第9話 悪夢
「……した? 大丈夫か?」
目覚めると、全身にぐっしょりと汗をかいていた。
そして、目の前にエリアスがいた。
なぜだろう。
彼も一緒に死んだはずでは——。
と、疑問に感じたところでローゼは思い出した。
エリアスは自分の夫で、自分も彼もまだ生きている——今回は。
昨夜、エリアスが居間で剣の手入れをしていた。
その刀身を見たせいで前世を思い出し、悪夢にうなされてしまったのだろう。
あの剣は近衛騎士への支給品で、ローゼたちを刺し貫いたものと同じ型番、同じ長さと鋭さだったので。
エリアスは腰をかがめ、眉間に皺を寄せてこちらを見つめている。
その表情から、自分を心配して起こしてくれたのだろうとわかった。
廊下まで悪夢にうなされるローゼの声が聞こえていたのだろう。
気がつけば日は完全に昇っていた。
騎士の妻ともあろう者が、寝過ごして朝食の支度もできなかったというのに、エリアスに怒る気配はない。
ただ純粋にローゼを気遣ってくれているようだ。
(——やっぱり、今世でもエリアスは優しい)
ローゼの頬は自然とほころんだ。
その顔をまともに見たエリアスの頬が、さっと上気する。
彼は寝台の上の妻から目をそらした。
とたんに、ローゼは申し訳なくなった。
おそらくテオフィルから妻に冷たくしろと命じられている優しい夫の手を煩わせ、寝室に足を踏み入れさせてしまったことに。
彼はあまりの気まずさに目をそらしたのだろう。
「ごめんなさい、ちょっと怖い夢を見てうなされただけ」
「怖い夢? ……どんな」
尋ねてから、彼は「しまった」という顔をした。
踏みこみ過ぎたと思ったのだろう。
部屋に入り、眠っているローゼを起こした時点で、もう踏みこみ過ぎているのに。
エリアスは返事を待たずに立ち上がり、踵を返した。
取ってつけたようにそっけなく言う。
「いってくる」
既に赤髪をきっちりと整え、白シャツに黒ズボン、足元は軍靴という出で立ちだった。
あとは黒の上着に袖を通せば皇宮の近衛騎士の完成だ。
シャツの袖には、昨日ローゼが暖炉の灰から発掘したカフスボタンが嵌まっていた。
紋章が彫られた純銀が朝の白い光を弾く。
それは凛々しい彼によく似合っていた。
さっそく着けてくれているのがうれしくて、笑顔で言った。
「いってらっしゃい」
エリアスは部屋の入り口でぴたりと足を止めた。
振り向こうかどうしようか迷っているような一瞬の間。
結局、返事のように軽く片手だけ上げ、部屋を出た。
ちらりと見えた横顔が、かすかに赤味を帯びていたように見えたのは気のせいだろうか。
♢
公爵令嬢ローゼ・デア・アルノルトとして生まれ、今は騎士エリアス・クロイツェルの妻となったローゼ・クロイツェルは、二度目の人生を生きている。
前世の記憶を取り戻したのは三年前。
ローゼが十五歳のときだった。
そのときローゼは、婚約者である皇太子テオフィルと皇宮の庭園で茶を飲んでいた。
離れた場所に三十代の金髪の近衛騎士が立っていた。
この頃はエリアスはまだ新人近衛騎士で皇宮警備を担当していた。
近衛騎士隊長を務めるエリアスの父もまだ存命で、皇帝の傍らで警護をしていた。
十五歳のローゼは純真で愛らしい少女だった。
美しく如才ない皇太子のテオフィルに夢中で、十六歳のテオフィルもまた「可愛いローゼの傍にいると癒やされるよ」と笑い、婚約者を丁重に扱っていた。
皇宮でお茶をするときはいつも可愛らしい菓子が用意されていた。
蜂蜜や木の実の入った焼き菓子や、美しい色合いのゼリー。
ローゼの一番のお気に入りは、心ときめく薔薇の花の砂糖漬けだった。
テオフィルはよくローゼにこんなことを囁いた。
「きみの青い瞳にきらめく、星のような金色が好き」と。
帝国中の女の子が憧れる皇太子からこんなにも特別扱いされていることが嬉しくて、ローゼはますます彼に恋をした。
テオフィルと茶を飲んでいたら、突如、宮殿が騒がしくなった。
ローゼがあとから知ったところによると、このとき、エスヴァルト帝国により二年前に属国化された辺境の異民族の男が単身で皇宮に乗り込み、皇帝に襲いかかったそうだ。
宮廷内は一時騒然となったが、エリアスの父が即座に男を拘束して事なきを得た。
だがそんな事情よりも、ローゼの目はあるものに釘付けになった。
テオフィルの警護をしていた金髪の近衛騎士が、騒ぎを聞いてすらりと抜き放った白刃に。
その瞬間。
視界が金色の光の洪水に襲われて。
物語のように前世の記憶が溢れてきた。
テオフィルに恋をして、結婚をして、裏切られ、軟禁され、殺された記憶。
あの剣。
覚えている。
前世で、あの鋭い切っ先がいくつも襲ってきた。
皇太子テオフィルの命令で。
ローゼは胃の中の物を全部吐きそうになった。
ついさっきまで、テオフィルと楽しく談笑しながら口に入れた茶と茶菓子を。
「殿下、ご令嬢、ここから動かないでください」
金髪の近衛騎士はそう言い、剣を握ったまま回廊で他の騎士を捕まえ事情を聞いた。
ローゼは青ざめた顔のままそれを見ていた。
テオフィルがテーブルの上のローゼの手に優しく自分の手を重ねた。
「心配しなくていいよ。うちの近衛騎士は優秀だ。賊の一人や二人、すぐに叩き潰す」
反射的に、ローゼはテオフィルの手を振り払った。
そしてすぐに立ち上がる。
あと一秒でも彼に触れていたら本当に吐きそうだったし、顔を見るのも声を聞くのも嫌だった。
テオフィルは怪訝そうにそんなローゼを見上げると、驚いたように目を瞠って尋ねた。
「ローゼ、その瞳……どうしたんだ?」
「……え?」
自分ではわからなかったが、ローゼの青い瞳からは金色の星がすべて消えていた。
テオフィルも立ち上がった。
彼女の瞳を近くで覗き込もうとする。
だが、ローゼはパッと身を翻した。
「申し訳ございません。気分がすぐれませんので、本日は失礼させていただきます」
早口で言うと、返事も聞かず足早に庭園を去った。




