第7話 逃亡
離婚、などという言葉が飛び出すとテオフィルは思っていなかったのだろう。
婚約していた十年間、ローゼは従順で優しかった。
ときにテオフィルが勝手なことを言ったり約束をすっぽかしたりしても、少し困った笑顔で「テオフィル様ったら」と穏やかに流して済ませていた。
そうするものだと、両親からも妃教育の教師からも言い聞かせられてきた。
だが放置された日々のあいだ、ローゼはフローラから市井の話を聞くだけではなく、自分が皇太子から受けた仕打ちについても話していた。
フローラは怒りの形相でこき下ろした。
「はぁっ!? ありえないですよそんなの! 宮殿に聖女を連れ込んで奥様を追い出すなんて……平民だったら、妻の親族総出で棒を持って夫を袋叩きにする案件ですそれ」
「棒を持って……」
「そうですよ! 奥様も遠慮しちゃいけません。皇太子だからなんなんですか。頬の一つや二つひっぱたいてくださいませ」
「ひっぱたく…………」
「ええ、力いっぱい。すっきりしますよ」
フローラはいい笑顔で断言した。
経験者だろうか。
けれど今、離宮の居間で皇太子テオフィルを前にしたローゼは、ひっぱたきたい衝動を全力で堪えていた。
壁際には帯剣している近衛騎士のエリアス・クロイツェルがいる。
さすがにその眼前で皇太子に暴行を加えたら、痴話喧嘩では済まれず不敬罪で捕まるだろう。
もしかしたらそのためにテオフィルは彼を連れてきたのかもしれない。
ただ、言いたいことは言えた。
離婚してください、と。
フローラのおかげだ。
従順なはずのローゼから離婚を切り出されたテオフィルは、口を半開きにしてぽかんとしていた。
ローゼは固唾を呑んで返事を待った。
もし離婚が成立したら公爵家に帰れる。
離婚歴は付くが、自由になれるのだ。
この軟禁状態から解放されて自由になったら、ローゼにはやりたいことがたくさんあった。
まず、市場に行ってみたい。
フローラによると町娘は自ら市場に行き、買い物をするという。
品物の良し悪しを自分の目で見定め、代金を払って購入する。
時々、おまけをしてもらうこともあるそうだ。
公爵家では商人を呼びつけて屋敷で品物を選ぶので、気がつくと常に最高級の新品が屋敷にあった。
ローゼが選ぶとしても、せいぜいドレスの色くらいだ。
デザインは母と侍女長が決めた。
公爵令嬢にふさわしい、厳選されたものを。
だから当然市場には行ったことがないし、食料品を買ったことももちろんない。
皇宮の城下町はエスヴァルト帝国で一番賑やかで、買えないものはないほどさまざまな物が売っているという。
その市場へ行き、自分の目で選んだ野菜や肉を買って自分の食べたいものを料理できたら、どんなに楽しいだろうか。
離宮に軟禁され、同じような粗末な食事を日に二度しか出されないローゼは、美味しい料理に飢えていた。
それから、ローゼは洗濯も掃除もしてみたかった。
公爵家ではいつも染みや皺のない清潔な衣装やリネンが用意されていた。
ローゼは疑問も持たず毎日それを享受していた。
けれども結婚して閉じ込められた離宮では違った。
ドレスやリネンが汚れてもすぐには替えてもらえず、それなら自分で洗うと言ったら、許可が下りませんと申し訳なさそうにフローラに断られた。
一応は帝国の皇太子妃なのだから、洗濯などさせられないということだろう。
同じ理由で掃除も禁じられた。
埃が溜まっても、はたきや箒どころか、雑巾一枚すら与えられない。
フローラが教えてくれた方法で、思う存分掃除がしてみたかった。
紅茶の茶殻を床に撒いて掃く。
なんて楽しそうなやり方だろう。
この汚れた床でそれをやってみたい。
以前はまったく興味のなかった箒が、今はドレスや宝石よりも欲しい物になった。
離婚ができれば。
次の縁談なんてなくてもいい。
もう男性に振り回されるのはこりごりだ。
実家の公爵家は弟が継ぐのでローゼの居場所はないけれど、修道院でもどこでもいい。
自分で選んだ場所で、自分で選んだ生活をしたかった。
だがテオフィルはそれを許さなかった。
彼の顔から笑顔が消えた。
ゾッとするほど冷たい目がローゼに向けられる。
「何を馬鹿なことを。離婚など許すわけがないだろう。私の人生に傷を付けるつもりか」
人生に傷。
彼にとってはローゼの願いなどはどうでもよく、自分の経歴に傷がつくことのほうがよっぽど重要なのだ。
わかっていたことだが。
「……ですが、私は皇太子妃です。このような仕打ちを受けるいわれはありません」
ひるみかけた心を叱咤して食い下がる。
けれどテオフィルは、ただうんざりしたように額を押さえ、天井を仰いだ。
「情けをかけてお飾りの妃にしてやったのに、なんだその態度は。ああ失敗した。こんなに傲慢な女だとは思わなかった」
情け。お飾り。
テオフィルはこの状態をありがたがれとローゼに言っているらしい。
なぜこのような人と結婚してしまったのだろう。
まるで慈悲を垂れるように、彼がほほえんだ。
「ローゼ、最後の機会を与えてやる。跪いて許しを乞え。そうすればさっきの態度は水に流してやるよ」
「お断りいたします」
即答だった。
テオフィルの顔から表情が完全に消えた。
壁際では、エリアスが信じられないものを見たという顔をしている。
ローゼはきっぱりと言った。
「あなたのような人に跪くくらいなら、ここに一人でいるほうがずっとましです」
死ぬほど腹が立つが、この手でテオフィルをひっぱたくことはできない。
だから、言葉でひっぱたくことにした。
効果はてきめんだった。
テオフィルは歯を食いしばり、頬を張られたかのようにぶるぶると拳を震わせた。
そして一瞬、ちらりとエリアスのほうを見る。
殴りたいのを我慢しているのかもしれない。
近衛騎士の前だから。
エリアスはどちらにせよ抑止力となるらしい。
「……そうか。ではここで朽ち果てろ」
そう言い捨てて彼は離宮を出ていった。
少し遅れてエリアスが続く。
扉が閉まった。
離宮は何事もなかったかのように静まり返った。
それからさらに三か月が経った。
ローゼは離宮に閉じこめられたままであった。
夫の皇太子も父の公爵も訪れず、窓を叩くのは風の音だけ。
それでもフローラの話を聞けば気は紛れた。
市井の人々は貧しくとも充実した人生を送っているように思えた。
自分も町娘として生まれていたら、という空想が唯一の慰めだった。
もしそうだったなら、少なくとも、離宮に閉じこめられ生きながら死んでいるような毎日を送ることはなかっただろう。
ローゼは逃げることにした。
窓には鉄格子が嵌まり、玄関には外から錠がかかっている。
だから、仮病を使おうと決めた。
夕方、フローラが食事を運んでくると同時に居間の床に倒れ、胸を掻きむしって苦悶の表情を浮かべる。
以前皇宮の夜会で、そんな風に苦しんでいる人を見たことがあったのだ。
実行前には、鏡の前で何度も練習した。
ある秋の日。
曇天が広がる肌寒い昼どきに、ローゼは計画を実行した。
いつものようにフローラが玄関扉を開けた。
そのとたん、居間に倒れ、迫真の演技でもがき苦しむローゼが目に飛びこんだ。
練習が功を奏したのだろうか。
フローラは泡を食って「奥様! 宮廷医を呼んできます!」と叫び、正殿のほうに駆けていった。
玄関扉を開けたままで。
足音が遠ざかった。
ローゼはむくりと起き上がった。
それから、開いたままの玄関扉から急いで逃げ出した。
離宮の裏に広がる木立の中を、自由を目指して駆けていく。
皇宮は広大だ。
女一人を見つけるのには時間がかかるだろう。
敷地はぐるりと高い塀と深い堀に囲まれているが、堀まで辿り着ければ、ローゼは泳いで逃げられる。
娘を皇太子の婚約者にさせるため、公爵はローゼが幼い頃からさまざまな習い事をさせていた。
その習い事の中に、水泳も入っていたのだ。
もしも、無事に皇宮から出ることができたら。
ローゼはまっさきに城下町の東通りにあるパン屋に行くつもりだった。
フローラの話では、そこには気のいいおかみさんがいて、町の人たちにあれこれと世話を焼いているのだそうだ。
その人に頼めば、もしかしたら住み込みで働かせてくれるかもしれない。
来る日も来る日もフローラの話を聞いていたローゼからは、平民への偏見が消え去り、ただ憧れだけを抱いていた。
もう貴族はうんざりだった。
平民として自由に平穏に暮らしたい。
そんな強い渇望を胸に抱きながら、ローゼは布靴が汚れるのも構わず走った。




