第20話 薔薇の花の砂糖漬け
少し時間が遡り、夕方の城下町。
近衛騎士の仕事を終えたエリアスは、馬に乗り帰宅の途についていた。
石畳の道に蹄鉄の音を響かせながら、本日の皇太子テオフィルのにやけ顔を思い出す。
皇宮の執務室に、今日は聖女ヘルミーネの姿はなかった。
噂では体調不良で休養をしているのだという。
ここのところ、彼女が聖女の力で誰かを癒やしたという話は聞かない。
けれどもテオフィルはむしろ清々したような顔つきで、執務室に呼びつけたエリアスに言った。
「なあクロイツェル、私がおまえに命じたこと、ちゃんと守ってるか?」
「どのご命令でしょうか」
「とぼけるなよ。おまえがローゼと結婚する前に命じたことだ。あの女を愛するな、と」
「仰せの通りに」
「指一本触れてないな?」
「はい」
エリアスは眉一つ動かさずに答えた。
正確には昨夜、自分はローゼの手を握り「あなたを守る」と宣言していた。
だがここで問われている「指一本」は象徴的な意味合いのものだろうし、相手が皇太子だからといって馬鹿正直に逐一報告する義務はない。
その返事を聞くと、テオフィルは満足げにうなずいた。
「さすがは前近衛騎士隊長アルバン・クロイツェルの息子だ。見上げた忠誠心だな」
「……お褒めに預かり光栄です」
エリアスの表情にわずかに苦さが走る。
本当は少しも光栄だなどとは思っていなかった。
むしろ、この皇太子の口から父の名を聞くことに強烈な嫌悪感を覚えた。
父は高潔な騎士だった。
父が生涯仕えていた皇帝もまた、広大な帝国を統べるにふさわしい人物だ。
しかし、この皇太子は違う。
そしてまた、皇太子の命に唯々諾々と従っている自分も。
ローゼは公爵令嬢として生まれ、次期皇太子妃として十年間も厳しい妃教育を受けてきた高貴な女性である。
それにもかかわらず、皇太子から婚約破棄をされて準貴族の騎士風情に下賜され、あろうことかその騎士から初夜に「あなたを愛することはない」などと吐かれた。
並みの令嬢なら怒るか泣くかして実家に帰ってもおかしくはない扱いだ。
だがローゼは少しもめげずに郊外の屋敷町で気丈にふるまい、騎士の妻としての役割を果たしている。
公爵家の薔薇と讃えられ、扇よりも重いものを持ったことがないと言われていたあの細い体のどこにそんな気概を秘めていたのだろう。
エリアスは妻のローゼに触れないのではなく、触れられないのかもしれなかった。
ひどい逆境にもくじけずに明るく過ごす、彼女の笑顔が眩しくて。
テオフィルはいまいち反応の薄い己の近衛騎士を値踏みするように、上から下まで眺めた。
そして、慇懃に首を垂れる姿に満足したのか、口元に笑みを浮かべた。
「私は出かけてくる。おまえはこの執務室に誰も入らないよう、廊下で見張っていろ」
「は……殿下の護衛はいかがいたしましょうか」
「不要だ」
それだけ言うと、くるりと踵を返して執務室を出ていった。
短く息を吐いてその背中を見送る。
夕刻に、近衛騎士もつけずに皇太子がどこへ出かけるのだろうか。
あるいは近衛を伴えない理由でも?
どちらにしても、自分が何を言おうとあの皇太子は聞く耳を持たないだろう。
エリアスは苛立った。
帰りが遅くなると妻のローゼを待たせることになる。
彼女は自分が帰るまで夕食をとらずに待っていることだろう。
無人の執務室の番など、いつもの皇太子の嫌がらせの一つに過ぎない。
だからエリアスは、自分の身代わりに部下を呼んで立たせた。
結婚式の翌日に書類仕事を手伝ってやった、金髪の癖毛の部下だ。
あのときは家に帰って妻と顔を合わせるのが気まずくて、急ぎでもないのに書類を半分肩代わりした。
その貸しを返せと言うと、彼はにやにやしてエリアスを見た。
「そんなに早く家に帰りたいんですか? いつの間に奥さんと仲良くなったんですか? いいなあ」
「黙ってそこに立ってろ……いや、立っててくれ。頼む」
「へーい」
彼は気の抜けた返事をしながら敬礼し、仕事を上がる上官を見送った。
騎馬で皇城を出た。
夕暮れの大通りは家路につく人たちであふれていた。
混雑した石畳の道を並足で進む。
ゆっくりと馬を歩かせていると、ふと、菓子店の窓に展示された可愛らしい商品に目が吸い寄せられた。
薔薇の花の砂糖漬け。
白や薄紅の薔薇の花びらで作られた、宝石のように美しい菓子だ。
ローゼが皇太子の婚約者だった頃、何度かこれを口にしているところを見たことがある。
エリアスが皇太子の近衛騎士に任命された頃には、すでにローゼは塩対応の公爵令嬢ということで有名だった。
だがそんな彼女も皇宮でテオフィルと茶を飲む際にこの茶菓子が供されると、表情は冷ややかなままで一つ二つ、いや、三つほどはつまんで食べていた。
他の菓子は一つも手をつけないこともあったので憶えている。
それとも、塩対応の公爵令嬢が砂糖菓子を食べているという皮肉が記憶に残ったのか。
どちらにしても、ローゼはこの菓子を気に入っているはずだった。
考える前にエリアスは馬を下りて近くの柱に繋ぎ、店に入った。
店内は女性客ばかりで気が引けたが、中央の卓に綺麗に積み上げられた薔薇の砂糖漬けの小箱を一つ掴んで、大股で会計へと歩いた。
若い女性店員が笑顔で尋ねた。
「贈り物ですか?」
「……はい」
たった一つの質問に答えるだけで、エリアスの耳はじわりと赤くなった。
それに気づかないふりをしながら、店員は慣れた手つきで会計して小箱にリボンをかける。
この質問で赤くなる男性客など、ごまんと見てきたのだろう。
リボンのついた小箱を手に店を出た。
ローゼはこれを見たらどんな顔をするだろうか。
ただ無表情で傍に立っていた近衛騎士が、皇太子の婚約者が食べる菓子を観察していたことに驚くかもしれない。
驚くくらいならまだいいが、気持ち悪がられたら傷つく。
喜んでほしい、と思った。
皇太子に理不尽に捨てられ、嫌がらせ同然に騎士と結婚させられた上に「愛さない」などと言われ、それでも毎日笑顔を絶やさない健気な彼女が喜んでくれるなら。
砂糖菓子など、いくらでも買ってやる。
小箱を手に持ったまま、道端の柱に繋いだ馬のところに戻ろうとした。
聞き慣れた声がした。
「クロイツェル。おまえ、皇宮にいるはずじゃなかったのか」
皇太子テオフィルだった。
笑っている。
まるで、自分の近衛騎士が命令を聞かずに帰るのを見越していたかのように。
彼は凍りついたエリアスに歩み寄ると、その手の中の小箱を、ひょいと奪った。
仰々しくそれを持ち上げると、リボンがふわりと夕風をはらむ。
「これ、ローゼにだろう? あの女、澄ました顔でこの菓子だけは食ってたからな」
「…………殿下、」
「何も言わなくていい。これはもうゴミだ」
テオフィルは小箱を石畳に落とし、足でぐしゃっと踏みつぶした。
エリアスの顔が硬く強張る。
それを見て、愉快そうに言った。
「あれはおまえに下げ渡したが、やっぱり返してもらうことにした」
エリアスの目線が、つぶれた小箱からテオフィルに移る。
言葉の意味を理解した瞬間、ローゼの顔が浮かんだ。
皇太子妃になるのは絶対に嫌だと言っていた。
夕食のナイフを持つ手が震えていた。
自分は彼女の手を握り、「あなたを守る」と約束した。
妻との約束ひとつ守れないで、何が騎士だ。
エリアスは素早く手綱を握って、ひらりと馬に跨がり。
矢のように屋敷町の方面へ駆けていった。
皇太子への暇も告げずに。
「……主命に背く気か、クロイツェル?」
巻き起こった風に黒髪を乱したまま、テオフィルは小さく笑った。




