考えたって、急に話せるようになるわけじゃない。
でも、ちょっとだけ不安が薄れた気がする。
私はたぶん、初めてだった。
「直さなくていい」と言われて、
それでも置いていかれた気がしなかったのは。
彼のことを考えると、
胸がどきどきして、軽く呼吸が浅くなる。
どうして、彼の言葉はこんなにまっすぐなんだろう。
どうして彼は、私の嫌いな部分を見ても平気なんだろう。
彼は、どうやって世界をみてるんだろう。
知りたいことが、たくさん出てくる。
彼の…考え方を知りたい。
ふっと息を吐いて、
風で揺れるカーテンのほうを見る。
でも本当は。
ただ彼に依存してるだけかもしれない。
どんなに私がダメで、
人と話せなくて、
そんな自分のことが大嫌いでも
彼は私のことを裁かずに、全てを受け止めてくれる。
だから、
ダメな自分でもこのままでいいんだって思ってしまう。
自分の全てを認めてくれる人を、
好きになるなっていう方が難しいと思う。
だから…だからこそ、もう他の人と無理につながる必要はない、と思ってしまう自分もいる。
誰かと話して傷つくくらいだったら
彼とだけ一緒にいて
彼にだけ甘えて
彼と__
ここまで考えて、
深く深呼吸する。
肺が空気に満たされて広がる感覚があるものの、
胸のざわつきが収まることはない。
私の中には
彼の生き方を学びたいという自分と、
彼とだけ、閉じた世界に籠りたいという自分がいて、
結局朝日が差し込んでくるまで眠れなかった。




