第13話 イルムヒルト
供をつけずに一人で街を歩くことも、以前のローゼの生活では考えられないことだった。
身軽過ぎて少しだけ心許ないが、それ以上に楽しくてたまらない。
クロイツェル家があるのは王都郊外の屋敷町で、騎士家のような準貴族の館や、そこまで裕福でもない男爵家、それから力のある商人の家などが立ち並んでいる。
大陸に広大な領地を占める帝都の城下町なので、家々はさまざまな意匠に富んでいる。
伝統的な帝国風、雰囲気のある植民地風、あるいは交易路のはるか向こうの東方風。各家の庭の植栽も個性豊かだ。
整備された道は広く、街路樹が風に葉を揺らしている。
風景を眺めて歩くだけで楽しかった。
あてもなくふらふらと屋敷街を散歩していると、前を通りかかった小ぢんまりとした邸宅から、子どもの泣き声が聞こえた。
「イルミお姉ちゃん、お腹がへったよう。ご飯が食べたいよう」
「我慢して、ザシャ。もうお金がないのよ」
ローゼはぴたりと足を止めた。
ここは屋敷町だ。住んでいるのは貴族や準貴族、あるいはお金持ち。
けれども、盛者必衰は世の理である。
立派な屋敷を構えていた家門が、ある日没落するのは珍しいことではない。
「もうイラクサなんて食べたくない! おいしいものが食べたいよう」
「ザシャ……じゃあ、最後の蜂蜜を使って、イラクサのゼリーを作ってあげるから」
「イラクサは嫌だーーーっ!」
切なる叫びを聞くと胸が痛んだ。
前世の軟禁生活で食べたいものを食べられないつらさは身に染みている。
幼い子どもならよけいにつらいはずだ。
ローゼは迷わずその家の玄関に爪先を向けた。
呼び鈴を鳴らすと、ローゼと同い年くらいの女性が扉を開けた。
背中までの茶色い髪に、澄んだ水色の瞳。
古びた慎ましいドレスに身を包んでいるが、綺麗な顔立ちをしている。
「イルミお姉ちゃん」だろう。
見知らぬ客に目を瞬かせる彼女に、にっこりと笑いかけ、腰を沈めた。
「ごきげんよう」
「え? ごき……? あの、どちらさまでしょうか?」
彼女は高速で目を瞬かせた。
貴族と庶民の中間にあるようなこの屋敷町では、どうやら「ごきげんよう」は適切な挨拶ではなかったようだ。そういえば自分も質素なドレスを着ていて髪は適当に結んだだけだった。
ローゼはこほんと咳ばらいをした。
「あちらの通りにあるクロイツェル家に嫁いで参りましたローゼと申します。今、通りかかったらたまたま声が聞こえたものですから」
「クロイツェル家の……もしかして、エリアスの奥様ですか?」
「ええ。彼をご存じなのですか?」
「もちろんです! 近衛騎士になる前から、この屋敷町の巡回をしてくれてて……本当に優しい人ですよね」
「……そうなんですか」
自分の知らない夫を知っている彼女に、なぜか少し胸がざわめいた。
気を取り直して昼食に誘う。
「よろしければお近づきのしるしに、わが家でお食事でもいかがですか?」
「え……」
「イルミお姉ちゃん、このお姉ちゃんがご飯食べさせてくれるの?」
彼女のうしろから、八歳くらいの男の子がひょっこりと顔を出した。姉と同じ茶色い髪。水色の瞳は期待に輝いている。
「あっ、こら、ザシャ」
「ええ。よろしければ、ぜひ弟さんもご一緒に」
にこやかに言うと、彼女は遠慮がちなほほえみを浮かべた。
「ありがとうございます。私はブランシュ男爵の長女、イルムヒルトです。こっちは弟のザシャ」
「お会いできて光栄ですわ。では、参りましょうか」
姉弟を連れてクロイツェル家の館に戻り、ペトラが作った料理をふるまうと、ザシャはものすごい勢いで食べ始めた。よほど空腹だったのだろう。
イルムヒルトはゆっくりと、だが残さず綺麗に食べ、ときおり「よく噛んで食べて」と弟を注意した。
「ローゼお姉ちゃん、これ、すっごく美味しい! おかわりある?」
「ええ、あるわ」
「ありがとうございます……ザシャ、食べ過ぎよ」
ザシャは蜂蜜のタルトとニンジンとフェンネルのスープを三回ずつおかわりして、ようやく満足したらしい。
だが、ローゼが厨房で食後のお茶を淹れていると、小さなお腹を押さえながら苦しそうに長椅子に倒れ込んだ。
「うう、お腹が痛いよう……」
「だから食べ過ぎるなと言ったでしょう」
呆れた表情を浮かべながら、イルムヒルトは長椅子に横たわる弟の腹部を撫でているようだった。
ローゼはお茶の載った盆を運びながら、食べさせ過ぎた責任を感じつつザシャの顔を覗きこんだ。
「大丈夫? お医者様に見せたほうがいいかしら」
だが、ザシャはぴょこんと跳ね起きて元気に言った。
「お医者様なんていらない! もう痛くないよ」
「…………そう?」
ザシャの回復力に、ローゼは目をぱちくりさせた。
帰りがけ、玄関先でイルムヒルトは重ねて礼を言った。
「本当にありがとうございます。たくさんご馳走になった上に、お土産までいただいてしまって。……お恥ずかしい話なのですが、男爵の父が事業に失敗して以来、母は逃げ、家は傾きっぱなしで……父は毎日金策に走り回っているのですが、なかなかうまくいかなくて……だから、とても助かりました」
だいぶ苦労人のようだ。
前世で辛酸をなめたローゼは、心からイルムヒルトに同情して言った。
「まあ、それは大変ね。ぜひまたいらして。ペトラさんの美味しい料理は、週に一度しか食べられないけれど」
「ふふっ。たしかにペトラさんの料理は美味しいけど、ローゼ様もすぐに上手くなりますよ」
「そうだといいわ」
苦笑交じりに言って、じっとイルムヒルトを見る。
「その……もしよかったら、ローゼと呼んでほしいのだけど……敬語もなしで」
若干顔を赤らめながら、ローゼは落ち着きなく視線をさまよわせた。
こっちは前世、市井の娘の暮らしに憧れたまま無念のうちに死んだ女である。
気の置けない女友達というものが喉から手が出るほど欲しくてたまらない。
だが、自分が訳ありでエリアスと結婚した元公爵令嬢だという噂は、彼女の耳にも届いているのだろう。
そうでなければいくら没落しているとはいえ、男爵令嬢が騎士の妻にここまでへりくだった言葉遣いをする理由がない。
ごくりと唾を呑んで返事を待つ。
イルムヒルトは目をぱちくりさせ、それから明るい笑みを浮かべた。
「わかったわ、ローゼ。私のことはイルミと呼んでね」
「……! ええ、イルミ!」
ローゼはパッと顔を輝かせた。
女友達との敬語なし、愛称呼びのざっくばらんな会話。
町娘の憧れの生活を今、自分がしていることに、ローゼは内心で感動を噛みしめた。




