第18話 屋敷町の人たち
翌朝、早くに出仕したエリアスを見送ったあと、ローゼは屋敷の前の掃き掃除をした。
道を掃いていると、散歩する人や新聞を取りにきた近所の人と目が合った。
「おはようございます」
愛想よくほほえんだつもりだが、皆、パッと目をそらし、そそくさと去っていく。
皇太子に捨てられた公爵令嬢が騎士の嫁に来た、という噂は既に屋敷町中に広まっているようだ。
ワケアリの嫁とは関わりたくないのだろう。
気持ちはわかるが、少し傷つく。
「何もあんな風に避けなくても……」
ぼそっと呟いて箒を手に戻ろうとしたら、目の前で商人風の中年男が堂々と紙切れをポイ捨てした。
それは、綺麗に掃いたばかりのクロイツェル家前の道にパサッと落ちた。
ローゼはとっさに男を呼び止めた。
「お待ちになって。紙を落としましたよ」
柔らかく声をかける。
明らかにポイ捨てに見えたが、落としてしまった、ということにしたら、相手も拾いやすいかもしれない。
だが商人風の男は迷惑そうに立ち止まり、眉根を寄せた。
よく見ると男は細かく波打った髪を長く伸ばし、腕には刺青、耳と首には光り物をジャラジャラさせている。
かなりの強面だ。
しかも少々酔っている。
「なんだ、お嬢ちゃん。文句あんのか?」
切れ長の目がぎろりとにらみつけてくる。
ローゼは内心すくみ上がった。
だがクロイツェル家の嫁として舐められるわけにはいかない。
紙を拾い上げて男に突きつけた。
「私の目の前で落とされたものですから。どうぞ」
「いらねえよ、そんな外国語のわけのわかんねえ紙」
「…………でも、大事なもののようですが」
ローゼは紙に書かれた外国語の文面に目を落とした。
隣国ロズラムの言葉が、細かい文字でびっしりと書き連ねられている。
男は馬鹿にしたように鼻で笑った。
酒臭い。
「ただの形式的な紙だろ。大事なことは口頭で約束したからな。こっちはロズラムの連中と一晩中飲み明かして、すっかり腹を割った上で取引してんだ。そんな紙っ切れ一枚……」
「この契約書を失くした場合、積み荷は引き渡せないと書いてありますよ」
「なにぃっ!?」
男は血相を変えて紙をひったくった。
「ど、どこに」
「ここです。この小さい文字」
「はあぁっ!? 外国語の、こんな小さい文字なんて読めるわけねえだろ……!」
「ロズラム商人がよく使う手口です。酒で歓待して相手の都合のいい約束をしたように思わせ、その実、詐欺まがいの契約書でがんじがらめに縛って自分たちだけが得をする。いわゆるロズラム商法ですね」
妃教育で得た知識だった。
皇帝がずっと臥せっているため、ここ数年は帝国の実務についても、ローゼがカバーする場面が何度もあった。
もちろん大部分は宰相や大臣たちが担当しているのだが、なにぶん皆忙しいので、こまごまとした件はローゼも協力していたのだ。
皇太子が何も働かないから。
そういえばあの聖女は癒やしの力に翳りが出ているそうだが、皇太子の婚約者として実務面をカバーできているのだろうか。
もうローゼには関係のないことだが。
まさに今、ロズラム商人の詐欺に陥りかけていた目の前の商人の男は憤慨していた。
「なんてひどいやつらだ……! そういえば少し前に、商人仲間がロズラムに騙されたってわめいてたが、こういうことか……お嬢ちゃん、助かったぜ。ありがとうな」
「いいえ。これからはポイ捨てはしないでくださいね」
にっこり笑って釘をさすと、男はしっかりと紙を握り、気まずそうに自分の後頭部をさすった。
「ああ、悪かった。……俺はこの先の通りに住んでるルトガー・シュナイトってもんだ。今度ちゃんと礼をさせてくれ」
「楽しみにしてます」
「遠慮がねえな」
にっこり笑って答えると、ルトガーも呆れたように笑った。
気がつくと、近所の人が何人か、遠巻きにこちらを眺めていた。
ルトガーはその全員と知り合いのようで、大きく手を振ってローゼの肩を叩き「おーい、このお嬢ちゃん、ロズラム語が堪能だってよ!」と叫んだ。
注目を浴びてローゼは顔を赤くしたが、それを聞いた近所の女がこちらへ歩いてきた。
「ねえ、ロズラム語ができるって本当? うちの旦那が最近、ロズラム商人と大口の取引をするって張り切ってるんだけど、心配で……もしよかったら、契約書を一緒に見てくれないかしら」
「いいですよ」
ローゼは笑顔で答えた。
裕福な商人が多いこの地域では、ロズラム商人と取引する人も多いのだろう。
妃教育で培った語学力がこんな形で役に立つとは思わなかったが、貴族に社交が重要であるのと同じく、騎士の妻にも近所づきあいが重要なはずだ。
それに妻が近所の人と仲良くなれば、エリアスも喜ぶだろう。
その日から、ローゼは家事の合間に、近所の人から頼まれてロズラム語の契約書を翻訳することが増えた。
隣国ロズラムはエスヴァルト帝国の最大の貿易相手国だ。
取引相手としては狡猾で油断ならないが、勤勉な国柄でロズラム産の商品はどれも品質が良い。
したがって契約件数も多いため、ローゼの語学力は重宝された。
今日もローゼは近所の人に頼まれ、契約書を見てあげていた。
そのあとでお礼にとお茶とお菓子をご馳走になり、世間話に花を咲かせること二時間。
この屋敷町の人たちとも徐々に打ち解け、楽しい時間を過ごせるようになってきたが、気がつけばもうすぐエリアスが帰ってくる時間だった。
「……遅くなっちゃったわ。急いで夕ご飯を作らないと」
クロイツェル家に帰り、ドレスの袖をまくって竈で火を起こし、野菜を切る。
そのとき、焦っていたせいか包丁で指を切ってしまった。
「っ!」
ざっくりと深く切ってしまい、人差し指の先から赤い血がしたたり落ちる。
「…………」
刃物で切った傷。
真っ赤な鮮血。
それは強烈に前世の死に際を思い出させた。
全身から血の気が引き、気分が悪くなる。
立っていられずに、その場にへたりこんだ。
もうすぐエリアスが帰ってくるのに。
仕事を終えて帰ってきた彼は、食事ができてないと知ったら失望するだろう。
だからすぐに手当てをして料理の続きをしなければならない。
でも、立てなかった。
目だけが縫いつけられたように指の傷を見つめ、息が浅くなる。
自分が一度死んたことを思い出した体が動かない。
夕暮れの厨房はどんどん薄暗くなっていく。
このまま闇に塗りつぶされてしまいそうだ。
そのとき、玄関で物音がした。




