第26話 悪魔の囁き
「黙れ無能。そんなくだらない仕事、文官どもにやらせておけ!」
バシャッとグラスの酒を軍務卿に浴びせ、皇太子テオフィルが不機嫌に言い捨てた。
謁見室の空気が凍りついた。
あまりにも政務が滞っているため、諸卿が示し合わせて皇太子に奏上に訪れていた。
謁見が始まって数分もしないうちに、丁寧な言葉に包まれた自分への不平不満に苛立ったテオフィルが酒をぶちまけたのだ。
壁際で直立している二名の中年の近衛騎士は、目だけを動かし警戒するようにそちらを見た。
そもそもなぜ政務を語るこの場に皇太子が酒のグラスを持って現れたのかは皇太子以外の全員が抱いていた疑問だったが、腹が立ったときに相手の顔に浴びせるためだったようだ。
軍務卿は慣れているのか、表情一つ変えずに上等な上着で顔を拭い、空になったグラスを持ったままのテオフィルを鋭く見た。
「文官にできないことなので殿下にお願いしております。皇帝陛下は長らく病床におられ、頼みの聖女殿もずっとご調子が悪いようだ。……せめてアルノルト公爵令嬢がおられたら、少しは違ったのでしょうがね。彼女は妃教育の傍ら、滞った政務を手伝ってくれていました」
皮肉めいた言い回しに、他の諸卿が顔色を変える。
横暴で冷酷な皇太子に意見ができるほど胆力のある廷臣はこの軍務卿くらいしかいない。
テオフィルはぞっとするほど冷たい目を軍務卿に向けた。
「私だけでなく聖女をも侮辱する気か」
「とんでもございません。ただ事実を申し上げているだけで——ああ、そういえば、新たな聖女が見つかったようですね」
「…………は?」
謁見室の時間が、ぴたりと止まったかのようだった。
新たな聖女。
帝国内のありとあらゆる情報が収斂されるこの軍務卿のもとには、常に最新の話題が飛び込んでくる。
彼は綺麗に整えられた口髭の下の唇を、片側だけ持ち上げた。
「おや、ご存知なかった。以前、ハズレと出た者の判定を再度やり直した結果、聖水晶が見事に真っ赤に輝いたそうですよ。近く、聖女の儀式が執り行われるでしょう」
「……聞いていない」
「昨日の奏上書に記載されていたと思うのですがね。まだご覧になっておられなかったのですか」
丁寧だが棘のある言葉に、テオフィルがグッと拳を握りしめた。
昨日は一日じゅう女たちを侍らせて私室にこもり、奏上書など見向きもしなかった。
もう長いこと、そういった堅苦しい書類には目を通していない。
だからこそ今日、諸卿は雁首を揃えて謁見を申し込んできたのだった。
書面では埒が明かないから。
まだ口髭に酒の雫が滴る顔のまま、軍務卿が一歩前に進み出る。
「殿下、もし件の聖女の力が本物であれば、必ずや皇帝陛下のご病気を癒やしてくれるでしょう。そうなれば、お父上は誰が帝国の後継者となるかを考え直されるでしょうな。あなたの弟君のダミアン殿下は少々心根がお優しすぎるきらいがございますが、真面目なかたで、実務能力にも秀でていらっしゃいますので。——だが、今ならまだ間に合います」
不敬罪で斬られかねないほどに厳しい言葉。
しかし、これは忠臣による諫言だった。
命をかけて皇太子に伸ばされた、最後の救いの手。
軍務卿の背後で首を垂れる諸卿が固唾を呑んでなりゆきを見守った。
その手を取るか、はねつけるか。
皇太子テオフィルは躊躇わず、持ったままだった空のグラスを床に叩きつけた。
ガシャン、と硬質な破壊音が謁見室に響きわたる。
最後に伸ばした手ははねつけられた。
はしばみ色の、冷たい憎悪のこもった瞳が諸卿をねめつける。
「おまえたちの考えはわかった。全員クビだ。今すぐ私の目の前から消えろ……本物の生首になりたくなければ」
その言葉を聞くと、軍務卿はそれ以上何も言わず、一礼して謁見室から出ていった。
他の諸卿もそそくさと立ち上がり礼をして、軍務卿のあとを追うように退出していく。
残ったのはテオフィルと二名の近衛騎士だけ。
テオフィルはその二人を忌々しそうに睨みつけた。
近衛騎士エリアス・クロイツェルは、あろうことか主である皇太子の私兵を追い払って妻を守った。
整った見目に鮮やかな赤髪、そして前騎士団長の息子という出自ゆえ取り立ててやり、妻まで下賜してやったのに。
クロイツェルにはローゼを愛するなと命じたはずだが、堂々と主命に反するとはいい度胸だ。
結婚してからは騎士団が気を利かせているのか、彼は皇太子の警護からは外れていて普段は顔を見ない。
夜番のない巡回や事務仕事を主に担当しているようだ。
だからといって王家の犬であるはずの近衛騎士風情が、皇太子である自分の命令を忘れ、牙をむいていいわけがない。
「チッ」
テオフィルは踵を返し、謁見室を出た。
近衛騎士たちが慌ててついていく。
向かった先は自分の婚約者である聖女ヘルミーネの私室だった。
ノックもなしに扉を開ける。
ヘルミーネは昼だというのに薄い寝間着のまま、しどけない体勢で窓辺の長椅子で爪を磨いていた。
テオフィルを見上げる顔に驚きはなく、まるで約束でもしていたかのように笑みを湛えて迎える。
そんなものはしていないのだが。
「テオ」
「ヘルミーネ。会いたかったよ」
最近は足が遠のいていたことも、昨日は一日中他の女たちと遊興にふけっていたこともまったく感じさせない面の厚さで、テオフィルはヘルミーネに笑いかけた。
近づいて隣に腰を下ろし、親しげに肩を抱く。
近衛騎士たちが目のやりどころに困ったように視線をそらす。
テオフィルはヘルミーネに優しく言った。
「今日、軍務卿から面白い話を聞いたんだ。……本物の聖女が現れたって」
ヘルミーネは黙ってテオフィルを見た。
その顔には悪びれる様子も動揺する気配も一切ない。
余裕綽々で爪に目を落とすと、最後の一枚を磨き上げて手をかざし、満足気な笑みを浮かべた。
反対にテオフィルの顔からは表情が消えた。
無視されるのは大嫌いなのだ。
「……おい、どういうつもりだ」
「やぁだ、テオ。そんな怖い顔しないで」
ヘルミーネは無邪気な笑顔でテオフィルの首に腕を回した。
その腕が邪慳にはねのけられる寸前、彼の耳元に囁く。
「偽物の聖女のほうが好都合でしょう? あたしたちにとっては」
ぴたりとテオフィルの動きが止まる。
「……なんだと?」
「うふふ。皇帝になりたいんじゃなかったの? 本物の聖女なんて、この皇宮には要らないわよね?」
「……………………」
テオフィルは黙りこんだ。
本物の聖女が現れたら、皇帝の病は癒やされ、テオフィルとヘルミーネは今いる場所から追い落とされるだろう。
だがもしこのままヘルミーネが聖女を続けたら。
皇帝は遠からず崩御し、皇太子であるテオフィルが次の皇帝となる。
つまり、そういうことをこの女は言っているのだ。
父である皇帝を見殺しにして、帝位を手にしろ。
そして、本物の聖女を始末しろ——と。
それは甘美な囁きだった。
同時に、足を踏み入れればもう二度と引き返せない、一方通行の仄暗い道だった。
テオフィルはごくりと唾を飲んだ。
さすがに父を見殺しにすることは躊躇われた。
なにしろ自分の父親だ。
皇帝になって膨大な政務をこなし、大陸に広がる領地をまとめるという未来にも、テオフィルは怖気づいた。
しかもつい先ほど、諸卿を揃ってクビにした直後である。
それに、あの無礼な軍務卿が言っていた通り、今は実務をこなせるローゼに仕事を押しつけることもできない。
生まれて初めて、テオフィルはこの広大なエスヴァルト帝国を自分一人で背負って立つという重さを、ありありと感じた。
そして自分の周囲には、十年間自分の婚約者として妃教育を受けてきたローゼも、日々発生する政治的難問を処理してきた諸卿もいない。
皆、テオフィル自身が遠ざけたのだ。
足元にぽかりと穴が開き、どことも知れぬ深淵に落ちていくような恐怖に襲われた。
(……もしかしたら俺は、とんでもないことをしてしまったのではないか……?)
窓の外の青空がやけに空虚に見えた。
視界に、スッと銀髪の女が入りこむ。
ヘルミーネは微笑を浮かべ、血の気の引いたテオフィルの手を握った。
「大丈夫よ、テオ。あたしがいるわ。あなたが皇帝で、あたしが妃。この帝国はあたしたちのものよ」
自信に満ちた口調だった。
根拠など何もない。
だがその単純な傲慢さが、テオフィルに自信を取り戻させた。
そうだ。
自分は皇帝だ。
この帝国は自分に与えられたものだ。
誰にも文句など言わせない。
テオフィルはヘルミーネの手を強く握り返した。
口の端に酷薄な笑みが浮かぶ。
「そうだな。皇帝は俺だ。……邪魔をするやつらには、天罰を与えてやろう」
もう一度窓を見た。
今度は笑いながら。
青空は、もう空虚には映らなかった。
帝国の上に広がる天は、他でもないこの自分自身なのだから。




