第29話 聖女の儀式
帝都の大聖堂はその日、二度目の聖女の儀式に沸き返っていた。
百年間も現れなかった聖女が出現して間もないのに、二人目が出てきた。
その話題性もさることながら、最初に現れた聖女ヘルミーネへの不満がくすぶっていたことも、人々の足を大聖堂に運ばせた。
銀髪の聖女ヘルミーネはなるほど美しい。
だが皇太子の寵愛にあぐらをかき、まったく癒やしの聖務を果たさない。
最優先で癒やすべき皇帝の病も、少しも良くなっていない。
貴族間にも民衆のあいだにも、聖女ヘルミーネへの疑念が渦巻いていた。
そこへ「二人目」の聖女の登場である。
新たな聖女イルムヒルト。
先に現れた聖女ヘルミーネ。
新旧の聖女を一目見ようと、巨大な大聖堂は中も外も人でごった返していた。
高い穹窿天井の礼拝堂には惜しげもなく乳香が焚かれ、甘い香りと人いきれが充満している。
ステンドグラスから射す色のついた光に、埃がちらちらと舞う。
聖壇には今は誰もいない。
儀式が始まると、大司教が登壇する。
その後方に並ぶ司祭たちの中には、カリエール司祭の姿もあった。どこか緊張の面持ちで儀式の始まりを待っている。
ローゼは信徒席の最前列左側に、ルトガーと並んで座っていた。
通路を挟んだ最前列右側には、皇太子テオフィルと聖女ヘルミーネ。
その周囲の席は皇太子の取り巻きの貴族連中が占めている。
先ほどからローゼを見てニヤニヤと嘲るような笑みを浮かべ、声を潜めて何やら言い交わしている。
当のテオフィルは最初に一度、ローゼに薄い笑みをよこしただけで、あとはこちらを見もしない。
隣のヘルミーネに至っては、ローゼを完全に無視していた。
同じ空間にテオフィルがいるというだけで、ローゼの胃はキュッと縮み、呼吸がしにくくなった。
前世のあの日、彼は薄笑いを浮かべ、ローゼとエリアスを殺せと近衛騎士たちに命じた。
その声の響きも、いくつもの冷たい剣の切っ先も、ありありと憶えている。
近衛騎士たちは右側の壁際に控えていた。
十名。
当然、全員が帯剣している。
前世で自分を手にかけた者もいるだろう。
もし失敗したら、また、彼らの剣に滅多刺しにされるかもしれない。
そう思うだけで体が小刻みに震え、足の裏に根が生えたように、その場から一歩も動けなくなりそうだった。
ふと、視界の端に赤が映った。
おそるおそる目だけを動かしてそちらを確認する。
エリアスが赤髪の頭をこちらに向け、まっすぐにローゼを見ていた。
心配そうな顔。
目が合うと彼は、ふっと小さく笑った。
安心させるように。
『大丈夫』
口だけを動かして、壁際からローゼに語りかける。
その瞬間、強張っていた心がふわりとほどけた。
——そうだ。きっと大丈夫。
今回はエリアスがいる。
ルトガーもいるし、イルムヒルトとも友達になった。
カリエール司祭も協力してくれているし、それに、他にも心強い味方がいる。
今度は絶対に悲劇で終わらせない。
ローゼはエリアスにほほえみ返した。
彼はかすかにうなずいた。
それだけで十分だった。
儀式が始まる。
聖女イルムヒルトが入場した。
飾り気のない白のローブに白の布靴。
髪は上半分だけ纏められ、簡素な髪飾りがつけられている。
ぎっしりと満員の礼拝堂の通路を、両側を香油と聖餐を掲げ持った司祭に守られるように、ゆっくりと祭壇のほうへ歩いてくる。
列席者がざわめく。
そこここで「かわいいな」「茶色い髪か」「今の聖女様より地味じゃないか」「聖女様ならそれくらいがいいだろ」「あの子、市場で見たことある」などと囁き交わされる。
無数の無遠慮な視線にさらされながら、イルムヒルトは毅然と面を上げて歩き、聖壇の前に着いた。
香油を持った司祭と聖餐を持った司祭が左右に離れる。
イルムヒルトは両膝を床につき、手を祈りの形に組み合わせる。
少しずつざわめきが収まり、大司教が登壇した。
重々しく宣言する。
「これより、聖女の儀式を開始する」
儀式は粛々と進行した。
大司教が説教をし、祈りを捧げる。
それから聖女に心構えを問い、聖女が答えて誓いの言葉を宣誓する。
礼拝堂にいる者全員で聖歌が斉唱される。
その歌声は大聖堂の外の広場を埋め尽くす人々にも広がり、地響きのように辺り一帯を震わせた。
鳥たちが飛び立ち、尖塔の鐘が狂ったように鳴らされた。
厳粛な儀式の空気の中、人々の熱気と興奮は最高潮に達していた。
そして、大司教が司祭の差し出した皿から、聖餐のパンを手に取った。
「聖女よ、汝に神の血肉を分け与えよう」
大勢の人間を収容しているはずの礼拝堂が、しんと静まり返る。
聖女がこの聖餐を口にして、額と両手の甲に聖油を塗油されたら、長い帝国の歴史でも前代未聞である二人目の聖女の誕生だ。
歴史的な瞬間が迫っていた。
大司教が聖壇から降り、聖女の傍に来た。
イルムヒルトは両膝をついたまま、まっすぐに大司教を見て、その手の中の聖餐——小さなパンの一欠片を見た。
赤い唇が開く。
その瞬間。
「お待ちください!」
ローゼの叫び声が、静寂を切り裂いた。




