第16話 市場へ行こう②
大聖堂に面した石畳の広場は広く、円形で、中央には大きな噴水があった。
市場とは違ってこの広場にはせわしさがなく、夏の日差しを受けて人々は悠々と歩いたり、噴水のふちに座ったりしている。
ぐるりには路面に店を出すカフェや、焼き菓子の屋台もあった。
そのおこぼれを狙い、鳩も何羽か石畳の上を歩き回っている。
風に乗って焼き菓子の香りが流れてきて、ローゼは屋台を見た。
家を出てから結構時間が経っているので、少々空腹だった。
屋台の板に並べられているのは蜂蜜がたっぷりかかった黄金色の焼き菓子。
甘いバターの香りが魅惑的だ。
エリアスはローゼの視線に気がついた。
「食べたいのか」
「いえ、別に」
食べたい。
だが反射的にそう答えてしまった。
今は昼前だし、外で買い食いなどというお行儀の悪いことは一度もしたことがない。
公爵令嬢として受けてきた厳しい躾がとっさに顔を出した。
だが、エリアスはなぜか屋台に行って、焼き菓子を二つ買ってきた。
包みを手に戻ってきた彼を見て、ローゼはぽかんとして言った。
「いいと言ったのに」
「あなたは嘘をつくとき視線がそれる」
「………………」
驚いてエリアスをまじまじと見つめた。
たしかに嘘をつくとき、相手の目を見られずにそらしてしまう自覚はある。
ローゼは皇太子の婚約者だったから、皇太子の近衛騎士をしているエリアスと同じ空間で過ごすことはたしかに多かった。
けれど、エリアスが自分のことをそんなによく見ていたなんて思いもしなかった。
ばつが悪くなったのか、彼はぶっきらぼうに言った。
「近衛騎士は警護対象をよく観察する必要があるので」
「……ああ、なるほど」
そうか。そういうことなら納得だ。
頷くローゼを見て、彼は小さく息を吐いた。
エリアスに促され、並んで噴水のふちに腰掛ける。
「……ここに座って食べるの?」
「嫌か」
「全然。こういうの、初めてだわ!」
憧れの町娘になれたようで心が弾み、ローゼは満面の笑みで答えた。
それをまともに見たエリアスは数秒言葉に詰まり、視線をそらすと、ぶっきらぼうに焼き菓子の包みを差し出した。
赤髪の下の耳が赤く見えるのは光の加減だろうか。
押しつけられるように受けとった焼き菓子は作りたてのようでまだ温かい。
ぱくりと頬張ると、サクサクした生地の香ばしさと舌ざわりにまず感動し、生地に調和したとろける蜂蜜の甘さに心が震えた。
「美味しい……!」
口元を押さえて目を輝かせると、傍らでローゼの食べる様子をじっと見守っていたエリアスは、安堵したように肩の力を抜いた。
「そうだろう。あの屋台の焼き菓子は人気なんだ。休日はよく行列ができてる」
「よく買うの?」
「いや、初めて買った」
エリアスはしれっと言い、一口齧って「美味いな」と驚いたように呟いた。
ローゼは目を丸くした。
この街のことならなんでも知っているような彼も、この焼き菓子は初めてだったらしい。
初めてのことを一緒に経験しているのだ。
うれしくて、顔が自然にほころんだ。
「本当に美味しいわ」
「そんなに気に入ったならもう一つ買うか」
「ううん、大丈夫。また今度で」
言ってからハッとした。
また今度、だなんて。
次も当然エリアスと一緒に買い物に来て一緒にこの焼き菓子を食べることを迫るような、図々しい発言をしてしまった。
そっと彼の表情を窺う。
エリアスは焼き菓子を齧る手を止め、小さく笑った。
「また今度、ね。了解」
「……ええ」
その笑顔に、心臓がぴょこんと跳ねた。
頬が熱くなる。
美味しいはずの焼き菓子の味がよくわからない。
ローゼはエリアスから顔を背け、そっと噴水に手を浸して熱を冷ました。
♢
「…………へえ。あの顔で笑うの、久しぶりに見た」
同時刻、同じ広場の菓子店の陰から、皇太子テオフィルが冷たいまなざしをローゼに注いでいた。
背後には近衛騎士が二人、気配を殺して立っている。エリアスの同僚だが、エリアス本人にこの尾行の件を話すことは決してないだろう。
皇太子に口止めされているからだ。
風が噴水の飛沫を運び、腕組みをしたテオフィルの黒髪をわずかに濡らす。
目尻の垂れた薄茶色の瞳をすがめ、皇太子が独り言ちる。
「なーんか腹立つよね……泣くだろうと思って近衛騎士に下げ渡した私の婚約者が、昔みたいないい顔で笑ってたらさあ……」
二人の近衛騎士は答えない。
ただ黙って主君の言葉を傾聴している。
テオフィルも別に返事は求めていない。
皇太子テオフィルは公爵令嬢ローゼ・デア・アルノルトとの婚約を破棄し、新たに聖女ヘルミーネを婚約者として迎えた。
だが、ヘルミーネの癒やしの力を疑う声が日に日に皇宮内で高まっているのは公然の秘密だった。
真っ先に癒やすべき皇帝の病が、なかなか癒えない。
それでは試しに他の者を癒やしてみろと言われても、体調が悪いだの日が悪いだのと言い訳を並べて癒やしの力を使おうとしない。
一度、ヘルミーネの長い爪がテオフィルの手に小さな傷をつけてしまったことがあり、それを彼女が癒やしたことはある。
だが、それだけだ。
その程度の些細な傷なら、これまでにも治せる者はいた。
聖女だと名乗ったその者たちは、聖水晶による聖女の判別ではことごとく弾かれた。
大聖堂の聖水晶は、聖女が触れたとたんに赤く染まると言われているが、この百年というもの一度も色を変えていない。
けれども、ヘルミーネが大聖堂で聖女の判別を受けたときには、たしかに聖水晶が赤く染まったと司祭が報告しているのだ。
テオフィルは苛立っていた。
ヘルミーネは美しく魅力的だが、婚約したのはあくまで彼女が聖女だからだ。
魅力的なだけの女なら皇宮にいくらでもいる。
しかし、聖女ではなかったとヘルミーネを婚約破棄するのは躊躇われた。
すでにテオフィルはローゼとの婚約を破棄している。
さすがに二度も婚約破棄をするのは体面が悪い。
それにもし、偽聖女に騙されて娶ろうとしたなどと噂が立てば、皇太子としての自分の輝かしい評判にも傷がつく。
皇族は何一つ間違えることなどない、神のごとき存在であるのに。
ヘルミーネを問い詰めると泣きながら「今は少し調子が悪いだけ」だと訴えるので、それを信じて待つしかなかった。
くさくさしていたテオフィルは、気晴らしに自分が捨てた元婚約者が不幸に打ちしおれている姿を見に行こうと思い立った。
近衛騎士二名を連れ、お忍びで皇宮を出る。
クロイツェル家ではちょうどエリアスとローゼが出かけるところだった。
距離を取って尾行する。
だが、何か様子がおかしい。
夫婦の間には会話一つないのかと思えば、仲良くなにやら喋っているし、そもそもなぜ二人で出かけているのだろうか。
クロイツェルには妻を虐めろと命じたはずだが。
市場でクロイツェルが木の実を買ったと思えばなぜかほわほわした雰囲気になっているし、広場では二人並んで噴水なんぞに座り焼き菓子を頬張っている。
公爵令嬢の矜持はどうした。
あの三年間のツンツンした態度はどこへ行った。
極めつけはローゼがエリアスに向けたあの笑顔だった。
相手への好意がふわりと花開いたような、可愛らしい笑顔。
三年前まで、ローゼがこの自分に惜しみなく向けていた顔だ。
近衛騎士の手前、テオフィルは平静を装って「なーんか腹立つよね」などと呟いたが、内心ではどす黒い感情が煮えたぎっていた。
突然、ガンッ、と音を立てて菓子店の看板が吹っ飛んだ。
テオフィルが蹴り飛ばしたのだ。
ただ、苛立ちのはけ口として。
菓子店の店主が何事かと店から出てきたが、護衛を引き連れた明らかに高位貴族らしいテオフィルの姿を見ると、看板を抱えてすごすごと店に戻っていった。
看板は無残にひしゃげていた。
近衛騎士たちが気まずそうに顔を見合わせる。
テオフィルは周囲の反応など気にも留めず、噴水のふちに座ってエリアスに笑いかけるローゼを見つめていた。
「……あんな笑顔、私以外の男に向けたら、駄目だろう?」
低い呟きが、夏の広場の片隅に溶けて消えた。




