第19話 ハズレだった
「……ローゼ? いるの?」
玄関ホールのほうから、遠慮がちなイルムヒルトの声が聞こえた。
それを聞くと、こわばっていた体が動くようになった。
立ち上がり、厨房から顔を出す。
「イルミ」
「ローゼ。どうしたの、灯りもつけずに」
そう言いながら、イルムヒルトは慣れた手つきで近くの燭台に火を点した。
ぱっと明るくなった室内に、彼女の茶色の髪に水色の瞳が浮かび上がる。
ローゼの血の気の引いた顔と、怪我をした指も。
イルムヒルトの顔つきが瞬時に険しくなった。
「怪我してるの? 見せて!」
「ちょっ、イルミ……」
イルムヒルトの力は思いのほか強く、握られた手はびくともしない。
彼女はローゼの怪我をした手を両手で包むと、目を閉じた。
すると。
ほわっと指先が熱を帯びた。
優しいぬくもりに包まれ、気がつくと――。
「……傷が……塞がってる?」
ローゼは自分の指を燭台に近づけて凝視した。
ついさっきまで、たしかに出血し熱と痛みを持っていた指先の傷。
それが血の跡だけを残し、完全に塞がっている。
パッと視線を上げてイルムヒルトを見ると、彼女は少しきまりわるそうに、もじもじと言った。
「あ、私、昔からこういうことができて……でも、他の人には言わないでね。気味悪がられたら困るし」
唇に人差し指を当てるイルムヒルトを、ローゼは呆れたように見つめた。
「気味悪がられたらって……そんなはずないでしょう。素晴らしい能力よ。こんな能力を持っているなら、みんなこぞってあなたを称賛するわ」
「いいえ、たいしたことじゃないの。聖女の判定だってハズレだったし」
「聖女の判定?」
聞き返すと、イルムヒルトは苦笑いを浮かべた。
「ええ。自分が聖女かどうか確かめるために、一度、教会に判定を申し込んだの。でも結果は……一緒に受けたヘルミーネが聖女で、私は違った」
「ヘルミーネ様と……お知り合いなの?」
ローゼは驚いて尋ねた。
イルムヒルトはほほえんだ。
「そうよ。ヘルミーネは市場の近くに住んでて、買い物のときによく会うから仲良くなったの。一度、道端で苦しんでいたおじいさんを私が治してあげたことがあって、それを見ていたヘルミーネが『あたしも同じ能力が使えるの。一緒に聖女の判定を受けましょう』って」
「……聖女様が市場の近くに住んでいたなんて、知らなかったわ」
「ふふっ、親近感が湧くでしょう? すごく優しい人なのよ。ローゼみたいに、弟のザシャにまで良くしてくれて……あ、そうだ。これを渡しに来たんだったわ」
イルムヒルトはポケットから小さな包みを出した。
開くと、素朴な焼き菓子が入っていた。
粉と蜂蜜を混ぜ、練って焼いただけのもの。
形は不揃いだった。
「ザシャと一緒に作ったからちょっと不格好だけど、このあいだお昼をご馳走になったお礼」
「……私に? ありがとう、イルミ」
まるでさっきの指先のように、心がほわっと温かくなる。
公爵令嬢だったローゼは、贈り物なんて山ほどもらってきた。
でもそのどれもが綺麗に出来上がった既製品だ。
自分のために時間と手間をかけて手作りされたものなど、一度も受け取ったことがない。
ローゼは焼き菓子を両手で大事に包み込んだ。
「うれしいわ」
「よかった、喜んでもらえて。それじゃ、忙しいでしょうから私はもう行くね。またね、ローゼ」
「あ、待って」
帰ろうとしたイルムヒルトを呼び止めた。
きょとんとする彼女に笑みを向け、さりげなく尋ねる。
「聖女様がお友達なんて、うらやましいわ。ヘルミーネ様のほうから聖女の判定を受けようとあなたを誘ったの?」
「ええ。私はそんな大それた力じゃないからって断ったんだけど、ヘルミーネがぜひ受けましょうって……結局聖女だったのは彼女のほうだったんだけどね」
イルムヒルトが苦笑する。
ローゼは笑わなかった。
「判定はどんな方法でするの? 何か道具を使って? それとも司祭様が?」
「え? ああ、司祭様の立会いのもと、大聖堂の聖水晶に触って、赤くなったら聖女だと判定されるの。それで聖女ということになったら、大神殿で聖女の儀式を受けて、力を本格的に解放するのよ。……あーあ、もし聖女になってたら、今頃はお手当てをたくさんもらって、お金持ちになってたのにね」
残念そうに、けれど明るい笑顔で言うイルムヒルトに、ローゼは胸が痛んだ。
彼女の家は傾きかけた男爵家で、小さな弟にろくに食事もさせてやれないほど困窮している。
笑い話にしているが、本当は喉から手が出るほど聖女の座が欲しかっただろう。
聖女の儀式を受けて正式に聖女として認められれば、一生パンには困らない生活ができる。
イルムヒルトは小首を傾げてローゼに尋ねた。
「でも、どうしてそんなことを聞くの?」
「ちょっと気になっただけ。お菓子をありがとう、イルミ。この指も」
ローゼはにっこりほほえんだ。
イルムヒルトも「どういたしまして」と笑顔で帰っていった。
手早く夕食を作りながら、ローゼは今しがたイルムヒルトから聞いたことについて考えていた。
聖女ヘルミーネは平民で、イルムヒルトの友人だった。
そして二人一緒に聖女の判定を受け、ヘルミーネが聖女になった。
けれども今現在、ヘルミーネの癒やしの力は翳りを見せており、反対に、イルムヒルトはローゼの怪我を痕も残さず治してしまった。
「……イルムヒルトが聖女だった……?」
具だくさんのポリッジを作りながら、うわの空で呟く。
ありうる話だった。
ヘルミーネには皇宮の温室で一度会っただけだが、彼女は気怠げにテオフィルにしなだれかかり、出されたお菓子に文句を言っていた。
とても民を救う聖女のようには見えなかった。
聖女になれば食うには困らないどころか、皇族との結婚すら夢ではない。
何らかの方法でヘルミーネがイルムヒルトを陥れ、聖女の座を奪ったという可能性は大いにある。
もしイルムヒルトが本物の聖女だとしたら、当局に教えたほうがいいのだろう。
そうすればずっと臥せっている皇帝の病も治るかもしれないし、帝国にとっても利になる。
だが、ローゼはもう聖女にも皇宮にも関わりたくなかった。
少しでも前世と同じ悲惨な未来をたどる可能性がある選択を選びたくない。
たとえそれでイルムヒルトや皇帝や、他のたくさんの人たちが幸せになるのだとしても。
何より、エリアスと引き離される可能性には耐えられなかった。
最初はテオフィルから逃れるための、それから憧れの町娘の暮らしをしてみるための結婚だった。
それなのに今はもう、彼以外との結婚生活なんて考えられなくなっている。
「私は自分勝手なのかしら……」
呟いて、ポリッジの入った鍋に目を落とす。
手の込んだ料理を作る時間がなくても、身体が資本である騎士のエリアスのために、肉や野菜をたくさん入れて煮込んだものだ。
仕上げに、砕いた木の実も散らした。
味見をしたらまずまずだったし、見た目にも美味しそうだ。
最初に作った水スープよりも、だいぶましになった気がする。
これを出したときのエリアスの反応を想像すると頬がゆるんだ。
たぶん、彼は何も言わないだろう。
でも一口食べたあとにローゼが感想を聞いたら「悪くない」とは言ってくれる気がする。
もし味が気に入ったら、また「美味い」と褒めるだろうか。
あるいは――。
鍋を前に妄想していたら、軍靴の硬い足音が聞こえた。
エリアスが帰ってきた。
どきりと胸を弾ませ、足早に玄関ホールに出迎えに行った。
「エリアス、おかえりなさ……」
屋敷に入ってきたのは一人ではなかった。
玄関ホールにいたのは黒ずくめの兵士が三人。
皇宮で彼らを見たことがある。
兵士たちは、皇太子テオフィルの私兵だった。




