第32話 対決③
傭兵部隊を呼ぶ皇太子テオフィルの叫び声が、礼拝堂の穹窿天井に響きわたった。
数秒。
数十秒。
礼拝堂を埋め尽くし、息を詰めて見守る人々のあいだから小さなざわめきが生まれ、それは徐々に大きくなっていく。
テオフィルは呆然と周囲を見回し、さらに声を張り上げた。
「な……どこだ、どこにいる! さっさと出てこい! 契約しただろう……おい、ロズラムの傭兵部隊っ!!」
「その傭兵部隊なら来ませんわ」
「はっ!?」
テオフィルの顔が一段と白くなる。
ローズは余裕のほほえみを浮かべた。
「殿下、契約書はすみずみまでお読みになりましたか? 条文の中にこんな免責事項があるようですよ——『いかなる理由があっても、本傭兵部隊はエスヴァルト帝国軍とは交戦しない』と」
「免責事項、だと……?」
「ええ。当然ですわね。帝国領内で武装権を持つのは帝国軍のみですし、圧倒的な武力を持つ帝国軍は一介の傭兵部隊が戦えるような相手ではございませんから」
礼拝堂には十名の近衛騎士が参列している。
全員が帝国軍所属だ。
そしてこの大聖堂のすぐ近くには帝国軍の本部基地があった。
そこには常時何百という兵士が駐屯しており、いついかなるときでも、招集されれば即座に出動する。
ローゼの青い目が丸く見開かれた。
わざとらしく。
「まあ、もしかして条文を読み落とされてしまったのでしょうか? それとも最初からお読みにならなかった? 殿下は昔からロズラム語の授業がお嫌いでしたものね」
「……っ!」
ギリ、とテオフィルが奥歯を噛んだ。
憤怒の表情で元婚約者のローゼを睨みつけている。
もはやいつもの余裕は完全に失われていた。
彼自身が軍務卿を罷免してしまったために、帝国軍の指揮権は現在凍結されている。
だからテオフィルは自ら街の裏社会に足を運び、舶来の毒を買い、ロズラム傭兵を雇おうとした。
今日、この聖女の儀式という場で、「偽聖女」を仕立てて帝国を乱そうとした罪をなすりつけ、ローゼたちの命を奪うために。
しかし、テオフィルは帝国の皇太子でありながら、勉強も鍛錬も大嫌いな人間だった。
語学の勉強に至ってはほとんど憎んでさえいた。
身分など関係なく、努力しなければ身につかない分野だからだ。
当然、隣国ロズラムの言葉もろくに覚えていなかった。
細かい文字の書かれた契約書など、読まずに捨ててしまった可能性もある。
いつか、ルトガーが路上で契約書を捨てようとしたように。
だからローゼはその可能性に賭けた。
彼女がエリアスに会わせてほしいと頼んだ相手は三人いた。
その一人は軍務卿だった。
髭の軍務卿は、前近衛騎士隊長の息子であるエリアスとは懇意にしており、皇太子の婚約者だったローゼとも面識があった。
熱心に妃教育を受けるローゼを好ましく思っていた軍務卿は、突然の面会の申し出にも喜んで応じてくれた。
軍務卿は気概と良心を持った人物だ。
彼は二人の聖女をめぐる不正の話、それからローゼ自身が皇太子の私兵に攫われそうになった話を聞き、手を貸してほしいとクロイツェル夫妻に頼まれると、深くうなずいた。
軍務卿は帝国軍諜報部隊にひそかに命じた。
皇太子が暗黒街で接触したロズラム人傭兵隊長を探しだし、契約内容を確認せよ、と。
罷免はされたが、まだ軍内に腹心の部下は多くいた。
諜報部隊は素晴らしい働きを見せた。
たった二日で傭兵隊長を特定し、接触し、契約書の写しまで入手したのだ。
案の定、契約書には読む気が失せるような細かい文字がびっしりと書きこまれていた。
そして中盤辺りの、頑張って読んでいた者でも「もういいか」と投げ出したくなるような絶妙な位置に、免責事項としてこう書かれていた。
『いかなる理由があっても、本傭兵部隊はエスヴァルト帝国軍とは交戦しない』
もちろん傭兵隊長は皇太子と契約するときに、口頭でそんなことを伝えたはずがない。
詐欺まがいの書き方をするのは隣国人の常套手段である。
諜報員がロズラム人傭兵隊長に確認すると、依頼人は黒髪青目の、少々目尻の垂れた育ちの良さそうな青年だったらしい。
契約は交わされ、依頼金も先払いで受け取っている。
場所は大聖堂の礼拝堂。
日付は本日。
依頼人の合図で出撃し、目標を処理しろ、とのことだった。
けれども依頼内容が免責事項に抵触した場合、契約は反故となるが。
後ろ暗い契約のため、テオフィルは宮廷にいる文官に命じて翻訳させることもできなかった。
それでも乏しいロズラム語知識で目を通そうとしたが、小難しい単語の羅列に最初の一行目でつまづいて諦め、契約書を暖炉で燃やした。
口約束で十分だとでも思ったのだろうか。
テオフィルは閣議も軍議もさぼってばかりだったので、巷で問題になっているロズラム商法については何も知らなかった。
それまで成り行きを見守っていた軍務卿が席を立ち、テオフィルのほうに歩いてきた。
髭に覆われた顔には厳しい表情が浮かんでいる。
「殿下、観念なさいませ。ロズラム人傭兵隊長は儀式が始まる前、隠れて大聖堂内の様子を窺っておりましたが、近衛隊が入場したとたん潮が引くように全隊を引き上げさせましたぞ」
「軍務卿……貴様……」
「あなた様が東棟の小部屋に保管しておりました舶来物の毒薬も、すでに軍により押収済みです。現在製造番号をたどらせておりますが、薬商に面通しをさせれば、殿下の関与はもはや言い逃れのできぬものとなるでしょう。……それと、逃亡を図ったヘルミーネ殿も大聖堂の外で拘束してあります。叩けばどんな埃が出るやら」
長い軍人生活で鍛えられた軍務卿の朗々とした声が、礼拝堂の天井に響きわたる。
満員の聴衆は幾千もの怒りの目を一斉に皇太子に向けていた。
テオフィルはぐるりと周囲を見回した。
この場にいる誰一人として皇太子の味方はいない。
帝都の民衆、貴族、諸卿、近衛隊の連中、大司教に司祭たち、新しい聖女、それから――ローゼ。
ローゼは冷ややかなまなざしを元婚約者に向けていた。
その青い瞳からは、昔テオフィルを見るときにたしかに存在していた熱が、まったく感じられない。
まるで路傍の石ころでも眺めるような目つきだ。
それが、決定的にテオフィルの気に障ったらしい。
皇太子は眦を吊り上げ、声を荒げた。
「反逆罪だ! 俺はこいつらに陥れられている……近衛ども、ローゼと軍務卿を捕らえよ!」
近衛騎士たちは目を見交わしただけで動かなかった。
いや――エリアスだけは、恐ろしいほどの無表情で皇太子を睨みつけた。
赤髪をなびかせてローゼのもとへ歩み寄ると、くるりと踵を返し、皇太子に相対する。
まるで背後の妻を庇うように腕を伸ばして。
堂々と命令に背いた。
「俺の妻には、指一本触れさせません」




