第5話 カフスボタン
翌日、皇城にある皇太子の執務室に行ったエリアスは、机に足を乗せて書類を見ているテオフィルに妻の動向を報告した。
傍には聖女ヘルミーネが座っていて、皇太子の腕にからみついている。
あれで仕事ができるのだろうか。
「彼女は昨日、洗濯をしていました」
短く、それだけを告げる。
自発的に館中のリネンを洗っていたとか、なんだか楽しそうだった、などとは言わない。
よけいなことを言って皇太子の興味を引く必要はない。
テオフィルはつまらなさそうに、書類から視線だけを上げた。
「それで? 泣き言の一つも漏らしたか」
「いえ。大変そうでしたが」
ローゼは小柄なので大変そうではあった。
だが、泣き言は漏らしそうにない。
チッと小さく舌打ちして、テオフィルは厭味ったらしく書類をぱたぱたと振った。
「もっときつい家事をさせろ。床磨きでも暖炉掃除でも。灰にまみれさせて」
「……御意」
近衛騎士が皇太子に反抗するなどありえない。
拝命して執務室を出た。
扉を閉めると、エリアスは険しい表情を浮かべたまま、歩きだした。
近衛騎士だった父は、現皇帝ニコラウスと良い関係を築いていた。
一臣下に過ぎなかったが、皇帝から長年の献身を認められ、まるで友人同士のように気安く会話することもあった。
そこには揺るぎない信頼関係と互いへの敬愛の情が感じられた。
今のエリアスと皇太子は、その二人の関係からは程遠い。
磨き上げられた大理石の床を歩きながら、エリアスはふと、シャツのカフスボタンに目を落とした。
大きさの合っていないカフスボタン。
本来つけていたものは失くしてしまった。
そのことが、今はよけいに苛立たしかった。
任務を終え、騎馬で館に帰った。
扉を開けて中に入る。
一目見て立ち尽くした。
床も、家具も、階段の手すりまで。
あらゆる場所がピカピカに磨き上げられていた。
「……これは……」
通いの使用人のペトラが来るのは明日で、今日ではない。
清潔な水の匂いと共に、かすかに紅茶の残り香がした。
出涸らしの茶葉を撒いて掃除したのだろう。
たしか昔、こうすると汚れがよく落ちるんですよ、と言いながら茶葉を撒いて掃き掃除をしていた使用人がいたから。
足の裏が映るほど磨き上げられた床を歩き、居間の扉を開けた。
妻は、元公爵令嬢で皇太子の婚約者だった。
その彼女が、髪を結びエプロンをして四つん這いになって、暖炉の掃除をしていた。
思わず気の抜けた声が出た。
「……何をしている」
「あら、おかえりなさい。灰が溜まっていたから掃除をしていたの」
振り向き、澄まして答えたローゼの顔は、すすで黒く汚れていた。
手にはオイルをしみこませた布を持っている。
横に置いてあるのはブラシと紙やすり。
鉄製の灰入れには掻き出した灰がこんもりと溜まっていた。
本格的な掃除だ。
暖炉は見違えたように綺麗になっている。
だが、なぜ数日前まで公爵令嬢だった彼女が、暖炉掃除のやり方を知っているのか。
けれどそれを尋ねることは、初夜に「愛さない」と言った自分から境界線を踏み越えるようで、できなかった。
代わりに出た言葉は思いのほか強い口調になった。
「そこまでしなくていい」
言ってから、これでは皇太子の命に背くことになると気づき、いや程度の問題だと思い直す。
ここまで、灰の一欠片も残さないほど徹底的にやれとは言われていない。
屁理屈かもしれないが、目の前のすすのついた顔を見ると、なぜか自分が灰を飲み込まされたような苦い気分になった。
だがローゼは気にした様子もなく、道具を片付けながら言った。
「一度やってみたかったの。思った以上に楽し……んんっ、館の衛生管理に必要なことだったので」
「今、楽しいと言おうとしなかったか」
「いいえ」
もう一度咳払いをして誤魔化すローゼを、エリアスは戸惑いながら見下ろした。
彼女は手を拭き、顔を上げた。
「それで……暖炉の隅から、これを見つけたわ」
薄い布にくるまれた小さな物を、丁寧に差し出す。
エリアスはそれを受けとり、布をめくった。
中に入っていたのはカフスボタンだった。
中央に盾、その周囲に月桂樹。
クロイツェル家の紋章が浮き彫りになった、純銀のもの。
エリアスは言葉を失った。
ローゼはまっすぐに彼を見上げた。
「大事なものなのでしょう?」
「……ああ。父の形見だ。失くしたと思っていたんだが……そんなところにあったのか」
少しだけ声が震えた。
カフスは暖炉の熱で溶けることもなく、美しい輝きを保っていた。
すすで汚れた顔で、ローゼは嬉しそうに笑った。
「見つかってよかったわ」
その笑顔に胸が締めつけられた。
世間では気難しいと言われている彼女が、公の場では決して見せない表情。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
エリアスは金の髪についた灰を見つけた。
それを取ろうと手を伸ばす。
だが、その前に彼女はくるりと背を向け、道具を片付けに行ってしまった。
伸ばした手は宙ぶらりんになった。
夕食は腸詰めと野菜を焼いたもの、それからパンだった。
腸詰めは表面が焦げていて中は冷たかったけれど、昨日の水のごときスープよりはましだった。
野菜も黒焦げのものと生に近いものがあった。
しかし、その中間の、上手く焼けたものも少量だけ交じっていた。
緊張の面持ちで自分を見つめる妻の顔は、しっかりと拭いたのだろうがまだ少し黒かった。
焼いたカボチャを食べたエリアスは、ふっと頬をゆるめた。
「これはいい焼き具合だ」
「そう。よかったわ」
ローゼの口調はそっけなかったが、うれしさが滲んでいた。
浴室で湯浴みしたあと、エリアスは居間で剣の手入れをしていた。
普段は自室でするのだが、今日は居間の長椅子に腰を下ろし、布で刃を拭いている。
やたらと丁寧に時間をかけて拭いていると、湯上りのローゼが通りかかった。
この先に二階の寝室への階段がある。
「ローゼ」
エリアスは剣を拭く手を止め、妻の名を呼んだ。
名を呼ぶのは初めてで、少し緊張する。
彼女が足を止め、こちらを見た気配がした。
顔を上げて早口でローゼに言う。
「カフスを見つけてくれた礼をしたい。何か欲しいものがあれば……」
言葉は途中で消えた。
ローゼが真っ青な顔で口元を押さえ、肩を小刻みに震わせていたからだ。
彼女の青い目が大きく見開かれ、エリアスの剣にぴたりと吸い寄せられている。
どう見ても尋常な反応ではなかった。
エリアスはすぐに剣を置き、立ち上がった。
「どうした。大丈夫か」
「……なんでもないわ」
近寄ろうとしたとたん、彼女はパッと身を翻し、逃げるように階段を上っていった。
その小柄な背中を、エリアスはあっけにとられて見送った。
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