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私を愛さないと言った騎士との案外幸福な結婚生活  作者: 岩上翠


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第8話 あの門をくぐれば

 皇宮は思った以上に広く、走っても走っても、堀はなかなか見えてこない。

 もうとっくにフローラが宮廷医を連れて離宮に戻り、ローゼが逃げたことを悟って侍女長に報告した頃だろう。

 すぐに皇太子にも知らせが行き、近衛騎士たちが捜索に駆り出されるはずだ。

 早く逃げないと見つかってしまう。


 遠くから複数の軍靴の音が聞こえた。

 木立の隙間から近衛騎士たちの制服が見える。

 反射的にローゼは木の陰に身を隠した。

 早い。

 もう、すぐ近くまで捜索の手が迫っている。


 ローゼは息もつかずに走った。

 自由は、あと少し手を伸ばせばつかめるほど近くにある。

 近衛騎士たちに追いつかれて、あの離宮に連れ戻されるなんてまっぴらだった。

 あと少し。

 もう少しで自由になれる。

 新しい人生を始められる。


 突然、うしろから手首をつかまれた。

 力強い男の手だった。

 心臓が止まりそうになった。

 振り向くと、近衛騎士エリアス・クロイツェルがそこにいた。

 いつも綺麗にうしろへ撫でつけている赤髪は乱れ、灰色の瞳には焦燥のようなものが浮かんでいる。

 ローゼはとっさに叫んだ。


「お願い、見逃して! 堀に飛びこんで逃げたらあなたに迷惑はむぐぐっ」


 エリアスは空いているほうの手でローゼの口を塞いだ。

 そのまま彼女の背を引き寄せて木陰に身を隠し、近くを通った近衛騎士たちをやりすごす。

 しばらくそのまま動かなかった。

 足音が遠ざかると、彼はようやく口を塞いでいた手を離し、小声で言った。


「堀はやめたほうがいいですよ。藻に足を取られて溺れた賊の死体がいくつも沈んでる」


 ローゼはゾッとした。

 ちょっと泳げる程度の自分では、堀に飛びこんだら最後、そのまま藻に絡まって二度と浮かんでこなかっただろう。

 おそるおそる彼を見上げる。


「……教えてくれてありがとう」


 彼は眉間に皺を寄せた。

 何かを逡巡するような()

 小さく吐息をつき、周囲を確認して早足で歩きだす。


「西の通用門にはこの時間は見張りがいません。少し遠いですが、そちらへ」


 手を引かれ、ローゼはきょとんとしながらも彼のあとについて歩きだした。


(――なぜ、助けてくれるのかしら?)


 理由はわからないが、皇太子テオフィルの信頼が一番厚そうなこの近衛騎士は、ローゼを助けてくれるつもりのようだ。

 正殿の横を通り、厩舎の陰に隠れる。

 慎重に人目を避けながら、雑木林の中を突っ切り、西の通用門へ。


 途中でローゼはくしゃみをした。

 秋の陽が落ちかけていた。

 雑木林の中は肌を刺すように空気が冷たく、薄物のドレス一枚のローゼにはこたえるだろう。

 エリアスは黙って上着を脱ぎ、彼女の肩にかけた。

 彼の体温が残ったそれは暖かかった。

 上着の端を合わせながら、我慢できずにローゼが尋ねた。


「どうして私を助けてくれるの?」


 エリアスはちらりとローゼを一瞥した。

 そのあとで、彼の袖を留めているカフスボタンに目を落とした。

 盾に月桂樹が彫られた純銀製の。

 クロイツェル家の紋章なのだろう。


「俺の父は、高潔な近衛騎士でした」


 低い声で言い、まっすぐにローゼを見た。


「殿下の横暴に屈しないあなたの姿も、私には高潔に映った」


 ローゼはエリアスを見上げた。

 近衛騎士は、常に皇太子に侍り身の安全を守る。

 騎士の中でも選ばれた者しかなれない特別な仕事だが、もし護衛対象が尊敬できない人物であれば、その仕事に誇りなど持てないだろう。

 父親が誇り高い人物であったならなおさらだ。

 忸怩たる毎日の中にあってもローゼが皇太子の理不尽な要求をはねのけたことが、彼には眩しく見えたのかもしれない。


 そしてまたローゼにとっても、エリアスの言葉は干からびた心に注がれた水のように清冽に感じられた。

 テオフィルに尊厳をずたずたに踏みにじられ、離宮に軟禁され放置されて、ローゼの心はずたずたに傷ついていた。

 半年もそんな状態ですっかり麻痺していたのだが、本当は痛みに悲鳴をあげていたのだ。

 けれど、自分の言葉で心を動かされた人がいて、自分を助けてくれる。

 そのことは、新しい世界へ踏み出そうとするローゼの背中を力強く押してくれた。


 ところが、ローゼが返事をする前に、雑木林の外が騒がしくなった。

 エリアスの顔つきが一瞬で険しいものに変わる。


「急ぎましょう」


 ふたたび手首をつかまれ、早足で歩く彼に必死についていく。

 少し進むと、雑木林の切れ間が見えてきた。

 その向こうには西の通用門。

 ローゼはほっと安堵のため息を漏らした。

 あの門をくぐれば、自由な身の上になれる。


 けれど。


 雑木林を抜けて通用門の前の石畳に出た瞬間、詰所の陰から現れた大勢の近衛騎士たちに取り囲まれた。

 エリアスもろともに円形に包囲され、一斉に剣の切っ先を突きつけられる。

 全身の血の気が引いた。

 ザッ、と足音がして、ローゼはうしろを振り向いた。

 テオフィルがポケットに手を突っこみ、笑顔で立っていた。


「鬼ごっこは終わりか? ……まさか、私の近衛騎士まで一緒に遊んでるとは思わなかったが」


 皇太子の粘っこい視線が、ローゼの肩にかけられた近衛騎士の上着に留まる。


「殿下、これは……」


 エリアスは弁明しなかった。

 できなかったのかもしれない。

 ローゼは足が震えそうになるのをこらえて言った。


「殿下、お願いです。私を解放してください。このように刃を向けられるようなことは何もしていません。どうか……」

「駄目だ」


 テオフィルは一蹴した。

 ローゼに近づき、腰をかがめて顔を覗きこんだ。


「ヘルミーネが妊娠した。皇太子妃の位を欲しがってる」


 その言葉を理解したとたん、ローゼの心が絶望に染まった。

 どれほど空虚な肩書とはいえ、今は自分が皇太子妃だ。

 そこから蹴落とされようとしている。

 テオフィルは目尻の下がった笑顔で告げた。

 かつてローゼが恋焦がれ、世界で一番魅力的だと思いこんでいた笑顔。


「ローゼ、おまえはもう要らなくなった。ここで()()しろ。死別なら、私の結婚歴もたいして汚れない」

「そんな……」


 蒼白になった妻に興味を失ったのか、テオフィルはちらりとその隣のエリアスを見た。

 ローゼと同じように青ざめ、拳は筋が浮き白くなるほど握りこまれている。

 重用していたはずの近衛騎士を見る皇太子の瞳には、なんの感情も宿っていないようだった。

 ただ、用済みになった玩具でも見るような目。


「……それと、飼い主に噛みつく犬も処分しないとな」


 違う。

 待って。

 彼は関係ない。

 そう言おうとしたのに、喉がカラカラで声が出せない。

 動悸だけが激しくなる。

 薄い笑みを浮かべたまま、テオフィルは近衛騎士たちに命じた。


「殺せ。二人とも」


 次の瞬間、あらゆる方向から剣の切っ先が襲いかかってきた。

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