第33話 対決④
しん……と人で埋まった堂内が静まり返る。
次の瞬間。
どっと、大聖堂が沸いた。
やんやの大歓声だ。
頑丈な石造りの建物が割れそうなほどの。
王家の忠実な僕であるはずの近衛騎士が、皇太子に噛みついた。
皇太子妃になるために十年妃教育を受けたのに、聖女に心変わりされ婚約破棄されて騎士に与えられ、名誉を踏みにじられた妻を守って。
なんと痛快な近衛騎士だろう。
人々は惜しみなくエリアスに拍手喝采を浴びせた。
一方、庇われたローゼの頬は、林檎のように真っ赤になっていた。
目の前にあるのは広い背中と凛々しい横顔。
こんなの打ち合わせにはなかった。
ばくばくと心臓が暴れている。
また、助けられた。
世界中の誰よりも頼りになる近衛騎士に。
(……なんてこと、私の夫が格好よすぎるわ……!)
恋心があふれすぎて目が回りそうだったが、今はこの場を回さなくてはならない。
頬の赤味よ引いてと祈りながら、一歩前に出て、テオフィルに言った。
「殿下、これは反逆罪ではございません。私たちは主命にかなう行いをしております」
「どこがだ! 私はこのような命令を下した覚えなど……」
ローゼはにこりと笑った。
妃教育で叩きこまれた、口の角度も目の細め方も完璧な笑み。
「いいえ、皇太子殿下。あなたのご命令ではございません。われらが帝国臣民の君主、皇帝陛下のご命令ですわ」
「……は……?」
テオフィルがあんぐりと口を開けた。
脳が理解を拒否しているかのような顔だ。
だが、祭壇のうしろの扉が開き、そこから出てきた人物を見たとたん、彼も理解せざるを得なくなった。
現れたのは病床に就いているはずのテオフィルの父親。
現皇帝、ニコラウスだった。
長い闘病生活で頬はげっそりとこけ、大柄な体は痛々しいほど痩せてしまっている。
けれども、青灰色の瞳に宿る知性は少しも変わっていない。
まだ歩くこともつらいはずだが、ニコラウスは杖もつかずに立っていた。
弱っているところを民に見せるわけにはいかないという皇帝の矜持だろう。
すぐにイルムヒルトが駆け寄って彼を支えた。
皇帝の鋭い顔つきが、少しだけやわらいだ。
聖女の儀式の数日前。
ローゼはイルムヒルトを連れ、エリアスの手引きで皇宮に忍びこんだ。
近衛騎士として皇宮内の抜け道を熟知しているエリアスについていき、本殿の最奥部にある皇帝の私室に入る。
ローゼが会わせてほしいとエリアスに頼んだ二人目の人物は、皇帝陛下その人だった。
そこは広く、薄暗く、仄かに薬湯の匂いのする部屋だった。
ニコラウスは奥の寝台に横たわっていた。
話はエリアスが通してくれていた。
前近衛騎士隊長であり、友でもあったアルバン・クロイツェルの息子の頼みを、ニコラウスが断るわけもない。
皇帝は寝台から起き上がろうとしたが、病に蝕まれた体ではそれもかなわなかった。
イルムヒルトがそっと歩み寄り、皇帝の枕元に膝をついた。
優しくほほえみ、彼の土気色の手を両手で握る。
「陛下、お手を失礼いたします……少しは楽になるかもしれません」
まだ聖女の儀式前で、本格的に力は解放されていない。
だがイルムヒルトが癒やしの力を注ぐと、ニコラウスの顔色は目に見えて良くなった。
起き上るほどまではいかない。
でも、目を見て会話する程度なら難なくできる。
ニコラウスは驚き、喜んだ。
そしてローゼたちの話を聞くと、自分の息子の所業に呆れはて――そして、決断を下したのだった。
大聖堂、礼拝堂。
儀式はまだ中断されている。
人々の注目を一身に浴びた皇帝は、新たな聖女イルムヒルトに支えられながら、息子である皇太子に相対していた。
「テオフィル……残念だ。おまえがここまで愚かだったとは」
「ち、父上、違うのです。私はただ陥れられただけで……」
青ざめながらも、テオフィルはへらりと笑って言い逃れをしようとした。
息子のその態度に、ニコラウスはますます表情を険しくした。
皇太子は有能な公爵令嬢を捨て、どこの馬の骨とも知れない聖女を勝手に婚約者にすげ替えた。
そして、金を浪費するだけで役に立たない聖女の言いなりとなり、新たに見つかった本物らしき聖女を毒殺しようとした。
病に苦しむ父を見殺しにして。
久方ぶりに公の場に姿を現した皇帝は、冷酷で利己的な皇太子を一喝した。
「陥れられた? 何を言っている。もしそうであれば、尚更そのような暗愚な者にこの帝国を率いることなどできぬわ!」
衰弱しているとはいえ、皇帝の叱責には凄味があった。
テオフィルがすくみ上がる。
だがすぐに眉を吊り上げて叫んだ。
「……しかし、皇太子は私です! 臆病者の弟ではなく!」
皇族席に静かに座り、成り行きを見守っていた第二皇子のダミアンが、びくりと肩を震わせた。
癖のある栗色の髪に同じ色の瞳。
柔和な顔立ちに中肉中背の彼はいつものように目立たないよう気配を殺し、聖女の儀式が加速度的に皇太子の断罪劇へと発展していくさまを、黙って眺めていた。
それが、いきなり兄に名指しされて注目を浴びた。
あがり症のダミアンは耳まで真っ赤に染まっていた。
予め聞いていたとはいえ。
ローゼは赤面して冷や汗をかいているダミアンと目が合った。
エリアスに引き会わせてもらった最後の人物は、ダミアンだ。
華やかな兄の陰に隠れて目立たないけれど、いつも熱心に帝王学を学んできた第二皇子。
優しい彼は、父親である皇帝が病に蝕まれていることに誰よりも心を痛めていた。
表立っては言わないが、ヘルミーネと享楽にふける皇太子の専横にも臍を噛んでおり、ひそかに兄の不正を記録していた。
ちなみに記録を取るように助言したのはローゼである。
以前からダミアンは兄の婚約者だったローゼを実の姉のように慕っていたので、記憶を取り戻したあとで、のちのち有利になるように彼にそう助言しておいたのだ。
ローゼは言葉を尽くして彼に説明した。
新しい聖女が本物で皇帝を癒やせる可能性があること。
彼の兄のテオフィルが保身のためだけに、その邪魔をしようとしていること。
そして、射抜くように彼を見つめて言った。
今があなたの出番だ、と。
礼拝堂を埋め尽くす聴衆が、今、ダミアンの言葉に耳を澄ましている。
励ますように、ローゼはダミアンを見て力強くうなずいた。
(大丈夫。あなたならできる。ずっと、このときを待ってたでしょう?)
すると、ダミアンの顔つきが変わった。
息を吸いこみ、ローゼに大きくうなずき返して、立ち上がる。
彼は今まで見たこともないほど強い瞳で兄のテオフィルを見据えた。
「あ、兄上……ぼ、ぼくは、たしかに臆病です。あなたのような度胸も、華やかさもありません」
かすかに震えた、だが純粋で伸びやかな声が、ステンドグラス越しの光に溶ける。
礼拝堂内のざわめきが、少しずつ小さくなり、消えた。
まるでダミアンの声を一言も聞き逃すまいとするように。
テオフィルまでが口を挟むのも忘れ、気弱な弟の言葉を驚きとともに聞いていた。
弟は正面から兄を見た。
「……で、ですが、ぼくは……あなたよりも、ずっと真剣にこの帝国のことを考えています。何の努力もせず享楽にふけり、国庫を食い潰し、父上を助けようとしなかったあなたには、これ以上任せられない」
「なんだと……?」
テオフィルが額に青筋を立てた。
観衆が固唾を呑む。
ローゼはエリアスの隣でダミアンを見守っていた。
十年間、宮廷の一翼で妃教育を受けながら、皇帝補佐の勉強に励むダミアンの姿を何度も見てきた。
押し出しの強い兄に隠れて目立たないけれど、いつも愚直に課題をこなし、周囲の人たちを気にかけてきた。
そして今は、皇帝からも諸卿からも認められている。
次期皇帝の冠は、彼にこそふさわしい。
そのダミアンが宣言した。
「ぼくが――この帝国の、皇太子になります」
大聖堂の静謐な時間が、一瞬、止まったように感じられた。
帝国の歴史にその一言を刻むかのように。
「……おまえ、何を言っているかわかってるのか? おまえのような無能に皇太子が務まるわけが……」
怒気を浮かべたテオフィルが弟ににじり寄った。
それを遮るように、ローゼが二枚の書類をテオフィルの目の前に差しだした。
「テオフィル殿下、こちらはダミアン殿下がまとめられたあなたの国庫からの横領記録。そしてこちらは、皇帝陛下の玉璽入りの勅書です」
「……勅書?」
「はい。帝国を私物化し混乱を招いた第一皇子テオフィルを廃嫡し、辺境の塔に無期限で幽閉する。そして、第二皇子ダミアンを立太子させる――という旨が書かれています」
「は……? おまえ、何を言って…………」
ローゼはあでやかにテオフィルにほほえみかけた。
それは、これまで彼に向けてきた笑顔の中で、最も満ち足りた笑顔だった。
「殿下。私たち、もう二度とお会いすることはありませんわね――ごきげんよう」
その言葉が引き金になったかのように。
皇帝は近衛騎士に皇太子の捕縛を命じた。
すぐにエリアスをはじめとした近衛騎士が皇太子テオフィルを拘束した。
集まった聖職者、諸卿、王侯貴族、大勢の民衆の目の前で。
衆目の中、近衛騎士たちに引きずられるように連行されていくかつての婚約者を、ローゼは黙って見送った。
こうして、聖女の儀式は幕を閉じた。




