第17話 あなたを守る
帰りがけに食料品を買い足してクロイツェル家に帰った。
ローゼは買ってきたものをしまいながら湯を沸かし、さっそく舶来物の茶を淹れた。
乾燥した花びらの茶葉をティーポットに茶さじで二杯入れ、湯を注ぐ。
たちまち湯は澄んだ青色に変化した。
露店の店主は「無味無臭だからジャムを入れて飲むのがおすすめよ」と言っていた。
色は美しいが、本当に香りはしない。
ローゼは二杯のカップに茶を注ぎ、ベリーのジャムを入れてかきまぜ、居間に運んだ。
居間にはエリアスがいて、長椅子に座り騎士団の収支報告書を読んでいた。
今日は非番だと言っていたが、分厚い書類を持ち帰ってきているあたり、仕事は溜まっているが無理やり休みをもぎ取ってきたのかもしれない。
ローゼは邪魔しないようにそっとテーブルに茶を並べたが、エリアスはポイっと書類を放りだし、カップを覗きこんだ。
「綺麗な色の茶だな」
「ええ。体にもいいそうよ」
エリアスの向かいに座ってカップを持ち上げ、ちらりと彼を見る。
青色に惹かれたのもあるが、本当は店主の「とっても体にいいお茶ですよ」という口上が購入の決め手だった。
エリアスは数ある市場の品物の中で、体にいいからと木の実を買っていた。父の教えだと言って。
騎士は体が資本だ。
だから自分も、エリアスに少しでも健康効果のあるものを摂ってほしくて。
ローゼは一口茶を飲んだ。
「……甘い」
「……甘いな」
ジャムを入れすぎた。
甘ったるい。
健康とは対極にありそうな味だ。
しゅんとした顔でローゼはエリアスを見た。
目が合った。
「あの、無理しないで、残しても――」
最後まで言い終わらないうちに、彼はカップを傾け、ひと息に茶を飲み干した。
喉仏が大きく動く。
ローゼはあっけに取られてそれを見ていた。
残すという選択肢はなかったらしい。
それも父の教えだろうか。
食べ物を残すなという。
それから彼は、カップを置いて立ち上がった。
壁際の棚からずっしりと持ち重りのしそうな布袋を取りだし、それをぽんとローゼに手渡す。
「当面の生活費だ」
「……お金なら持っているけれど」
「それはあなたのものだろう。ここで暮らすのに必要な分は夫の俺が出す」
当然のように言い切ってから、遅れて目元のあたりを朱に染めて横を向いた。
ローゼもつられたように赤くなった。
夫。
そうだ。
自分たちは夫婦なのだった。
生活費を共有するのはなんらおかしなことではない。
ないのだが、なぜかこういう会話をするのは無性に照れる。
誤魔化すようにローゼは布袋を持ち上げた。
じゃらり、と硬貨が鳴る。
エリアスが近衛騎士の務めを果たして稼いだ金だと思うと、なんだかその音までが尊く思えてきた。
ローゼはそれをそっと両手で包み、ほほえんだ。
「ありがとう。大事に使うわね」
「……ああ」
ローゼの笑顔を見ると、エリアスの目元の朱はじわりと耳のほうにまで広がったような気がした。
すぐに彼は背を向け二階に上がっていってしまったので、よく見えなかったけれど。
その夜、ローゼはペトラのやり方を真似してタルトを焼いた。
燻製肉と卵のタルト。
粉にバターと塩と水を混ぜた生地に、サイコロ状に切った燻製肉と卵と蜂蜜を混ぜたフィリングを入れて、オーブンで焼く。
素朴な料理だ。
焦げ目のついた表面に塩と胡椒とパセリをかけたら、なんとなくそれっぽく見えた。
中身は少々生焼けだったが。
夕食の席でタルトを一口食べたエリアスは、ぼそりと言った。
「美味い」
「本当!?」
ローゼは思わず身を乗りだした。
エリアスはその勢いに少々面食らい、それからふっと笑った。
「本当だ。数日でこんなに上達するとは思わなかった。あなたは妃教育でも優秀だと聞いていたが、呑み込みが早いんだな」
「そんなことは……でも、妃教育にも料理があればよかったのにと思うわ」
「皇太子の妃が料理か」
ぽつりと呟いたエリアスの顔から、笑みが消えた。
彼はテーブルに視線を落とし、慎重に言葉を選びながらローゼに告げた。
「……聖女ヘルミーネ様の癒やしの力に、翳りが生じている」
「え……」
「殿下のお気持ちも、少しずつ離れているようだ」
「……そうだったの」
驚いたが、それだけだった。
ローゼにとってテオフィルはできるだけ関わりたくない相手だ。
だが、エリアスはそうは思っていなかったらしい。
じっとローゼを見つめ、尋ねた。
「あなたはまだ皇太子妃になれるかもしれない」
「絶対になりたくないわ」
間を置かずにきっぱりと宣言した。
エリアスは意表を衝かれたようにぱちぱちと瞬きをした。
「絶対に?」
「ええ、絶対に嫌。何があっても」
力強く断言する。
「……殿下と何かあったのか」
「何か……ええ、まあ、あったわね。ぞっとするような出来事が。思い出したくもないけれど」
「そんなにひどいことが……」
まるで自分がひどいことをされたかのように、エリアスは苦しげな表情を浮かべた。
それを見てローゼの胸が痛んだ。
本当に優しい人だ。
この人を巻き添えにして死んだ前世の自分に、いや直接の原因である前世のテオフィルに、むかむかと腹が煮えてくる。
ぎゅっと握ったナイフの刃に、あの日、近衛騎士たちから向けられた剣の切っ先が重なった。
テオフィルが冷酷に「殺せ」と命じた声も。
一度思い出すと止まらなくなった。
呼吸が浅くなり、ナイフを握った手が白くなる。
動悸がして、強張った体が震えだす。
駄目だ。
今はエリアスと食事をしているのに。
前世の彼は、ローゼを高潔だと褒めてくれた。
怖くて震えているこんなみっともない姿を見せたら、失望されて――。
「ローゼ」
気がつくと、痛いほどナイフを握りこんでいる手に、エリアスの大きな手が重ねられていた。
ごつごつしている。
剣だこがいくつもある。
けれど、温かい。
彼は真剣な顔で言った。
「思い出さなくていい。皇太子妃になんてならなくていい。あなたは俺の妻だ。俺があなたを守る」
その灰色の瞳を見て、低い声を聞いた瞬間。
恐怖が波のように引いていった。
三年前からずっと一人で戦ってきた不安も。
今まではどこか、おままごとのように夫婦を演じているような気がしていた。
けれど今初めて、夫として彼を見た。
エリアスは騎士道精神にあふれた人だ。
前世でローゼが彼に褒められた言葉は「高潔」だった。
「美しい」でも「かわいい」でもなく、「高潔」。
そのたった一つの美点だけで、彼は危険をかえりみずローゼを皇宮から逃がしてくれようとして――命を落とした。
ローゼもろとも、仲間である近衛騎士たちの剣に刺し貫かれて。
そういう人だから、今世でも主命で仕方なく娶った妻を守ろうとしてくれているのだろう。
勘違いをしてはいけない。
でも、心強いことは間違いない。
それに、どうしようもなくうれしかった。
「……ありがとう、エリアス」
灰色の瞳に魅入られたかのように視線を返し、囁くように答えた。
エリアスは手を引っ込めて、そっけなく「料理が冷める」と食事を再開した。
照れ隠しのようにタルトをフォークで素早く口に運ぶ。
ローゼもうなずいてタルトを切った。
まだ体中が温もりに包まれているようで、ナイフの刃を見ても、もう怖くなかった。




