7:32の朝、紙がある
■第1章
目が覚める。
視界の端に、デジタル時計の数字が入る。
7:32
──またこの時間だ。
そう思った瞬間、思考が一度だけ止まる。
だが次の瞬間には、それは“当たり前の朝”として処理されている。
体を起こす。
カーテンの隙間から光が入っている。
朝だ。
何もおかしくない。
そう判断できてしまう程度には、普通の朝だった。
一度、目をこする。
もう一度、時計を見る。
7:32
さっきも見た気がする。
そんな違和感が一瞬だけ浮かぶが、すぐに消える。
──気のせいだ。
そういう処理だけが残る。
ベッドから降りる。
顔を洗う。
水が少し冷たい。
タオルで拭いて、部屋に戻る。
その時、机の上に“それ”があることに気づく。
白い紙。
折り目もない。
ただ、そこにある。
誰かが置いたのか、自分が置いたのか、それすら分からない。
手に取る。
日付。
場所。
時間。
それだけが書かれている。
意味はないはずなのに、妙に具体的だ。
今日の日付。
見慣れた場所。
そして──7:32。
一瞬だけ、呼吸が止まる。
だが次の瞬間には、その違和感は薄れている。
「……まあいいか」
そう言うように、紙を机に戻す。
理由は分からないが、気にする必要はないと感じている。
制服に着替える。
鞄を持つ。
玄関を出る。
外の空気は少し冷たい。
それだけは、いつも通りだと思う。
駅へ向かう道。
人の流れ。
見慣れた景色。
何も変ではない。
ただ一つだけ、頭の片隅に“紙のこと”が残っている。
だがそれも、すぐに日常に溶けていく。
放課後。
校門の前で足を止める。
少しだけ迷う。
来るかどうか分からないと思っていた相手が、そこにいる。
少し離れた場所で、こちらを見ている。
「来たんだ」
先輩はそう言って、軽く笑う。
「約束したから」
そう答える。
その言葉に、特別な意味はないはずだった。
だが──
「約束ってさ」
先輩は少しだけ間を置いて続ける。
「守るためじゃなくて、確認するためにあると思ってる」
「確認?」
「来るかどうかの」
軽い言い方だった。
軽いはずなのに、どこか引っかかる。
「今日は来たね」
「……まあ」
それ以上、会話は続かない。
並んで歩く。
喫茶店へ向かう。
小さなベルの音。
席に座る。
窓際。
いつも通りの景色。
メニューを開く。
特に変わったものはない。
「何にする?」
先輩が聞く。
「コーヒーでいいや」
「同じのでいい?」
「うん」
店員を呼ぶ。
注文する。
「コーヒー二つでよろしいですか」
「はい」
その瞬間──
「コーヒー二つでよろしいですか」
もう一度、同じ言葉が重なる。
同じ声。
同じ意味。
一瞬だけ、空気がずれる。
だが誰も気にしていない。
「……はい」
先輩が普通に答える。
店員は去る。
机の上に戻したはずの紙を、もう一度見る。
さっきと同じ紙。
同じ日付。
同じ場所。
同じ時間。
7:32
──のはずだった。
だが、一つだけ違っていた。
さっきは無かったはずの一行が、そこにある。
「さっき確認したはずだ」
一瞬、息が止まる。
確認した?
誰が?
自分が?
それとも──
視線を紙から外す。
机。
部屋。
すべてはいつも通りのはずだ。
だが、“いつも通りだと確認した記憶”だけが、少しだけずれている。
「……なんだよ、これ」
声は出るが、意味が追いついていない。
もう一度紙を見る。
そこには、もう一行増えている。
「気づくのが遅い」
その瞬間、紙を机に戻した“はずの記憶”が、曖昧になる。
そしてふと、気づく。
最初から、この紙は──
一度も机に戻されていない。




