第15話 市場へ行こう①
翌日、ペトラの作り置きの残りで簡単な朝食をとり、エリアスとローゼは家を出た。
今日は非番らしく、エリアスはいつもの近衛騎士の制服ではなくラフな私服姿だった。白いシャツに、無造作に下ろした鮮やかな赤髪が映える。
ローゼは空色の簡素なデイドレスを着て、金の髪は上半分だけを編み込んでいた。前世でフローラに教えてもらった髪型だ。
着替えて階段から降りてきたローゼを見たとき、エリアスは数秒静止し、それからぎこちなく視線をそらして「にあ……いやなんでもない」と早口で呟いた。
似合うと言いたかったのだろうか。それとも似合わないからやめろとでも言いたかったのだろうか。
ローゼには判断がつかなかった。
夏の空は青く澄み、平日の遅い朝に屋敷町を行き交う人はまばらだ。
半歩先を歩くエリアスが振り向いた。
「少し歩くと市場に出る。……行ったことはあるだろうが」
「ええ、道はわかるわ」
当然のように答えると、彼はわずかに口角を上げた。
「相場もわかる?」
ローゼは押し黙った。
食料品を買うのに金貨を使ったことがばれているのだろう。
あれはローゼが公爵令嬢時代に貯めていた個人的な金なのだが、毎回金貨を払って釣りももらわず大盤振る舞いしていたらすぐに底をついてしまう。
そうなれば生活費はエリアスに頼らざるを得ないわけで、つまり、何も言い返せない。
黙り込んだローゼを見て、エリアスは口調を和らげた。
「いや、すまない。責めているわけじゃなくて。数日前まで公爵令嬢だったならわからなくて当然だろう。これから少しずつ、覚えていけばいい」
「……これから」
思わず鸚鵡返しに呟いた。
これから。未来の話だ。
ローゼが裏で仕組んだこの結婚を、エリアスは主命だからと受け入れた。それまではローゼとの結婚など考えたこともなかっただろう。しかも彼は、おそらくそれも主命なのだろうが、新婚初夜にローゼに向かって「愛さない」と宣言した。妻に興味を持たず放置してもおかしくない――というか、近衛騎士としては妻を放置して虐げたほうが上の覚えがめでたくなるような状況なのに。
(それでも、私に買い物の仕方を教えてくれるの)
自分たちは主命によって結婚させられた、形だけの夫婦だ。
これから生活していくためには必要なことだから、仕方なく教えてくれるのだろう。
けれども少し前を歩きながら時折こちらを振り向き、ローゼがついてきているか確認するエリアスを見ると、胸のあたりがきゅっと苦しくなった。
市場に行くと人出が多くなった。
道端に布を敷いただけのこまごまとした雑貨の露店や、台の上に簡単な天幕を張った野菜や果物やパンの出店。舶来物の異国情緒あふれるお茶や小物や装飾品の店。
燻製や塩漬けや腸詰めなどの加工された食品は日陰の涼しい場所で、生の肉や魚は石造りの建物内で鮮度管理のもと販売されている。
帝都らしく、歩いている人はさまざまな国や地域から来ているようだった。一番多いのはローゼやエリアスと同じエスヴァルト帝国人だが、東方や南方の領土の服装をした商人や軍人もちらほらと見かける。
エリアスは通路側を歩き、せわしなく行き交う人の波からローゼを守るように歩いた。
近衛騎士の習性だろうか。
すれ違った女性の何人かが振り向いて、彼をちらちらと見ていた。
長身と赤い髪、それに端正な顔立ちが目を引くのだろう。
だがエリアス本人はまったく気づいておらず、歩きながらローゼに淡々と品物の買い方について説明した。
「商品の価格はあってないようなものだ。値札を提げているところはほとんどない。金を搾れそうな客だと思われたらとことん搾り取られる。だから、間違っても最初から金貨を見せたりしないほうがいい。金貨一枚あれば、この通りに並んでいる出店の商品を丸ごと買っても釣りが来るはずだ」
「……次からはそうするわ」
通りにずらりと並ぶ数十件の出店を見ながら、ローゼは小さく答えた。
世間知らずの自分はさぞ良いカモだっただろう。家まで届けてくれるなんてなんて親切なの、などと感激したことが恥ずかしい。あの金貨でこの通りの商品を丸ごと買えたというのに。
エリアスは木の実を売る露店の前で立ち止まり、腕を組んで商品を眺めた。
アーモンド、クルミ、ヘーゼルナッツ、松の実が、それぞれ木箱に山盛りにされている。
傍らには大きな木の匙と天秤。
髭の店主がエリアスとローゼを見て、にこやかに言った。
「いらっしゃい。何にする?」
視線を木の実から恰幅のいい店主に移し、エリアスが尋ねた。
「アーモンドとクルミを一杯ずつでいくらだ」
「銅貨二十枚でいいよ」
「別の店では銅貨十五枚だったが」
「うちのは特別にいい品なんだがね。じゃ、十八枚にまけとくよ」
「昨秋は豊作でどこもいい品を扱っていると聞いた。十六枚」
「まいったね……十七枚。これ以上はまけられないな」
「包んでくれ」
店主は肩をすくめると、アーモンドとクルミを木の匙で掬って棒ですりきり、麻袋に詰めた。
エリアスが懐の布袋から銅貨を出して支払った。
商品を受けとり、ローゼを目で促して歩きだす。
歩きながら、ローゼが感心したように呟いた。
「銅貨三枚もお得に買えたわ」
「二十は少し高かったからな。あまり値切ると嫌われるが」
「木の実が好きなの?」
何気なく尋ねると、エリアスは虚を突かれたという表情を浮かべた。
「好きかどうか考えたことはない。……体にいいし腹持ちもいいから騎士はとにかくこれを食えと、昔、父から教わった」
「お父様から」
妃教育を十年も受けていたので、皇帝の近衛騎士だったエリアスの父には、ローゼも何度か会ったことがある。
アルバン・クロイツェル。
息子のエリアスよりも金色に近い赤銅色の短髪で、体格が良く、実直で腕の立つ近衛騎士隊長だった。
隙のない身のこなしと怪しいものを見逃さない鋭い目つきをしていたが、皇太子の婚約者だったローゼを見るときは、その灰色の目が優しく細まったことを憶えている。
エリアスに対しても、きっと優しい父親だったのだろう。
ローゼはほほえんだ。
「それではあなたのお父様の教えを守り、家に木の実を切らさないようにするわね」
エリアスの足が止まった。
父親と同じ灰色の目が大きく開かれ、ローゼを映している。
耳が少し赤い気がする。
彼は口元を手の甲で隠すように覆い、顔を背けて言った。
「……ありがとう……他に、何か買いたい物は?」
「そういえば、さっき、珍しい色のお茶が売っていたわ。買ってもいい?」
「もちろん」
ローゼは舶来物の食品が売っている露店に戻った。
店主はビーズの耳飾りと首飾りをたくさんつけた女性だ。
その店主から、湯を注ぐと鮮やかな青色の茶になるという茶葉を買った。
皇宮のお茶会でも実家の公爵家でも見たことのない茶だった。
南方の国の特産品らしい。
さきほどから店主が「舶来のお茶はいかがですか、綺麗なだけじゃなく体にもいいですよ」と大きな声で呼びこみをしていたので、健康効果も期待できそうだ。
輸送代がかかっているので少々高かったが、少しだけまけてもらった。
すぐ傍で見守っていたエリアスも「なかなか筋がいい」と褒めてくれた。
値引き交渉に筋などあるのだろうか。悪い気はしないが。
お茶の袋を大事そうに抱えて歩くローゼの姿に、エリアスは目を細めた。
「次は、広場にでも行こうか」
「ええ」
ふたたび並んで歩きだした。
広場に行く途中、空気が少し変わった。
横に伸びるのは薄暗くごみの散らばった路地裏。
すべての窓硝子が割れ、壁が崩れかけた赤煉瓦の建物の横で、柄の悪そうな男が三人、額を突き合わせて小声で何か話している。
その奥には、壁にもたれかかって昼間から酒瓶を呷っている男。
歩きながら、エリアスは顎でそちらを示した。
「あの辺りには近寄らないほうがいい。脛に傷を持つ連中がたむろしてる……この街の暗部をまるごと煮詰めたような場所だ」
「わかったわ」
どうやら危険な人が集まる場所のようだ。
ちらりとそちらを見ると男の一人と目が合いそうになり、ローゼはあわてて視線をそらした。




