第12話 自由
前世の悪夢にうなされ、心配してくれたエリアスに起こされたあと、ローゼは着替えて金髪を結い上げた。
エリアスはとっくに皇城に出仕していた。パンだけ齧って行ったようだ。
階段を下りる。
玄関ホールはここへ嫁いできたときとは見違えるようにピカピカだ。
(ああ、綺麗。徹底的に掃除をした甲斐があったわ。エリアスも喜んでくれたかしら)
光沢の出た手すりをほれぼれと撫で、顔が映りこみそうなタイル敷きの床に布靴の爪先をそろりとつける。
そのとき、玄関の鍵がガチャリと外側から開けられた。
驚いてそちらを見た。
(……空き巣? こんな朝から? それともまさか殿下が……)
心臓が激しく打ち付ける。
ローゼは固唾を呑んでドアを見つめた。
入ってきたのは大柄な中年女性だった。
茶色い髪をひっつめ、色あせたドレスにエプロンを締め、オリーブ色の目をこちらに向ける。
「あら、あなたがエリアスぼっちゃんのお嫁さんのローゼさん?」
「えっ」
あけっぴろげな笑顔でそう聞かれ、ローゼはぽかんとした。
彼女があの眼光鋭い騎士のエリアスを「ぼっちゃん」と呼んだことも衝撃だったし、さらに自分がその「お嫁さん」と呼ばれたことにも動揺していた。
公爵令嬢らしさなど欠片もないもじもじと赤面した顔で答える。
「あ、ええと、その……はい」
「あらあら、かわいいお嫁さんだこと。もしかしてこの玄関ホールをピカピカに磨いたのはあなた? いくら新妻を迎えるためとはいえ、ぼっちゃんがやるわけないものねえ。あらっ、厨房にこんなに食材が! あなたが買ったの? あらぁ、豪勢ねえ」
答える暇もなく、矢継ぎ早に質問が飛んでくる。
別に返答は求められていないのかもしれない。
だが独り言にしては大きい。
「あの、あなたは、ここの通いの……?」
遠慮なく館に足を踏み入れたその女性に、ローゼは慌てて尋ねた。
彼女は振り向いて笑った。
「あらまあ、ごめんなさいね名乗りもせずに。そうよ、あたしはペトラ。先代の頃からクロイツェル家の家事を任されてるの。今は週に一回しか来ないけれど」
「ペトラさん」
名前を口にしながら、ほっと胸を撫でおろす。
通いの使用人がいるとは聞いていた。
悪夢のごたごたで、エリアスはペトラが今日来ることを伝え忘れたのだろう。
ローゼも自己紹介をした。
「私はローゼと申します。以後、お見知りおきを」
質素なドレスの裾をつまんで宮廷仕込みのお辞儀をする。
ペトラは目を瞬かせたが、すぐに明るい笑みを浮かべた。
「ローゼさん。よろしくお願いしますね」
大きな手を差し出される。
ペトラの手は荒れていてごつごつしていたが、ローゼの手を握る力は強く、温かかった。
「それじゃあ、掃除は必要ないみたいだから、この大量の食材をどうにかしましょうね」
ペトラは厨房に立つと、鮮やかな手つきで次々と料理を作っていった。
ふっくらと炊いた豆のポリッジ、艶やかな蜂蜜のタルト、食欲をそそる香りの燻製魚のパイ、それからこっくりとした黄色のニンジンとフェンネルのスープ。
大きな手が器用に料理を作り出すさまは、まるで魔法のようだった。
ローゼは傍らに立ち、目をきらきらさせてその手際の良さを眺めていた。
「すごいわ、ペトラさん。こんなに次々とお料理を作れるなんて」
「あらやだ奥様、照れるじゃないですか」
照れながらもイチジクのゼリーまで作ってから、すべてを保存容器に入れて床下の貯蔵庫にしまった。
「明日までは食べられますよ。なくなったらご自分で……作れそうです?」
ローゼはぶんぶんと首を横に振った。
ペトラの手元が速すぎてよく見えなかったし、同時進行でいくつものメニューを作っていたからレシピを憶える暇もなかった。
彼女は苦笑した。
「あたしは文字が書けないからレシピを書くってわけにもいかないし……また来たときに、一つずつお教えしますね」
「ありがとう、ペトラさん」
「どういたしまして。じゃ、あとは洗濯をしましょうか」
ペトラは洗濯物を洗い、裏庭に干した。
ローゼは手伝いを申し出たが「週に一回しか来ないんですから、あたしがやりますよ。奥様は座ってお茶でも飲んでてくださいな」と追い返されたので、花壇の煉瓦に座り、てきぱきと働く彼女をぼんやりと眺めた。
いつかは、自分もペトラのように鮮やかな手つきで洗濯や料理ができるかもしれない。
白いシーツが青空に翻る。
自由の旗印のように。
それは皇宮に飾られているどんな絵画よりも綺麗だった。
仕事が終わったペトラを見送り、ローゼは館の中に戻った。
厨房からすっきりとなくなった食材と、代わりにどっさりと蓄えられた美味しそうな料理の数々。
前世で市井の話をしてくれたメイドのフローラも、こんな風に料理を作るのだろうか。
フローラの明るい笑顔を思い出すと、無性に会いたくなった。
もしかしたら、いつか、市場や街角でばったり会えるかもしれない。
結婚資金が溜まったら皇宮メイドの仕事を辞めると言っていたから、来年か、再来年頃には。
あるいは今世の彼女は勤め先の家から暇を出されず、まだ帝都の城下町で働いているかもしれない。
ローゼが皇太子と結婚せず、皇宮に行かなかったように。
「それだったら、今すぐにでも会えるかも」
思いついたらいても立ってもいられなくて、ローゼは外套をつかんで外に出た。
なにしろ街を歩けばフローラに会えるかもしれないのだ。
しかも、離宮に閉じこめられていたときとも、公爵令嬢だったときとも違い、いつ出かけるもいつ帰るも自由。
「自由って、なんて素晴らしいの」
思わず空に向かって笑顔で呟いた。
けれど、外に出て何歩か歩いてから施錠を忘れていたことに気付き、くるりと踵を返して玄関まで戻った。
カチャリと鍵をかける。
今までは扉の開け閉めも施錠もすべて使用人がやっていた。
外出時に鍵をかけるという些細なことですら、ローゼには新鮮で心躍ることだった。




