第14話 私の夫
エリアスはその夜遅くに帰ってきた。
任務が長引いたのかもしれない。精悍な顔がやや憔悴していた。朝は綺麗に後ろに撫でつけられていた赤髪が一筋、額に落ちている。
玄関扉が開いた音を聞いて出迎えに現れたローゼを見ると、彼はスッと目をそらした。
「まだ起きていたのか。休んでいてよかったのに」
突き放すような、そっけない言い方だった。
ローゼは外套を受け取ろうと手を伸ばした。
だがその前に彼が自分で壁に外套をかけていた。
手持ち無沙汰なまま、気を取り直して言う。
「夕食の用意をしましょうか。今日はペトラさんが来て、色々作ってくれたの。とっても美味しいのよ」
「いや、遅くなったから外で済ませてきた」
「そう……」
ペトラの手料理を喜ぶかと思ったのだが、外食をしてきたようだ。
夫のつれない返事に、ローゼはぎゅっと両手を握った。
そして心の中で、声を大にして叫んだ。
(……私の夫は、なんて優しいのでしょう!)
任務で疲れて帰宅したのに、「休んでいてよかったのに」と妻を気遣ってくれる懐の深さ。
脱いだ外套を妻に押しつけず、自分で片付ける自立性。
帰りが遅くなったら、夜中に料理を再加熱する手間をかけまいと外食してくる思慮深さ。
比較するものではないが、ローゼを軟禁し放置したあげく命を奪った前夫テオフィルとは天と地の差だった。
エリアスが優しいことなどとっくに知っている。
なにしろ前世で彼は、ローゼを助けようとしてもろともに殺されたくらいなのだ。
優しいにもほどがある。
(それに、初夜でエリアスが私を「愛さない」と言ったときも……)
あの夜、エリアスはローゼの寝室に来てこう言った。
『主命ゆえ結婚しましたが、俺があなたを愛することはないでしょう』
淡々とした口調とは裏腹に、彼の表情は苦しそうだった。
全身が強張り、拳をきつく握りしめ、逞しい腕には筋が浮いていた。
そして、うつむいたままその場を動かなかった。
まるで頬を引っぱたかれるのを待っているかのように。
だから、ひどい言葉をかけられたというのに、ローゼの顔はほころんだ。
エリアスの誠実さを垣間見た気がして。
まず間違いなく、あの性格のねじくれた皇太子に言わされているのだろう。翌日には自分がどんな反応をしたのか報告させられるはずだ。
笑っている場合ではない。
ローゼは笑みを消すと、平坦な声で答えた。
『それで構いません。わざわざお伝えいただきありがとうございます。おやすみなさい』
あのときのエリアスの驚いた表情を思い出し、ローゼの頬がまた緩んだ。
「……何を笑っている?」
目の前のエリアスに怪訝そうに聞かれ、ローゼは慌てて澄まし顔を作った。
「いえ、別に。ペトラさんの美味しいスープを思い出して。私の料理とは大違いだわ」
ペトラが作ったニンジンとフェンネルのスープは最高だった。
ローゼの水のように味気ないスープとは、全然違う。
けれど、エリアスはローゼをまっすぐに見て言った。
「あなたの作るスープも悪くなかった」
「……っ!」
胸がきゅうっと締めつけられた。
一気に顔が火照る。
火を起こすのも野菜を切るのも何もかもが初めてで、具材が煮えているのかどうかもわからなくて、それでも一生懸命作ったのだ。
その努力を、認めてくれた。
「……ありがとう」
ぽつりと呟くと、夜の玄関ホールに、どこか落ち着かない空気が漂った。
エリアスもなんだか居心地が悪そうに視線をさまよわせていた。
「愛さない」と言った相手と夜中に長々と喋っているこの状況が気まずいのかもしれない。
別にそのことは気にしていなかった。
エリアスの優しさと誠実さに白羽の矢を立て、外堀を埋め、結婚できるよう仕向けたのはローゼである。愛されなくても当然で、むしろ負い目を感じるのはこちらのほうだ。
早々に彼を開放しなければと、ローゼは必要な伝達事項を早口で告げた。
「今日は向こうの通りのイルムヒルト・ブランシュ男爵令嬢とお近づきになったわ」
「イルミと?」
「…………ええ、そう。イルミと」
エリアスの口調に滲んだ親しみに少々面食らいながら、ローゼが頷いた。
イルミ。愛称だ。昔からその名で呼んできたことがわかるほど、その名はエリアスの声に馴染んでいた。
そういえばイルムヒルトもエリアスのことを呼び捨てにしていた。
昔馴染みなのだろう。気にすることではない。結婚前の公爵家の調査でも、エリアスに女性の影はなかったのだから。
だがなぜか、胸の奥がざわめいた。
それを押し隠して言う。
「近くをお散歩していたら、たまたま会って。弟のザシャと一緒にお昼に招待したの」
「……そうか。ありがとう」
ありがとう?
なぜ礼を言われるのだろう。
まるで、彼の望みをローゼが叶えたとでもいうように。
(――そんなに、イルミのことが大事なの?)
胸の奥を予想外の強風が吹き抜けたが、ローゼは涼しい顔で階段に向かった。
「それでは、私は先に休ませていただくわ」
「ローゼ」
硬い声で呼ばれた。
さきほどの、「イルミ」と親しげに口にした声とはまるで別の。
ローゼは立ち止まり、振り向いた。
エリアスはどこか険しい面持ちでこちらを見つめている。
どきりとした。
強い不安と寄る辺のなさに襲われる。
また皇太子に何か命じられたのだろうか。
エリアスと結婚すれば逃れられると思っていたが、もしも皇太子が気まぐれで、またローゼを傍に置こうと思ったら?
近衛騎士であるエリアスは主命には逆らえない。現に、主命によってローゼと結婚した。
離婚だってするだろう。
そうなれば、もうローゼには何もない。
自由を謳歌していると思い込んでいたが、立っている足場は驚くほど危ういものだった。
エリアスを見上げ、おそるおそる尋ねる。
「……何?」
彼はまるで難しい任務でも命じられたかのような表情を浮かべ、腰の横で拳を握ったりゆるめたりしていた。
それから小さく息を吐くと、ローゼを見て言った。
「明日……………………街を案内する」
ローゼは目を瞬かせた。




