第2話 変化
思春期とは心身に急激な変化が訪れる時期である。
ローゼ・デア・アルノルトもまた、十五を境に、ぐんと大人びた女性となった。
公爵家の姫として蝶よ花よと大切に育てられ、純真無垢な薔薇のつぼみのようだったローゼ。
だが彼女は、十五歳になると突然気難しい性格になった。
使用人にも通行人にも惜しみなく振りまかれていた明るい笑顔は消えた。
常に小難しい本を読みふけるようになった。
そして、八つの頃から絶えず後を追いかけていた婚約者の皇太子にも、塩辛い態度を取るようになった。
同時に身体的な変化もあった。
ローゼは青に金をまぶした、ラピスラズリと見紛うような美しい瞳の持ち主だった。
だがその瞳から、いつからかきらめく金色が失われ、ごく普通の青い瞳に変わったのだ。
珍しいものが好きな皇太子テオフィルは、ローゼの珍しい青と金の瞳を大層気に入っていた。
だから余計に、この婚約者が遂げた変化を気に入らなかった。
瞳のことなど気にもせず妃教育を熱心に受けるローゼから距離を取り、一人で遊興にふけるようになった。
婚約者との慣例のお茶会も「急用」で欠席することが多くなり、王宮の舞踏会でもエスコートをほったらかして別の令嬢たちにかまける姿が頻繁に見られた。
そんな皇太子の近衛騎士である赤髪のエリアス・クロイツェルは、おそらく誰よりも公爵令嬢ローゼが放置され、ぽつんと一人で佇む場面を見てきた人物であろう。
壁際に一人でいても常に背筋を伸ばし、公女らしく毅然としたふるまいを続けるローゼは周囲の目には痛々しく映ったが、だからといって皇太子の代わりにダンスに誘うような豪胆な貴公子は現れなかった。
ある意味高慢とも取れる態度の彼女を放置することは皇太子の意向だ。
ローゼの孤独でみじめな姿こそ、底意地の悪い皇太子が求めていたものだった。
♢
それゆえ、テオフィルの元に聖女が現れて急速に仲を深め、彼が温室でついにローゼに婚約破棄を命じたときも、エリアスは驚いた顔を見せなかった。
早晩こうなるだろうとは宮廷の誰もが予想していたからだ。
しかし、そのあとでテオフィルが自分とローゼの結婚を命じるなどとは、露ほども思っていなかったのだろう。
彼は灰色の目を大きく見開き、「……は?」と不敬とも取れる呟きを漏らした。
ローゼもまた同じように呟き、呆然とテオフィルを見つめた。
隣国ロズラムの言葉を自在に操り、社会情勢にも明るい聡明な公爵令嬢ローゼも、さすがにこの展開は予想外だったようだ。
扇で半開きの口元を隠すことも忘れて立ち尽くしている。
テオフィルは聖女ヘルミーネの肩を抱いたまま、楽しくてたまらないという顔でローゼを見て、一語一語区切って強調しながら繰り返した。
「おまえを、近衛騎士に、くれてやる。ああ、良かったなあローゼ。すぐに別の嫁ぎ先が見つかって」
「なっ……」
怒りか悔しさか、赤く染まった顔を遅まきながら扇で隠し、ローゼはつとめて平静な口調で言った。
「お戯れを。そのようなこと、私の父が許すはずもございません」
アルノルト公爵家は、帝国貴族の中でも飛び抜けて古く格式の高い家柄だった。
一説によると、帝国では既に見なくなって久しい魔法使いの血を引くとも伝えられている。
宮廷での発言力も強く、皇帝からも一目置かれている。
だが皇太子は平然と笑った。
「そうか? アルノルト公爵も喜んで私の言うことに従うと思うぞ? なにしろ私のもとには百年ぶりに降臨した聖女がいるんだからな」
テオフィルはあてつけるように隣のヘルミーネの銀髪に頬を寄せた。
魔法使いがいなくなり、必然的に回復魔法も失われたこの帝国では、軽い病でも命取りになることが多々あった。
それは貧しい民草でも金銀財宝を持つ諸侯でも変わらない。
大陸の覇者である現皇帝でさえ、ここしばらくは病の前になすすべもなく臥せっているのだ。
しかし、聖女がいれば。
どんな傷病も癒やしてしまうという神に祝福された聖女がいれば、人心も金も思いのままだ。
たとえ直接聖女の力を受けられなくとも、貴賤も老若男女も問わず帝国中の人々が聖女に祈り、心を寄せる。
ヘルミーネはひと月ほど前にこの帝国に現れた聖女だ。
皇族が保護していると聞いていたが、実際は、皇太子が囲っていたということだろう。
テオフィルには弟が一人いた。
第二皇子ダミアン。
だがダミアンは良く言えば優しく、悪く言えば気弱な性格で、兄と帝位を争うような気概はない。
よって第二皇子を担ごうという廷臣もいない。
だから聖女を伴侶に得れば、次期皇帝であるテオフィルの地位はますます安泰となり、一国の王にも等しい公爵でさえその足元にひれ伏すだろう。
それを理解したローゼは肩を震わせた。
テオフィルが満足そうに目を細める。
「……殿下、どうかお考え直しください。私は十年間、厳しい妃教育を受けてまいりました。その努力をなにとぞ……」
「黙れ」
必死だったせいか、ローゼは言ってはいけない言葉をぽろりと口にしてしまった。
勉強も鍛錬も大嫌いなテオフィルが「努力」という言葉に我慢がならないということは、宮廷人ならば当然心得ていなければならない常識だったのに。
宮廷の一翼で十年間妃教育を受けたときも、別室で帝王学を受けるはずのテオフィルは大抵さぼり、弟の第二皇子ダミアンだけがせっせと授業を受けていたことを思い出す。
ローゼは青ざめ、ハッと口元を扇で覆ったが遅かった。
テオフィルは冷え切った表情で命じた。
「下がれ。二度とそのお高く止まった顔を見せるな」
「………………仰せのままに」
真っ青な顔で、それでもローゼは美しい礼をした。
テオフィルは見ていなかったが。
ローゼが去ると、テオフィルは空気と化して離れた場所に佇んでいた近衛騎士エリアスを呼んだ。
そして皇太子の前に来て片膝をつくエリアスに、薄笑いを浮かべながら言った。
「聞いての通りだ、クロイツェル。おまえにあの高慢な公爵令嬢をやる」
「御意」
公爵令嬢とは違い、一介の近衛騎士に皇太子への反論など許されてはいない。
帝国軍の規律と同様、主君の命令には即座に従わねばならない。
そのため、次にテオフィルがこう命じたときも、逆らうなどありえなかった。
「なあ、情けなんてかけるなよ? いいか、おまえは結婚したら初夜にあの女にこう言うんだ――『おまえを愛することはない』って」
頭を垂れたままのエリアスの肩がわずかに強張る。
それを横目に、テオフィルは楽しげに笑った。
隣のヘルミーネも、くすっと笑みをこぼす。
「はははっ! あのお高く止まった女にはいい薬だな! そしたらあいつの顔と反応をちゃんと私に報告するんだぞ。わかったか、クロイツェル?」
「……御意」
♢
そして、冗談のようなその結婚は本当に成された。
公爵は皇太子におもねり、嬉々として娘を近衛騎士に降嫁させた。
宮廷は冷笑を包み隠して祝辞を送った。
あまりにも急な話だったため、結婚式は開かれなかった。
公爵令嬢は身分から考えれば少なすぎる嫁入り道具を馬車に積んで騎士の家に嫁入りした。
王都郊外に建つその館は、公爵家の邸宅と比べるとかなり小ぢんまりとしていたため、ローゼが皇太子に嫁ぐために少しずつ調えられていた嫁入り道具の十分の一しか運びこめなかったからだ。
ローゼは侍女さえ連れずに嫁いだ。
初夜になった。
初めての二人きりの夕食を言葉少なに終えると、ローゼは二階に二つある奥のほうの寝室で寝台に腰かけて、自分の夫になったエリアスを待った。
若い男の一人暮らしであるこの館は必要最低限の清潔は保たれていたが、花の一つも飾っておらず殺風景で、もう夏だというのに暖炉には溜まったままの灰が放置されていた。
しばらくすると、階段を上る足音が聞こえ、扉の前で止まった。
扉が叩かれる。
「どうぞ」
燭台を手に持ったエリアスが、寝室に入って――こなかった。
入り口で立ち止まった彼は、まるで近衛業務の報告書でも読み上げるように淡々と、ローゼに告げた。
「主命ゆえ結婚しましたが、俺があなたを愛することはないでしょう」
ローゼが立ち上がった。
華奢な布靴を履いた足でつかつかと歩いていき、エリアスの目の前に立つ。
エリアスはその場で動かずなかった。
ぐっと、床に立つ足に力がこもる。
最低な言葉を吐いた自覚はある。
頬の一つや二つ、張られる覚悟はできている――といった顔つきだ。
だが、平手は飛んでこなかった。
ローゼはエリアスをじっと見つめた。
そして、夫を殴る代わりに、花がほころぶような笑みを見せた。
皇太子に向ける形式的な笑顔とは、まったく別物の。
エリアスの目はその笑顔に釘付けになった。
なぜ今、笑うのだと、常に冷静な切れ長の目に疑問が浮かぶ。
けれど、ローゼの笑みは幻のように一瞬でスッと消えた。
そのあとは、温室で皇太子に見せたような無表情が浮かんだ。
夫からかけられたものと同じような、感情のこもらない声で言葉を返す。
「それで構いません。わざわざお伝えいただきありがとうございます。おやすみなさい」
扉は、エリアスの鼻の先でぱたんと閉じられた。




