第25話 明るい兆し
それからローゼはエリアスと一緒にブランシュ男爵家に行き、イルムヒルトに会って事情を説明した。
ヘルミーネは聖女判定で不正をしていた。
もしかしたら、本当はあなたが聖女なのかもしれない。
男爵家の質素な居間でそう話すと、彼女は水色の瞳に涙を溜めて言った。
「本当に……? 私が聖女になれるの? 弟にお腹いっぱい食べさせてあげられるの……?」
「まだわからないけれど、可能性は高いと思う。私は十年間皇太子の婚約者をしていて、皇宮で自称聖女の人たちをたくさん見てきたけれど、あなたみたいに綺麗に怪我を治す人は誰もいなかったから」
「俺もイルミが聖女だと思う。今まで親父ともども、何度も怪我を治してもらってきたからな……よかったな、イルミ」
エリアスが優しく言うと、イルムヒルトはこらえきれずに大粒の涙をぼろぼろとこぼした。
二人のあいだには、長い年月を共に積み重ねてきた親しげな空気があった。
ローゼには入り込めない、この二人だけの。
ほんの少し、ローゼの胸がちくりと痛んだ。
近くで遊んでいた弟のザシャが姉の泣き顔を見てパッと立ち上がり、エリアスにつかみかかった。
「こらエリアス、イルミお姉ちゃんを泣かせるな!」
「違う。やめろ」
「イルミ、泣かないで」
小さな手にぽかぽかと殴られるエリアスを横目に、ローゼはイルムヒルトの隣に座ってハンカチを差し出し、震える肩を抱いた。
さぞ心細かったのだろう。
家が傾き、小さな弟もいるのだ。
未来を描けない不安は、ローゼもよく知っていた。
(——前世の離宮では、閉じこめられて日に二度の粗末な食事しか与えられない軟禁生活がいつまで続くかわからず、頭がおかしくなりそうだった)
金がない状態は自由がない状態と似ている。
そこから抜け出すために、前世のローゼは破れかぶれで逃走した。
同じように偽聖女のヘルミーネも、下町の暮らしから抜け出すためにもがいていたのかもしれない。
当然ながら、市井の生活は楽しいだけのものではない。
王侯貴族の生活水準とは比ぶべくもないし、家事も身の回りのことも、大抵のことは自分でやらなければならない。
けれど、ヘルミーネは越えてはいけない一線を越えてしまった。
自分さえよければいいと、イルムヒルトやカリエール司祭を踏み台にして。
ローゼはイルムヒルトの背中を撫でながら語りかけた。
「イルミ、あなたが受け取るべきものを受け取れるようにしてみせるわ」
「ローゼ……」
イルムヒルトは赤い目でローゼを見ると、がばっと首に抱きついた。
「ありがとう、ローゼ! なんて優しい人なの!」
「イ、イルミ……」
抱きつかれて苦しいのだが、女友達にこんな風に抱きつかれるという体験が初めてのローゼは、ぽっと赤くなってイルムヒルトの背を遠慮がちに抱き返した。
温かい。
いい匂いがする。
少しだけ体を離し、イルムヒルトと顔を見合わせて笑い合った。
綺麗な水色の瞳がすぐそこにある。
なんだか気恥ずかしいが、うれしい。
(これが気の置けない市井の友達……! どうしよう、幸せだわ!)
胸の中がじーんとした喜びにあふれた。
目頭まで熱くなってきたが、さすがにここで泣いたら引かれそうなので我慢した。
「ずいぶんと仲良くなったんだな」
いつの間にかザシャを片手で軽々と拘束していたエリアスが、感心したように言った。
彼は目を細めて二人を見つめた。
「……イルミ、頼みがあるんだが」
「いいわよ、何?」
「ローゼを明日からしばらくのあいだ、預かってもらえないだろうか」
「えっ?」
「なんだ、そんなこと? むしろこっちからお願いしたいくらいよ」
イルムヒルトは笑顔で答えた。
きょとんとする妻に、エリアスが硬い声で言った。
「殿下はまたあなたを狙うだろう。俺の任務中は守れないから、ここにいてくれ。のちほど、この家にも騎士団から護衛を派遣する」
「……わかったわ」
至極もっともな対応だった。
ローゼがまた皇太子に狙われる危険は大いにあったし、イルムヒルトがふたたび聖女判定を受けるのならばヘルミーネがなんらかの妨害をしてくる可能性があり、二人まとめて警護するというのは理にかなっている。
それに、イルムヒルトの家に泊まるというのは心躍る提案だ。
幼い頃から妃教育に明け暮れていたローゼには、友人の家にお泊りに行った経験がない。
噂に聞くパジャマパーティーや枕投げができるかもしれない。
だがしかし、ローゼはどこか釈然としなかった。
よその家に預けられる猫とはこんな気持ちなのかもしれない。
理屈はわかるし、楽しみでもある。
けれど、それではエリアスに会えなくなる。
毎日、いってらっしゃいとおかえりなさいを言いたいのに。
黙り込んだローゼを見て、エリアスはテーブル越しに真剣な顔で告げた。
「二度とあなたを危険な目に遭わせない」
「……!」
全身に熱い湯を浴びせかけられたかのようだった。
うれしさと恥ずかしさと高揚と照れがいっぺんに押し寄せる。
そのあとで、いや待てよそれは愛情ではなく要人を警護する近衛騎士の習性なのかもしれないという疑問に襲われる。
そして、彼の真摯な目を見てまた頬が熱くなる。
感情が忙しい。
混乱して返事もできずにいると来客があった。
近所に住む、裕福で少々柄の悪い商人、ルトガー・シュナイトだ。
今日も全身に光り物をジャラジャラさせている。
彼は笑顔でずかずかとブランシュ男爵家の居間に上がり込み、イルムヒルトに片目をつぶって挨拶すると、どかっとエリアスの隣に腰を下ろした。
「よう、捜したぜローゼ。その辺で井戸端会議してるおばちゃんたちが、あんたがこの家に入るのを見たっていうからさ」
「よく見てるのね……それで、なんの用かしら? ルトガーさん」
たしかにここに来る途中、近くの四つ角で中年女性たちが数人集まって額を突き合わせ、おしゃべりに花を咲かせていた。
ただ横を通り過ぎただけなのに、しっかりと行動を把握されていたということか。
井戸端会議をあなどってはいけない。
「……いつの間に俺の妻と知り合ったんだ?」
エリアスが低い声で、横に座ったルトガーに尋ねた。
なぜか必要以上に目つきが鋭い。
ルトガーは悪びれずにニヤッと笑ってエリアスの肩を抱き、テーブルの上にバサッと書類を置いた。
昔馴染みらしい気安さがそこにはあった。
「そう妬くな坊主。ただの近所づきあいだ」
「妬いてない」
「そうか。でさ、ローゼ、またロズラム語の翻訳を頼みたいんだ。市場の向こうに住んでるやつが取り引きで困ってるらしくて」
「今度は市場の向こうの人? あなたは本当に顔が広いのね」
呆れたように言いながらも、ローゼは書類を手に取った。
ふと、何か閃いたように目を見開く。
「……ルトガーさん、私、まだあなたからお礼をしてもらってないわよね?」
「え? あー……」
ルトガーは宙を見て首の後ろを撫でた。
飲んだくれた挙句ロズラム商人に騙されそうになっていたルトガーをローゼが助けたとき、「今度ちゃんと礼をさせてくれ」と言ったことを思い出したのだろう。
「そうだな、まだしてない。何でも言ってくれ」
ルトガーはローゼに向き直り、姿勢を正した。
約束は守ってくれるらしい。
ローゼはちらりと隣のイルムヒルトを見た。
もしも本物の聖女が現れたら、テオフィルとヘルミーネはどう動くだろうか。
間違っても、自分たちに都合の悪い事態を指をくわえて静観などしないはずだ。
必ず妨害してくる。
カリエール司祭の告白も、騎士団が護衛してくれそうなことも明るい兆しだ。
しかし、油断して足を掬われては三年前からの努力が水の泡になる。
ここは慎重に対応しなくてはいけない。
頭の中で考えを巡らせ、ルトガーに視線を向けた。
「皇太子の情報が欲しいの。皇宮で働いている知り合いはいる?」
聞いたとたん、ルトガーは破顔した。
「そんなことかよ。ああ、いるぜ。とびきり頼りになるやつが」




