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「お前なら分かってくれるだろう」を三千回聞いた 聖女は、「断っていい」と手紙にだけ書いた寡黙な隊長の砦で初めて断ることを知る  作者: 月雅


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第10話「ここにいる理由」

自分で選んだ最初の一回を、わたしは数えた。


返上宣言の書面を早馬に託してから、十日が過ぎていた。王都までの往路に五日、国王の判断と返送にさらに数日。返答はまだ届いていない。


砦の日常は続いていた。エルザは医務室で軽い怪我の手当てをし、午後はマルタの薬草畑で乾燥棚の世話をした。治癒術は使わなかった。軽傷には薬草の軟膏で対応できることを、この数週間で覚えていた。


トビアスが中庭の向こうから声を張り上げた。


「エルザさーん、早馬! 早馬来てるっす!」


エルザの手が止まった。乾燥棚に広げかけた薬草の葉が風に揺れた。


門の方に走った。砦の門前に早馬が一頭、息を切らして立っていた。騎手が鞍から降り、封蝋つきの書簡をユルゲンに手渡すところだった。


軍務局の公式書式。王都の印章。


ユルゲンが封を切り、目を通した。その顔をエルザは見つめた。表情は動かない。いつもの寡黙な横顔。だが目が書面の上を二度往復した。


「受理された」


短い一語だった。


「国王陛下が、聖女エルザ・リヒテンの返上宣言を正式に受理した。疫病対応の不手際を受けて、国王自らが判断に当たったとある。王太子の政務代行権は一部回収されている」


エルザの膝から力が抜けかけた。門柱に手をついた。


「殿下が——追認を拒否しようとした形跡がある。だが政務代行権を回収された後だ。阻止する権限がなかった」


ユルゲンが書簡をエルザに差し出した。エルザは受け取り、文面を読んだ。公式の文章は堅く、簡潔だった。聖女認定の取消ではなく、本人の返上宣言に基づく正規の手続きとしての受理。国王の署名。日付。


召還命令の根拠は、これで消えた。神殿長の命令は、聖女でなくなったエルザには及ばない。


「……受理、された」


声に出して確かめた。十年間の肩書が、一通の書簡で終わった。


中庭に兵士たちが集まり始めた。早馬が来たことはすぐに砦中に伝わる。


「エルザさんが残ってくれるって本当っすか!」


トビアスが真っ先に駆け寄ってきた。目を見開いて、声が裏返っている。


「ん。ずっと」


エルザが答えると、トビアスの声がさらに跳ね上がった。


「マジすか! ずっとっすか! やった——おい聞いたか、エルザさんずっといてくれるって!」


兵士たちがどよめいた。「本当か」「聖女様が——いや、もう聖女じゃないんだっけ」「どう呼べばいいんだ」「エルザさんでいいだろ」


口々に声が上がる。感謝の叫びとも歓声ともつかない騒がしさが、砦の石壁に反響した。


エルザはその中に立って、少しだけ笑った。聖女ではなくなった。でもここにいる。自分でそう決めて、ここにいる。


午後、マルタが薬草畑に来た。


エルザが乾燥棚の前に座っているのを見て、黙って隣に腰を下ろした。籠の中から小さな布袋を取り出し、エルザの手に載せた。


「これは?」


「薬草の種。この畑で一番よく育つ品種の、今年の種だよ」


エルザは布袋の軽さを掌に感じた。


「もう聖女じゃないなら、ただの薬草師見習いだね」


マルタの声はいつも通り断定的で、飾りがなかった。だが最後に、小さく付け足した。


「ようこそ、こっち側へ」


エルザは種の袋を握りしめた。こっち側。聖女ではない側。治癒の力ではなく、土と水と時間で薬草を育てる側。


「ありがとうございます、マルタさん」


「礼はいいよ。植える場所はあたしが教えるから」


マルタが立ち上がり、畑の奥に向かって歩いていった。エルザはその背中を見送りながら、布袋を荷物の中に入れた。手帳と治療記録帳の隣に。


夕刻、ユルゲンが医務室に来た。


手に、見覚えのある帳面を持っていた。治療記録帳。砦に来てから渡されたあの帳面だった。


「最後の記録を書き足した。確認してくれ」


エルザは帳面を受け取り、開いた。最後の頁に至るまで、兵士の名前と症状と回復日数が並んでいた。ユルゲンの無骨な文字が整然と連なっている。


最後の頁をめくった。


記録ではなかった。


一行だけ、書かれていた。


『ここにいてくれて、ありがとう』


エルザの指が頁の上で止まった。記録の文字と同じ筆跡。同じインク。だが意味がまるで違った。治療記録帳の最後の一行が、記録ではなく、この人の言葉だった。


帳面を胸の前に抱えた。紙の匂いと、インクの匂いと、この砦の埃っぽい空気の匂い。


「ユルゲン」


名前を呼んだ。敬称なしで。それがもう自然だった。


ユルゲンは医務室の入口に立っていた。いつもの場所。部屋の中に入ろうとしない場所。だが今日は、その目がエルザをまっすぐ見ていた。


「……次は、ちゃんと声で言う」


低い声だった。短い言葉だった。だがそこに込められたものの重さを、エルザは知っていた。手紙では何枚でも書ける人が、対面では三語で終わる人が、「次は声で言う」と宣言した。それは、この人にとって最も難しい約束だった。


「待ってます」


エルザは帳面を抱えたまま言った。


「ユルゲン」


もう一度、名前を呼んだ。呼ぶたびに、この名前が自分の中に定着していくのが分かった。


ユルゲンは一瞬だけ目を逸らし、それから頷いた。背を向けて廊下に出ていく。外套の裾が角を曲がるところで見えなくなった。


エルザは帳面を机に置いた。隣に手帳を並べた。擦り切れた革表紙と、まだ新しい革表紙。十年分の記録と、数ヶ月分の記録。


窓の外で、夕陽が北嶺の山肌を照らしていた。王都の疫病はまだ終わっていない。神殿長が次に何を考えるのかも分からない。でもそれはもう、聖女の問題ではなかった。


エルザは種の袋を取り出した。明日、マルタに教わりながら畑に蒔く。水をやる。芽が出るまで待つ。治癒の光ではなく、時間と手間をかけて、何かを育てる。


帳面の最後の一行を、指でそっとなぞった。


ここにいたいから、ここにいる。それを選んだのは、わたしだ。


これからは、この砦で過ごす日を、自分で数える。自分で選んだ、一日ずつ。


(完)


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