第6話 皇太子との結婚
公爵令嬢ローゼ・デア・アルノルトは、皇太子テオフィル・ツァー・エスヴァルトと一度、結婚していた。
ローゼが十八歳の夏のことだ。
挙式は盛大に行われ、皇太子と公爵令嬢の結婚を国中が祝った。
花嫁のローゼは幸せだった。
花婿の皇太子テオフィルは黒髪の似合う細身の美男子で、洒落者でどんな服も着こなし、才気煥発で常に宮廷の中心にいた。
彼に恋をする令嬢は両手の指でも数えきれないほどだった。
ローゼもその一人である。
十三歳で彼の婚約者になって以来、ローゼは厳しい妃教育にも耐え、持ち前の純真無垢な笑顔でテオフィルの心を癒やしてきた。
テオフィルもまた、婚約者のことを気に入っていた。
ローゼの明るく可愛らしい性格は彼にとって好ましいものだった。
金色の髪と整った目鼻立ちは美しかったし、何より青に金色の星が散りばめられた瞳はとても珍しかった。
ほかの貴族令嬢は一人もそんな瞳を持っていない。
皇太子と公爵令嬢は誰が見てもお似合いだった。
二人は当然のように幸福な結婚生活を送るはずだった。
ところが。
絢爛豪華な結婚式が終わり、皇宮の広い寝室にテオフィルが入ってきたとき。
待っていたローゼに彼は笑って告げた。
「ローゼ、この寝室は私とヘルミーネが使う。おまえは離宮に行ってくれ」
しばらく、ローゼは自分が何を言われたかわからなかった。
固まった笑顔のまま尋ねる。
「………………え? テオフィル様、今、なんと……」
「ああ、面倒だ。私に聞き返すな。クロイツェル、この女を離宮に連れていけ」
彼は笑みをスッと消し、冷ややかな声で背後に控えていた近衛騎士に命じた。
近衛騎士のエリアス・クロイツェルは無表情で静かに「御意」と答え、寝室に入ってきた。
夜着のローゼからわずかに視線をそらし、慇懃に言う。
「ご同行を願います」
ローゼは目を見開いた。
自分は公爵令嬢で皇太子の花嫁のはずだ。
それなのになぜ、夜着のまま寝室から追い出され、近衛騎士によって離宮に連れていかれなければならないのか。
その答えはすぐにわかった。
さらにもう一人、銀髪の美しい女が寝室に入ってきて、テオフィルの腕に絡みついたからだ。
聖女ヘルミーネ。
ひと月前、この帝国に百年ぶりに聖女が現れたとは聞いていた。
テオフィルの態度も、そういえばここひと月は素っ気なく、約束をすっぽかされたことも何度かあった。
だが、そのあいだに自分の婚約者が聖女に篭絡されていたなどとは、純真なローゼは露ほども疑っていなかったのだ。
ヘルミーネはローゼのことを完全に無視して、テオフィルに甘えるように言った。
「ここがあたしたちの寝室? 広くて素敵ね」
「そうだろう。バルコニーからは星が綺麗に見えるんだ。……おいクロイツェル、早くしろ」
皇太子の口調の前半は甘ったるく、後半は苛立っていた。
エリアスは動かずにじっと待った。
視線は夜着のローゼから少しだけ外したまま。
ローゼは全身を強張らせ、一度、すがるようにテオフィルを見た。
夫のテオフィルは、妻のローゼではなくヘルミーネの肩を抱いてバルコニーに連れていき、甘い言葉を囁いていた。
その姿を見ると胸がずたずたに引き裂かれた。
唇がかすかに動いたが、何を言っても無駄だとわかっていた。
十年間もテオフィルの婚約者だったのだ。
興味がなくなった玩具にどういう扱いをするかなど、よく知っている。
ローゼはテオフィルに声をかけず、静かに立ち上がって寝室を出た。
エリアスも黙って続いた。
暖炉で暖められていた寝室と違い、廊下は寒かった。
ローゼが肩を震わせる。
それを見たエリアスは一瞬躊躇い、自分の上着を脱ぐと「失礼」と言って彼女の肩にかけた。
寒さと、見た目の問題だろう。
皇太子妃を夜着で歩かせるわけにはいかないという配慮。
シャツ一枚になったエリアスの袖には、盾に月桂樹の紋章が入ったカフスボタンが光っていた。
この状況についていけないローゼは混乱したまま、そのカフスボタンを見つめ、彼のあとをついて歩いた。
本殿を出てしばらく歩くと、小ぢんまりとした離宮に着いた。
エリアスが鍵を開け、玄関扉を開けた。
室内には燭台の明かりが灯り、暖炉にも火が入っていた。
一応、ここで生活できるよう手が入れられていることに安堵する。
同時に、本当にこの離宮に追いやられたのだという惨めさにも襲われたが。
一歩中に入った。
エリアスは入らず、玄関の外に立っている。
ローゼは上着を借りていたことを思い出すと、肩から外して軽くたたみ、彼に返した。
絶望の中にいながらも、背筋を伸ばしたその姿勢も礼を言うときの発音も、完璧な公爵令嬢のものだった。
「ありがとう存じます」
彼はわずかに目を見開いた。
「……礼など不要です」
感情のこもらない声で言い、エリアスは扉を閉めた。
そして、外からガチャリ、と鍵をかけた。
ローゼは皇宮の外れ、鬱蒼とした木立の中にある離宮に軟禁された。
窓には鉄格子が嵌まっていて、玄関には常時外側から鍵がかけられている。
食事は日に二度、メイドが運んできた。
公爵家では考えられないような粗末な食事だった。
まるで囚人のような生活が始まった。
会う人間は世話係のメイドたった一人。
離宮からは一歩も出られず、手紙も出せない。
刃物は果物を剥くナイフどころか、刺繍針すら禁じられた。
そのくせ、ペンとインク壺だけは備えてあった。
閉じこめられているのに、皇太子妃としての公務の書類仕事はとめどなく回ってくる。
せっかく施した妃教育の元手を回収しようとでもいうつもりだろうか。
文句を言う相手のテオフィルは自分に会いに来ない。
他にすることは何もない。
仕方がないから、離宮に閉じこめられながら、ローゼは皇太子妃としての仕事を淡々とこなした。
皇太子妃としての扱いは何一つ受けていないのに。
何度皇太子に面会を求めても無駄だった。
それならばと公爵である父に面会を求めたが、それも無駄だった。
長いものには巻かれる主義の父は、もしかしたらローゼの現状を知った上で無視しているのかもしれない。
外界との接触は完全に絶たれ、テオフィルは一度も会いに来ない。
対外的には「皇太子妃は臥せっている」ということになっているようだ。
楽しみは何もなかった。
メイドのフローラと話すこと以外は。
フローラはローゼと同じ十八歳。
金茶色の髪と瞳を持ち、かわいらしいそばかすの散った城下町育ちの娘だ。
身分が低いため、正殿ではなく離宮の仕事に回されたのだという。
貧乏くじを引かされたようなものだが、フローラは正殿の堅苦しい雰囲気よりもこちらのほうがずっといいと言って笑った。
そして暇を持て余しているローゼに、時間の許す限り、市井の暮らしについて生き生きと話してくれた。
フローラは働き者で、家事のことならなんでも知っていた。
洗濯の仕方、効率のいい床掃除の方法、暖炉のすす払いのやり方。
元々は城下町の裕福な家で使用人をしていたが、雇い主の都合で暇を出され、給料のいい皇宮の仕事に応募したのだという。
もうすぐ幼馴染みと結婚するので、その資金を貯めているそうだ。
ローゼは自分と同い年のフローラの話を聞きながら、心の底から彼女をうらやんだ。
公爵令嬢だけど、皇太子妃だけど、自分はちっとも幸せじゃない。
ただの町娘のフローラのほうが何十倍も幸せそうだった。
軟禁されて三か月目。
季節は秋になっていた。
ローゼはまだ病で臥せっていることになっているらしい。
書類仕事は滞りなく、なんなら精度も上がっているというのに笑える。
ある日の夕方。
なんの先触れもなく、テオフィルが離宮を訪れた。
背後には赤髪の近衛騎士エリアスが控えている。
テオフィルは屈託のない笑みを浮かべた。
「久しぶりだな、ローゼ。元気か?」
「テオフィル様……」
驚くローゼに構わず、彼は無遠慮に中に入った。
居間の長椅子にどかっと腰を下ろす。
エリアスもそのあとから入り、気配を消して壁際に控えた。
ローゼがテオフィルに言いたいことは山ほどあったが、いざ目の前に現れると、何から言えばいいのかわからなくなる。
警戒しながら、向かいの椅子に腰を下ろした。
テオフィルは肘掛けに頬杖をついた。
「やっと会いに来れた。ヘルミーネのやつが嫉妬深くてさぁ……でもあいつ今、教会の行事で遠くに行ってるからいないんだ。夫婦でゆっくりするのは、結婚後初めてだな」
ローゼは目を丸くした。
夫婦でゆっくり?
結婚後初めて?
しれっとした顔で、この軟禁を存在しないものとして話を進めている。
テオフィルは笑った。
自分の笑顔で女が喜ぶことを熟知している男の笑い方だ。
「前みたいに、可愛いおまえに癒やされたいんだ。今夜は傍にいてやれるから……な?」
「お断りします」
考えるより先に口が動いていた。
テオフィルは頬杖をつくのをやめ、顔を上げた。
壁際のエリアスも、さりげなく目線をこちらに向けた。
可愛げの欠片もない口調で、ローゼはきっぱりと言った。
「離婚してください、殿下」




