第3話 次なる命令
エスヴァルト帝国の社交界は、しばらくのあいだはこの結婚の噂で持ちきりだった。
十年間妃教育を受けた公爵令嬢が聖女の登場であっけなく婚約を破棄され、しかも、皇太子の近衛騎士に下げ渡された。
まるで要らなくなった上着でも与えるかのように。
宮廷の興味を独占するには十分すぎるほど刺激的な話題であった。
公爵令嬢ローゼ・デア・アルノルトが嫁いできた翌日、近衛騎士エリアス・クロイツェルは通常通り皇城に出仕した。
そうしろと皇太子に命じられていたからだ。
エリアスとしても、むしろ好都合だった。
貴族の邸宅としては小規模なあの家で、昨夜「愛さない」と宣言したばかりの妻と一日じゅう顔を突き合わせるのは、さすがに気づまりだ。
悪趣味な皇太子の執務室を訪ねて昨夜の首尾を報告するのも、同じくらいに気が滅入る仕事ではあったが。
結婚したばかりのエリアスが近衛騎士の制服姿で登城したとたん、周囲の貴族たちの好奇の視線を一身に浴びた。
視線も囁きもすべて無視して大理石の床を足早に歩き、執務室の扉を叩いて中に入る。
「来たか。どうだった?」
皇太子テオフィルは書類を放り出し、机に身を乗りだした。
少し離れた長椅子では、新たに皇太子の婚約者となった聖女ヘルミーネが優雅にお茶を飲んでいた。聖女の仕事はどうしたのか。
余計な考えを振り払い、昨夜のローゼの様子を思い出しながら、エリアスは直立不動で答えた。
「殿下に命じられた通りの言葉を告げたところ、『それで構いません』と返ってきました」
あの不可解な笑顔のことは報告しなかった。
ローゼの言葉も実際のものよりだいぶ省略したが、すべてを逐一報告する必要は感じなかった。
テオフィルは興ざめしたように椅子の背にもたれた。
「なんだ、それだけか? 本当につまらん女だな」
「ご用がお済みでしたら、私は任務に戻らせていただきます」
「待て」
踵を返しかけ、ぴたりと止まる。
エリアスが振り向くと、皇太子はにたりと笑って命じた。
「このまま決してあの女を愛さずに、厳しく当たるんだ。使用人のように家事をやらせろ。いいか、絶対に情にほだされたりするなよ。あの澄ました顔がいつ泣きっ面に変わるか、楽しみだなあ?」
「御意」
執務室を出ると、エリアスは重い息を吐いた。
命令とはいえ、正直、憂鬱だった。
望まぬ結婚をさせられ、さらにその結婚生活にまでいちいち嘴を挟まれるなど、公私混同と職権乱用が甚だしい。
だが、皇帝の盾たる近衛騎士が皇太子の命令に背くわけにはいかなかった。
エリアスの父も近衛騎士だった。
赤子の頃に母を亡くした自分を、父は近衛騎士という重責を担いながらも、常に愛情をこめて育ててくれた。皇帝の盾であることに誇りを持つ父の背中を追い、エリアスも近衛騎士の道を選んだ。
皇帝も、誰よりも信頼する近衛騎士の息子であるエリアスを可愛がってくれた。
病を得て伏せるまでは。
同じ病で、エリアスの父は一昨年死んだ。
エリアスは拳を強く握り、もう一度息を吐くと、騎士団本部に向かった。
新婚ということで近衛騎士隊長が気を遣ってくれているのか、昼夜交代の当番制である皇太子の護衛任務からは外されている。
それどころか、今日は午後に半休を与えられていた。
家で新妻とゆっくりしろということだろう。
だが、エリアスにとってはありがた迷惑だった。
家に帰っても、「愛さない」などと吐いた昨日の今日で妻と何を話せばいいのだ。
向こうだって自分の顔など見たくもないだろう。
帰りたくないので、事務室で書類仕事に悲鳴を上げている部下を手伝ってやることにした。
皇太子が公爵令嬢との婚約を破棄して聖女と新たに婚約をしたので、皇宮の警備計画が根底から見直しを迫られていた。
警護の場所、当番、強度、格式。向こう三か月に渡りすべて詰め直さなくてはならない。
書類と格闘しているのは、癖毛の金髪がいつも鳥の巣のようにもじゃもじゃになっている部下だった。
彼は午後休のはずのエリアスを見ると、面食らったように尋ねた。
「上官、昨日結婚したばっかりなんじゃなかったですか? こんなとこにいていいんですか?」
「口じゃなく手を動かせ」
「へーい」
小さく肩をすくめ、部下は書類に目を落とした。
時折ちらちらと物問いたげにこちらを見る視線を感じたが、エリアスは無視して書類に集中した。
夕方になると書類もすべて片付いてしまった。
エリアスはようやく重い腰を上げ、厩舎に繋いでいた馬に跨がり、帰路についた。
いつもの帰り道をたどるにつれ、テオフィルの「使用人のように家事をやらせろ」という言葉が胸に重くのしかかってくる。
ローゼは公爵家に生まれ、蝶よ花よと育てられた女だ。
運命の悪戯で騎士に嫁がされたとはいえ、公爵家では何十人という使用人たちにかしずかれる生活をしてきたはず。
家事など、一度もやったことがないだろうし、やる気もないだろう。
クロイツェル家には週に二度来て家事をする通いの使用人ペトラがいるが、掃除と洗濯をするだけで他のことにまでは手が回らない。
エリアスは家で食事をする習慣がなく、いつも騎士団庁舎の食堂か、帰りがけに皇都の店に立ち寄って食事を済ませていた。
そういえば――とエリアスは妻の食事について気にもかけていなかったことに今さら気づき、スッと血の気が引いた。
仕事だからと、朝早くに顔も見ず出てきてしまった。
あの家にはたしか、しなびたリンゴくらいしか食べ物がなかったはずだ。
元公爵令嬢が騎士の家にたった一人。
侍女もおらず、ペトラも今日は来ない。
彼女は市場で買い物すらできるか怪しい。公爵家ならわざわざ買いに行かずとも、商人たちのほうが品物を抱えて屋敷にやってくるのだから。
エリアスは馬を急がせた。
一日食事を抜いたくらいで死にはしないが、まるで自分があの冷血な皇太子の片棒を担ぎ彼女を虐めているようで、耐えがたかった。
そんなことは、誇り高く優しかった亡き父も、望んでいないはずだ。
帝都郊外にあるクロイツェル家の館は静まり返っていた。
馬を厩舎に繋ぎ、玄関の扉を開ける。
ローゼの姿はない。
大股で中に入り、居間の扉を開ける。
いない。
二階に上がって彼女の部屋の扉を叩き、開ける。
いない。
エリアスは扉の取っ手を握ったまま立ち尽くした。
――逃げたのだろうか?




