episode9 聖女は今
「っ…あら…私の名前を知っているの?どこかで会ったことあるかしら?」
何事もなかったかのように、彼女は穏やかに、おっとりと首を傾げてみせる。
先ほどの震えが嘘だったかのように、その声には一片の淀みもなかった。
「…そう。あんたには私のことは見えてないのね。」
同じシスターだった私とミモザ。けど彼女は愛されていて,私は嫌われていた。あなたと私に何の違いがあるの?
私が詰め寄っても、ミモザは困ったように微笑み続ける。
「えっと…ごめんなさい、私記憶力悪くて…。」
するとミモザが私の首を見て、笑顔に満ち溢れていた表情が消えて目を見開いた。
「え…!その首どうしたの!?待って!すぐ治すから!」
「や,何するの!?」
一歩下がった時だった。
ミモザは片手を私の方へ向けて唱え始めた。
『静かに灯せ…我が3つの唱えに応じろ。1つの灯火を焦がせ、癒やせ、この熱をあなたに捧げます。【生命の聖火】』
――捧げます。その言葉が聞こえた瞬間、ずっと詰まっていたような感覚が抜け始めた。全身が熱い…けど自然と不快ではなかった。まるで焚き火に包まれているようだ。
…悔しい。憎い相手に助けられて…けど彼女の目はいつも真っ直ぐだった。
「……あんたはいつもそう。嫌なくらい、あんたが嫌い。」
感謝なんてするわけない。あんたはずっと…っ!
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…ミモザ・マンサネラ。教会の聖女的な存在だ。
美しいプラチナブロンドを揺らし、誰にでも平等に微笑みを振りまく彼女は、孤児たちの希望であり、教会の「光」そのものだった。
それに対して私は、シスター長に目を付けられた「ゴミ」に過ぎなかった。
(あんたは覚えていないでしょうね。あの日、私が冷たい石畳に押し付けられて、泥を食わされていた時のことなんて)
脳裏に、不快な記憶が蘇る。
シスター長の重い靴底が私の背中を踏みつけ、周囲には卑屈な笑い声が響いていた。
その視線の先に、あんたがいた。
あんたは確かに私と目が合った。震える私の指先も、助けを求める悲鳴も、全部見ていたはずよ。
けれどあんたは、自分の地位を守るために、祈るようにそっと目を逸らした。
私を見捨てることで、あんたは「聖女」であり続けることを選んだのよ。
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「…ふぅ、よかった。少しは楽になったかしら?」
魔法を終えたミモザが、額の汗を拭いながら、またあの「無自覚な善意」に満ちた顔で微笑みかけてくる。
喉の痛みは引いた。けれど、彼女の魔術が体に触れた感触が、何よりも汚らわしく感じられて、私は思わず自分の首を強く拭った。
「…触らないでって言ったでしょ。あんたのその魔術、反吐が出るわ」
「えっ……ご、ごめんなさい。でも、酷いアザだったから……」
ミモザは悲しそうに眉を下げ、縋るような瞳で私を見る。
今の彼女は、かつての自分の「弱さ」を隠し、レジスタンスの一員として「信者の救済」に奔走している。
反省だか贖罪だか知らないけれど、そんな「綺麗な手」で私に触れる権利なんて、あんたにはないのよ。
「ミモザ、あんたが今救おうとしているその人たちの隣で、誰かが泥を啜っていても……あんたはまた、『保身』のために目を逸らすんでしょうね」
「え……? 何の話、かしら……?」
ミモザの顔から血の気が引いていく。
自覚があるのか、それとも無意識に過去の罪を封印しているのか。
怯える彼女の瞳に、私はかつての「ゴミ」だった自分ではなく、世界の理を壊す「エラー」としての冷徹な眼差しを叩きつけた。
「……いつか、分からせてあげるわ。あんたが守りたかったものが、どれほど醜い犠牲の上に成り立っていたのかをね」
私は彼女を突き放し、マリィたちのいるカウンターへと背を向けた。
ミモザの震える魔術の残滓が、私の体に触れて霧散していく。
偽りの聖女と、出来損ないの断罪者。
交わるはずのない二人の過去が、この酒場の熱気の中で静かに火を噴き始めていた。




