↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/8

精霊と絶命

ノラは大層驚いている。 

 人が人を殺めた瞬間を、現場を初めて見たからだ。

 黒のスーツ男が拳銃を別の男に向けて発砲した。

今まさに撃たれた男は銃を見る直前まではいかにも自身に満ちている顔をしていた。さぞたくさんの成功体験をし、風格に溢れていたのだろう。向かうところ負けなし、生まれ持っての無双状態だった。

 ただそれもすべて過去のお話。 

 今夜の彼は銃口の前には成すすべもなかった。脂汗を垂らし、目を充血させ、口をパクパクとさせ、言葉にならない言葉を紡いで命乞いをしていた。

一方スーツ男は無表情に引き金に指をかけ、冷徹に引き金を引いた。

 サプレッサーがついているため、「カシュッ」というなんともさっぱりとした、人の命を奪うとは思えない音で命を奪われた。男は眉間に風穴を開け、力なく後ろへ倒れる。

 その風穴からは血が吹き出しており、男の足元まで血だまりを作る。

 

 事の始まりは二日前に遡る。


 夜の街、関東のネオン街でスーツの男を見かけた。人気が常人よりも強く、精霊からみたら、とても目立った。

 その日暮らしをしているノラにはとてもよい補給源になった。だからついて行った。

 駅を背にして、どこかへ向かっている様子だった。

 路上のキャッチが男に声をかけようとするが、躊躇い、別の通行人に声をかけようとしていた。

 男の表情が特段怖かったわけではないが、目だ、目が堅気の人間とは思えない。

 見たところ、二十代後半から三十代前半の青年といえる年齢だが、軽々と声をかけていいような人間ではなかった。

 前から歩いてくる人間も男を一瞥し、男の進路から掃ける。

 物騒な武装、といえる。ノラは少し口角を上げ、頭の中のノートに今の韻を記した。

 その間にも男は足音も立てずに、つらつらと前方に進んで行った。ノラも急いで後に続く。

 男はしばらく歩いた後、滑らかなカーブを描くような左折でコンビニエンスストアに吸い込まれていった。

 数人の客をすり抜け、サンドイッチの棚に対面する。左には麺類の棚が続き、右にはおにぎりの棚が続く。

 綺麗に並べられた卵サンドを手に取り、その裏にある値段を見る。

 精霊視点で見ても、昨今の物価高は見過ごせないものとなっている。人間の賃金は上がらないのにもかかわらず、日用品から、食材まで、ありとあらゆるものが高価になった。

 値段はより高く、内容量はより少なく。

 こんなにひどい商品を売っているのに、店がつぶれないのは、今までのブランドを、盲信しているのか、代替がないから仕方なく買っているのか、様々な理由で買う客がいるからだ。買う人がいるから、売る。当たり前の話だ。

 男も妥協したのか、買うことを決め、次にチキンカツサンドも手に取った。

 今回は値段を見るようなことはしなかった。

レジへ向かい、商品をレジカウンターへ置く。店員は裏で作業していたのか見当たらなかったが、客の気配に気が付いたのか、小太りの青年が裏から駆け寄ってきてサンドイッチ二個のバーコードをリズムミカルに読み取る。

「ポイントカードはございますか?」

「いいや。」静かな声だ。ラジオに出てくるような落ち着いた声。

「レジ袋はお付けしますか?」

小太りの青年は額に汗をにじませながら、愛想よく接客をする。

「あぁ、お願いします。」

年齢にしては少し低く、落ち着いている声だが特段驚くほどではない。雰囲気に反して言葉遣いは丁寧だった。

「袋は五円になります。」

男はタイトなスーツからかなり使い込まれた革財布を取り出し、そこから一枚の紙幣を摘み取り、青のプラスチック製のトレーに乗せる。財布を取り出す際、パラパラと革財布から剥がれた革が男のスーツに付着した。男はそれに気が付き手で払う。

今度はその払った欠片がノラの頭にはらりと舞い落ちたのでノラも身震いして、ふるい落とす。

男は不意に、何かの気配を感じたのか、足元を見るが何もなかったように視点を前に戻した。地面には茶色の欠片が落ちていただけだったからだ。

店員から返されたトレーを見れば、二百円と五十円とその他小銭が載っている。サンドイッチ二個を買っただけなのだから五百円硬貨くらい返ってきても良いものを。人間界も物価高だ、と嘆く。

その三百いくらを小銭入れに放り込み商品の入ったビニール袋を手に取り、店を後にする。軽快な入店BGMがドアが開くと同時に鳴る。

男はコンビニから出るやいなや、サンドイッチを開封し、食べる。駅を背にしてネオン街を通り抜け、十分歩けば地方都市といえども廃ビルや、何のテナントが入っているのか外観からは不明な怪しい建物が多くなってくる。

無論、歩く人々も景観に比例するようにガラも悪くなっていく。

ビルから出てくるやいなや、何処かへ電話をかけ、「すみません、すみません」と謝罪の言葉を述べるサラリーマン。

男はそのサラリーマンには目もくれずに通り過ぎる。

男にとっては日常のことなのだろうか。

さらに三分程度歩いた所で、頬まで入れ墨の入った二人に絡まれる。

薄笑いを浮かべ、煙草臭い髪がここまでかおる。

組んだ前腕が隆起している。

「おい、そこのお前。お前だよ、スーツ。」装飾品がジャラジャラと硬貨を混ぜるような音を鳴らす。

「きちっとスーツなんか着ちゃって、こんな場所に何の用だよ。顔までキメちゃって。女でも買いに来たか?」下賤な笑い方をする。

黄ばんだ歯が唇の間からのぞく。

「まるで俺等をバカにしてるって顔だな。」

「サンドイッチなんか食べちゃって。時間ないですーってか。」

二人は男に詰め寄る。

冷静に淡々とした口調で「そんなつもりはないです。すみません。通ります。」と言う。

全く臆している様子は見せない。

謝っているというのに相手を優位に立たせない、といった、えもいえぬ風格のようなものが二人を怯ませた。

先程のサラリーマンの「すみません」とは訳が違った。

「まぁ、その、え?分かりゃいいんだよ。」たじろぐ。

「俺等もこんなスーツ野郎に構ってる暇もないしな。さっさと行けよ。」

おもむろにポケットから煙草を取り出しライターで火を付けた。捨て台詞と喫煙で余裕を持ったフリをしているが動揺しているのはノラの目でも見て分かった。

「そうですか。ありがとうございます。では。」

二人の脇をすり抜ける。

男にとっては日常のことらしい。

そこからさらに五分ほど歩いた先に男の目的地があったようだ。

階段を上がり、入る。煤けたコンクリートの壁には「いろどり音楽教室」と色褪せた看板がある。

何たる皮肉か、ノラは頭のノートにメモした。

嫌な音を出しながら軋むドアを開ける。

チェアに座っている女がこちらを一瞥する。

部屋の中は一般的な事務所となんら変わりのない平凡な内装だ。首を回し部屋を見す。

デスクの上には電話と何枚かの書類と鉛筆、水色の鉛筆削りが行儀よくならんでいる。鉛筆削りには節が半分まで溜まっていた。

部屋は四方が本棚で埋め尽くされて、日光が入らず、酷く湿っぽい。本棚は文庫本、ハードカバー、書類、空き缶、置物と多種多様なもので埋め尽くされていた。

外から見たらそこそこの大きい部屋だと思っていたのだが、いざ入室してみると本棚が場所を取っているせいか、想定以上に小さく見える。

いや、違う。ノラは天井と本棚をみて、違和感を覚える。部屋を入って右側、天井と本棚の間、妙な空間がある。本棚の後ろが壁ではない。持ち前の脚力で本棚の上まで登る。積もっていた埃がほろほろ舞い落ちる。下でくしゃみの音がした。

登頂したノラは目を丸くした。この部屋は本来おそらく、二、三倍の広さがある。本棚を壁代わりにして部屋を小さく見せていたのだ。

壁の向こうは、寝具が寝袋なこと以外は普通の部屋になっている。

奇妙な間取りとは思ったが、そこまで疑問は持たなかった。一階が個人商店で二階が住居なんてよくあることだ。

何故同じ部屋でやっているのかは分からなかったが。ビルの一室だからだろうか。

「ハイ。これ、次の仕事。」

女は四枚の紙を男に差し出した。

中年の顔写真、中年のプロフィール、中年の行動スケジュール。それと何やら数字が並んでいる紙。

「まぁ、こんなもんか。少し多い気もするが」

女ははにかみ笑顔で言う。「お得意様だから。色付けてくれたのよ。」

「お得意様って。」動揺と呆れを同時に顔に出す。

つまりそれだけ依頼しているのだろう。見るからに音楽教室ではないが、楽器の発注などを請け負っているのかもしれない。

二人のドレスコードのせいでもあったのだろう。

そういう目で見れば確かに、男は管楽器担当で、女はヴァイオリンだろうか、弦楽器担当に見えなくもなかった。

楽器はとても高価なのは、ノラも知っている。そのお得意様となれば大金持ちなのだろう。だから男も狼狽えたのだろう。

「依頼主は一週間以内を御所望よ。なるべく早くやればさらに上乗せするとも。だから早くお願いね。」

「人使いが随分と荒いな、依頼主も、お前も。」

男は受け取った紙に目を通す。左手にはビニール袋とカバンを持ち、右手に紙を持つ。

右足に重心を傾けているので、左手に通されているビニール袋が揺れて音を出す。

ノラは心を奪われ袋を目で追い、いまにも飛びかかってしまいそうになる。

「二日、かかっても四日だな。」表情を変えずに言う。

「そう。頼りになる。そういえばこの間の仕事で片付けた人、その組織の残党があなたのことを探しているって情報が。でも九州だったからさすがに追っては来ないだろうけど。一応頭に入れといて。」

「頑張っても四国くらいを探していてほしいものだ。」

書類をデスクでトントン、と整え、カバンにしまう。

「さくらも気をつけろ。」

「はいはい。あなたも、健康には気を付けてね。」

男は扉に向き直り、歩き出した。

コンビニのビニール袋は波が浜に押し寄せてくるような凛々しい音を演奏する。

ハッと我に返りノラは男のあとに続くように音楽教室を後にした。

扉は今にも外れそうな悲痛な叫び声を出しながら閉まる。

思わず耳を塞いだ。

扉が閉まる瞬間振り返るとさくらが手をひらひらと振っていた。


来た道を戻り、駅へ戻る。

ノラはあまり駅には行きたくはなかった。電車を見るとヒゲがピリピリする。

帰りにまたガラの悪い二人組と出くわすと思ったが、男たちのいた場所には吸い殻が落ちているだけだった。

無事に駅に辿り着いてホッとする。

帰宅ラッシュからは少しズレている遅めの時間帯だったが、駅構内はそれにしても混み合っていた。

その混雑をねらい目に、ゼリーを販売する出店、プリンを販売する出店、ケーキを販売する出店。どうしてこうスイーツの店ばかりなのだろうか。

その出店群の脇を通り抜け、駅でしか見ないコンビニの前を通る。男はカバンが人に当たらないように、自分の通れる合間を見つけ歩き、改札に向かう。

例の摩耗した革財布を開き、その片面を改札の読み取り機に翳す。

残高がパネルに表示される。

三千六百二十一円。

ICカードを利用すると切符よりも少しばかり割引されるが、それがかえって端数を生み出すことになり、魚の小骨がつかえたような気持ちになるのはノラだけなのだろうか。

折角なのだから十円くらい引いてくれてもいいだろう。あぁ、気になる。 

県内でも大きめな駅だ。二十番ホームまである。

そんな数のホームがあったらスマホをも見ずに目的のホームまで行き、目的地の駅に止まる電車を見つけることは困難を極めると思うのだが、男は最初から行くところが決まっているのか、歩調を緩めることもなく11番線ホームへ降り立つ。

時間をあらかじめ計っていたのか。と言う程、ちょうど良いタイミングで、電車がホームへ進入する。

乗り慣れているのだろうか。その割には定期券ではなかったが。どうしても見知らぬ人間についていくと疑問符が多くなる。その探求がノラは嫌いではなかった。

男は一目、電車の側面についている案内版を見、オレンジ色の「宇都宮行」という字を確認したのち、電車に乗り込む。あ、この路線は。

車内はあまりにも混雑していたものだから、精霊一匹の隙間もない。仕方ないので、男の肩に乗る。

 車掌がアナウンスで行き先を告げ、電車が発進する。

 つり革をつかんでいない乗客が後ろによろけ、男にもたれかかる形となった。

 ノラはぶつかられて、バランスを崩した。

よろける。

乗客は右を向き、「すみません」と申し訳なさそうに軽く頭を下げた。

男は頭を左右に振り「いえいえ。」と返す。

乗客も安心し前に向き直る。

先ほどから思っていが、この男はこの風格のわりに、トラブルを避ける傾向にあるようだ。考えてみれば目つきが怖いだけの楽器屋なのだから当たり前か。

ノラからしては考えられない生き方だった。

少し前に遡ることになる。ノラには昔、しっかりとした仕事があった。

そもそも「ノラ」というのも仕事を持たない無職精霊の総称であり、本来の呼び名がノラにはあった。

ただあることがきっかけで担当の仕事をクビになってしまい、裏道で生きる生活を強いられた。それも理不尽ともいえる事で。

ノラは時たま思う。上級精霊によって仕事が管理されて、野良行も好待遇も上級精霊の意のままで良いのかと。

不満を持っている精霊達で団結し、反乱や下剋上ができるものならばしてみたいが、大半の精霊はのんびりしやがっている。野良精霊のことなんて見て見ぬふりだ。

だからといって一人で行動を起こす力も気力もなく、日の当たらない生活を続けていた。

道行く精霊に睨みを効かせ、シャア、と威嚇して人気をいただく。もちろん消滅するほど搾り取るわけではない。

人間で例えるならば、牛丼屋に立ち寄り、大盛りの牛丼を持ち帰りで注文して、楽しみに持って帰るところを恫喝して取り上げる程度だ。それでもロクな生き方はしていないことにかわりはないが。

ノラにとってはこうではしないとこちらが消滅してしまうのだから仕方ない。

「おや、お久しぶりです。」

懐かしい声だった。

ノラは急に声をかけられたため、驚きで毛を逆立てる。尻尾はみるみる太くなり、元の二倍の太さに膨らむ。

声の在り処を見る。

その先には昔の後輩がいた。

上方の荷物棚に香箱座りで鎮座する灰色と黒の二色で構成された体毛の精霊。

毛並みがよく、こちらを見下ろしているので、気取った貴族のようで鼻についた。

「放っておけば良いのにわざわざ冷やかしに来てくれたのかよ、アメショー。」

牙を剥き、体を山なりにさせる。いつでも飛びかかる覚悟はできている。何の用だ。

しかしアメショーは香箱座りを崩さずに言う。

「落ち着いてください。マンチ先輩。貴方からはたくさんのことを教えて頂きました。

そんな尊敬する先輩に会ったら挨拶するのは当然でしょう。」

今のコイツの言葉遣いは俺の神経を逆撫でさせるが、悪意を持って接してくる奴ではなかったことを思い出した。

長い野良生活の中で擦れてしまっていて、どんな発言も棘のあるものに聞こえてしまう。

それに今は腹も減っている。空腹は思考を鈍らせ、攻撃的にさせる。

「で、なんだ。ノラに落ちぶれた俺に何の用だ。」

「あれからどうですかね。何か困ったことはありませんか?」目は丸く、口はへの字。

「施しなんで受け、」と言いかけたところで電車が駅に着き、ドアが開いた。

話はまだ途中だったが男はその駅が最寄駅だったようで降りようとする。

ノラは落ちそうになりながらも、踏ん張り何とか声を出した。「またどっかで会ったらな。」まぁまぁ大きな声量で言ったが、乗り降りの人々とホームのアナウンスで搔き消され、伝わったかどうか自信がなかった。

アメショーは人間が別れの時に手を振るように、しなやかに尻尾を左右にくねらせた。

「またどこかで、必ず会いましょう。」遠くから声が聞こえた。

聞こえてんじゃねぇか。言おうとしたが、野暮だと思い、やめた。発車ベルが鳴り、扉が閉まる。玲瓏な音で車輪が回り、電車が遠ざかってゆく。

またあいつに会えるのだろうか。明日も保証されていない俺に。アメショーの言葉をよく嚙み潰す。

「ナーオ。」センチメンタルな気持ちを吹き飛ばすように、鳴き声を上げる。

野良暮らしで一番大切なのは気持ちだ。過酷な生活ではタフに生きる必要がある。

男の肩から降り、隣を歩く。額で風を切るように堂々と歩き、気を持ち直す。

最寄駅から男の住むアパートはあまり離れていなかった。というよりも、駅近の部類に入るだろう。家に着いた頃には日付が変わっていた。鍵を鍵穴に合わせ、ドアを開ける。

中はまぁまぁ広く、小綺麗に整頓されている。生活に必要なもの最低限しか置いてないので綺麗というよりかは物が少ないだけとも言える。

唯一娯楽の物質といえば、机の上に数冊積みあがっている本だけだ。昔の文学が多く、読み古された、といった具合だ。しかし、一番上には新しい本もあった。作者を見てみるが、なんだこの字は。約?間?よくわからない漢字であったため、学のないノラには皆目見当もつかなかった。唯一読めた部分は帯に大きく、新作!と黒色の字で書かれていた部分だけだ。

ソファーに座り、男はその積み上がった本の上から三冊目を抜き取り、栞の挟んであるページを開く。ソファーは三人掛けなのか、男一人で座るには広すぎたのかので男の大腿と手すりの間には空間があった。ノラはそこにはまり込むように座る。

男は黙々と本を読む。ノラは壁にかかっている振り子時計を見つめている。

傍から見れば読書を楽しむ人間とその隅でくつろぐ飼い猫だ。こんなにも長閑な時間は何時ぶりだろうか。

柔らかい床で暖かい部屋で過ごす。

あまりの安心感にウトウトしてしまう。




ここはどこだ。あぁ。電車の中だ。一号車か。終電に近い。眠いな。

毎日毎日、一日中電車の管轄。都会は忙しい。でもこれが俺の仕事だから、仕方ない。

この電車の管轄という仕事は明らかにハズレの部類だ。だが最近はいいこともまぁまぁ増えたんだ。仕事もやりがいはなくはない。

たまにサボりたくはなるが、人間はみていなくてはすぐにトラブルを起こす。俺がこの電車を守ってやっているんだ。そう考えると気分がいい。少しだけ目を閉じる。

そんな俺の働きぶりが評価されたのか、後輩もできた。少々気取った言葉遣いをするが、素直でよく働く。仕事ができる優秀な奴だ。

「私はマンチ先輩のようにはできないですよ。」

「流石です。これはもう上級精霊になってもおかしくないのではないですか?」

「先輩が精霊の中で一番の努力家ですよ。

他の奴らは気を抜いてばっかり。」

 目を瞑りながらアメショーの声を再生する。

 わかってるよ。わかってる。俺は頑張ってるよ。頑張ってる。

 大変だが悪態もつかず、後輩にはよく振舞い、問題も解決する。

 本当に大変だ。大変。大変。

 「大変です!先輩!起きてください!電車が止まっちゃいました。」アメショーが俺を揺すり、起こす。

 「大変じゃないよ。止まることはよくある。入れ違いとかでな。」

 「違うんですよ。ホームに、人が、飛び込みました。」

 「は?」鳩が豆鉄砲を食らったような顔になる。

 そしてその直後、アメショーの言った言葉の意味を理解する。あはらわたを裂かれ、その中に冷風が吹き込んできたように、腹の底からヒヤリとした。

 この電車は下りで、十五両目が先頭だ。急いで先頭車両まで走る。精霊にはある筈もない心臓の心拍数が上がり、ある筈もない血流が全身をめぐる。

 先頭車両に入ったが走るのをやめない。

 人気を消費するために、普段は使わないが、今はなりふり構ってはいられない。マンチは体に力を漲らせて、三メートルは跳躍した。普通ならば頭が天井にぶつかってしまうが、そうはならない。マンチの体は、天井なんてなかったかのように通過し、外へ飛び出た。

 人気を使った透過能力を解き、天井に着地する。


 マンチは戦慄した。

 言葉にならないような惨状。ポリバケツいっぱいの赤のペンキをぶちまけたような地面、線路、車両。マンチの頭は情報を理解しきれずに、その場に静止する。

 なんとかこの状況を後輩に見せないようにするために下の車両にいるアメショーに、「大丈夫だ。だから上がってくるな。」と叫んだ。

 人を轢いてもなお、すぐに電車は止まれずに、赤のペンキは四両目までの車輪を汚した。

 ホームではどよめきが起きている。

 中には嘔吐する人間、パニックのあまり叫ぶ人間。血腥い匂いで充満している現場から足早に立ち去ろうとして転倒する人間。阿鼻叫喚。

 自分の居眠りが原因でこんな惨事が起きてしまったことが受け入れられない。

 いや、ホームで起きたことだから俺に責任はないか?

 いやいや、もはや責任なんて言っている場合か?

 運転手がガタガタ震え、顔を青ざめさせながら運転席から出てくる。事情を聞きに来た駅員に状況を説明しようとしているが、「とびこんできて、」としか言えていない。

 マンチは見ていることしかできなかった・



 場面は暗闇に飛ばされる。  

 「で、君はその時何をしていたんだ?マンチ。」嫌な声だ。誰だっけ?

 「その、少しだけ、居眠りを、して、ました。」自分の声がひどく情けない。

 続けて自分の声が響く。

 「でもこれは電車の外、ホームで起きた事で、俺…僕が防げたかは分からなかったんです。」

 上級精霊は短くため息を吐く。

 「その通りだ。君の言う通り、『分からなかった』んだ。ではなぜわからなかったのか。それは君が居眠りしていたからじゃないのか?」その言葉はマンチに深く刺さった。

 「起きていて、精一杯対応して防げなかったことと、無責任に寝ていて起きていることでは、まったく意味合いが変わってくる。分からなかったということは、防げていた可能性もあるわけだ。違うか?」鋭くエッジの効いた言葉にマンチの喉は切り裂かれ、言葉が出なくなってしまう。

「いいえ、違いません。」それしか言えない。

言うことがない。上級精霊の目を直視できずに、足元を茫然と見る。

 「クビだ。」口元をみてはいないが、重々しく言っていたことが分かる。

 「それは困ります!どうやってこの先生きていけばいいんですか!これからは居眠りもせずにしっかりとしますから、あと一回だけは!」

 上級精霊は首を横に振る。

 「ダメだ。」

 絶望の谷に落ちる。何秒かは分からない自由落下を感じる。



 「グニャ!」背中から着地し、じんじんとした痛みに呻き声をあげる。魘されてソファーから落ちたようだ。状況を理解し、すぐに反転する。

 見渡せば、先ほどまでの暗闇ではなく、朝日指す一部屋でノラは安心し、暖かい息を吐く。

 久しぶりにアメショーに会ったからか昔の夢を見てしまった。

 元々あまりよくない毛並みがさらに悪くなってしまっている。すかさず整える。スーツの男はキッチンに立っていた。何かを焼いている音が耳に入る。

男の元まで駆けてゆくとスーツの男はスウェットの男になっていた。右手に卵とベーコンを盛りつけた皿。左手には大盛りに盛った白米。両手からは湯気がゆらゆら出ていて魔術師のようだなと思う。

スウェットの男はコンビニでパンを買っていたくらいだからてっきり料理などしないと思っていたが、机に並べられた品々を見るとそうでもないようだ。

男は作った料理を次々と口に運び、五分とかからずに平らげた。

食後、タバコの箱を掴み、口にくわえる。

ライターで火をつけようとしたが、止め、ライターとタバコをゴミ箱に投げ入れる。小さな音で舌打ちをする。

 初めて男の粗野な部分が垣間見えたような気もした。

 スウェットを脱ぎ、ソファーに力なくかけられていたワイシャツと位置を交換する。

 着替えている拍子に、筋肉質な体が下着の間から少し見える。傷があった。古傷。

 外傷がある、という点でもノラと一致しているが、男の古傷はノラの心をそのまま表したようだった。塞がってはいるが癒えてはいない古傷。心の傷。

 スウェット男からスーツ男に戻った男は、カバンをしっかりと握り、キッチンにおいてあった巾着袋を鞄に丁寧に入れ、家を出た。

 

 昨日の昼頃はあいにくの雨だったが、今日の天気は一転して晴天だ。街へ出る頃には四月というのにスーツ男の額には汗が浮かんでいた。 

 ノラも歩き疲れたので、男の鞄が空いていることをいいことに鞄にぬるりと入り込み、頭だけを出す。

 あれはいつだったか、ハンバーガー屋に行った時だったか、女子学生が二人して買い物かごで運ばれている猫の動画をニマつきながら見ていた。ニマつく理由は分からなかったが、ノラも「こんな風に運んでもらったら楽だろうな」と思っていた。

 その夢が今叶った。確かに楽だし、今まで見守ってきた人間どもに上の存在の俺を運ばせているのは神輿に担がれているようでとても愉快だった。

 ノラ自身は気が付いてはいなかったが、口角が上がっていた。いつ以来だろうか、口角が上がっていたのは。ノラにしかわからないことだ。

 しかしその夢もすぐに終わってしまった。

 スーツ男が歩きながらこちらに手を伸ばし、カバンの中を漁ろうとするので、ノラは急いで飛び降りる。慣性が働いているので、地面に足が付いた時、足が後ろに持っていかれるような感覚がある。

 昨日「さくら」と呼ばれていた女に渡されていた紙を取り出す。ビル風に飛ばされないようにするためか、力強く握っているので、紙の左側がシワになっている。

 「そろそろか」とつぶやく。

 スーツ男はあるビルの前で立ち止まる。「辰吉興行事務所」と書いあてるが何をやっている会社の事務所なのか全くわからない。が、スーツ男は目を鋭くさせる。

 その事務所の奥にあるエレベーターが一階に到着し、オレンジのランプを点灯させて、扉が開く。扉が開くや否や、二人の屈強な男が早歩きで出て来る。片方は一階に用があるのか、出口には向かわずに右に消えていった。

 顔つきの鋭い金髪のフェードカットの男だけが出てくる。

 盗み見した資料によるとこの金髪の名前は、宮川、というらしい。とてもじゃないが楽器を買いそうな人間には見えない。

 建物の自動ドアが開く。歩行者が横断歩道を渡るときよろしく、左右に首を曲げる。スーツの男はスマホで何かを調べるふりをして街並みに溶け込む。

 なぜ外に出るだけなのにそんなにも警戒しているのだろう。

街の中心部へ向かおうとしているのか、右にかじを切り歩き始めた。程よい間隔をあけ、宮川の後をスーツ男が追う。隣に並んでいる隣にいるノラですら、足音が全く聞こえてこなかった。


 今日はとりあえず動向を掴むだけにしておく。もちろん機を伺ってチャンスがあるならいつでも殺す。宮川という男の警戒のピークは建物を出るときだった。なんて不用心、背中越しにもだんだんと気が緩んでいくことが分かる。どこか人目につかないところにでも入ってくれないか。いやまて、といっても夜まではなるべく死体は見つかってほしくない。回収できるならそれに越したことはない。

  

 なんてスーツ男が思考を巡らせていることなどノラはまったく知らず、呑気に春の風が吹く日の下での散歩を楽しんでいた。目の前の金髪を追いかけていることは少々気になっていたが、この男の仕事のなにかだろうか、とあまり深くは考えていなかった。それよりもさっぱりとした空気に目を細め、ヒゲを震わせながら上機嫌に散歩することに夢中だ。

 結局、この日はずっと前の金髪男を追い続けた。宮川はそのあと、ファミレスに入った。

小腹が減ったのか、スーツ男は鞄をあさり、巾着を取り出す。ファミレスの反対側にある空きテナントの前で用意してきたおにぎりを食べながら、宮川を見張っていた。

なるほど、この男は探偵業をしているのか。

探偵とは華々しいように思えるが、実際はこんな風にひたすら標的に張り付き、観察する粘り強い精神が試される職だ、と誰かから聞いた。アメショーからだっけか。

二十分ほどしたあと、エレベーターを降りたところで別れたもう一人の男と合流した。その後、夜七時に、事務所に戻るまで、ずっと二人で行動していた。

 そこからも六時間ほど、道を挟んだ反対側から事務所から宮川が出てこないかを見張っていたが、入っていく人間はちらほらいれど、誰も出てくる様子はない。

 スーツ男も見切りをつけたのか、通りがかった空車のタクシーを拾う。ノラもいい加減退屈していたところだった。

 

 「どちらまで?」男にしては高い声だった。

額を挙げて鏡で運転席を覗き見ると丸刈りでサングラスをかけているものの、女性ドライバーだった。

夜も更けてきて、街灯が道を照らしているとはいえかなり暗い。それなのにサングラスなんてしてしっかり前が見えているのか。事故はもうこりごりだ。やめてほしい。

 「駅前のアパートまで。」

 座ったシートの布地がノラの目には魅力的に映り、思わず爪でも研いでしまいたくなるが、ここで爪を研いでは音が出てしまうし、もしシートが破れている、とドライバーに言及されてしまったら、困るのはスーツ男だ。

 おそらく、「猫に似たお化けがガリガリと爪砥ぎした」なんて言い訳は通用しないし、頭のおかしい人間だと思われるだけだろう。 

爪を引っ込めておとなしくスーツ男の隣に座っておく。

タイヤと地面の摩擦、エンジンの振動で、車内はゆりかごのように心地よい。思わず寝てしまいそうになるが、また悪夢を見てうなされるのは勘弁だ。

ドライバーがわざと低くしたような声で喋る。

「あれ、お客さん、どこかで会ったことありますか?」

 スーツ男はミラーを一瞥し、運転席を確かめる。しかし見た後で「あwるかもしれないですね。私は結構いろんな所へ仕事に行きますし、タクシーも使いますから。」平然と言う。

 「はは、そうですか。今日はお帰りですか?」

 「はい。」

 「大変ですね。こんな時間まで。」

 「そんなことないですよ。よくあります。それにそんなこと言ったら運転手さんもこんな時間までお仕事してらっしゃるじゃないですか。」にこやかに返す。

 ノラは一時期、人気が集まる、「きゃばくら」というところで生活していたことがある。

その時のやり取りを思い出していた。 

 確か時間帯もこれくらいの時だった。

 「ほんしめい」とやらの女が初老の男に言ったセリフだ。

 初老の男はきゃばくらの右隅の席に座っていた。ちょうど店全体が見渡せる席。

 店の中心では三十半ばくらいだろうか、塗装会社の社長が「ぶーぶ」という高い酒をいくつも注文し、大騒ぎしていた。

 

 関係ないが、ノラは最初、「ぶーぶ」と客が給仕の男に言いつけていたのを聞いた時、車の事だと思っていたのだ。電車を管轄していたとき、子供が電車の窓から外を走る自動車を指差し、「ぶーぶ」と呼んでいたからだ。

 車を酒の場で気軽に注文するなんてとんでもない大金を持っているのだなと思った。

  

 なんだか話が散らかってしまった。

 藩士は戻るが、その初老の男が社長を指差し、「なぁナナセちゃん、あの派手に遊ぶ下品な若造、週末いつもいる気がするんだが。」と、眉をひそめて、嫌悪感を隠さずに言う。

 そしたらそのナナセちゃんは笑いながら返す。あまり美人ともいえないが、愛想がよく良い人だと思った。こういう人間が老人の心をつかむのだろう。ナナセちゃんの客は老人が多かった。

 「てことはさ、高田さん、高田さんも毎週末いるってことだよ?」高過ぎず低すぎない声は数いる「きゃばじょう」のなかでも比較的好感が持てた。

 高田はさらに眉間に深い皺を寄せ、「どういう意味だ?」と問いただす。

 ナナセちゃんは特に臆する様子も見せない。

「毎週あの人がいるって分かるのは高田さんが毎週いるからだよ。」

 確かにその通りだ。

 数瞬遅れて高田はその意味が分かったようで明るい笑顔になる。「こりゃ一本取られた。」と大笑いする。

 こういうところがシルバーキラーたる由縁なのだろう。


 それに似たものを感じる。

 こんな遅くまで仕事とはたいへんですね、と言っている女はこんな時間まで仕事をしている。おあとがよろしい、座布団をいただきたい。爪砥ぎも兼ねて。

 「私たちは似た仕事をしてるのかもしれませんね。」と運転手は暖かい笑みをこぼした。

 その言葉を聞いた瞬間だった。

 スーツ男の体が瞬時に硬直する。そしてすぐに右手を静かに背広の内ポケットに滑り込ませる。

 「どうしました?お客様。探し物ですか?」

 「いや、なんでもない、が。」内ポケットから右手を出し、緊張を解く。

 「間違いなく、同じ仕事はしていない。」

 鋭く、踏み込ませない。

 「そう、なんですかね。」共感してもらえなかったからか、少し悲し気な声だった。 

 車が停車したので外を見てみると、スーツ男のマンションの前だった。

 「七千三百円です。あと、すみません。なんだか私、愉快にさせてしまったみたいですよね。よかったら、これ。」男の前にフルーツの飴が差し出された。五円玉のような形をした、パイナップル味の飴。

 スーツ男はそれを受け取り、ポケットにしまう。会計をしようとし、財布を開けてみたが、細かい札がなく、ほとんどが万券。

 一万円札を摘み取り、運転席の肘置きにあるトレーに乗せる。

 「私の方こそ、非礼を詫びたい。せっかく話しかけてくれたのに、否定する様なことを言ってしまった。釣りはいらないから、取っておいてほしい。少額かもしれないが。」

 「いえいえ!こんな、もらえませんよ。私は料金さえ払ってもらえればいいんですから。

」二千幾らを乗せてトレーを突き返す。

 「それはできない。一度渡したものだ。」後部座席のドアを開け、出る。ノラも閉じ込められないようにちゃっかり出る。

 「それなら、ありがたく頂きます。」

「そうしてくれ。ありがとう。いい運転だった。」タクシーを背にして、アパートに帰る。


アパートに帰った男はさほど昨日と変わらないルーティーンを送っていた。一時間ほど本を読み、床に就く。ノラも布団に潜り込み、寝巻き男の懐で寝る。ゴツゴツしてて添い寝するには適していないが、贅沢は言えない。

布団にくるまっていたおかげか、寝巻き男が隣にいたおかげか、安心して寝ることが出来そうだった。また悪夢を見たんじゃあ、たまったものではない。

もっとも、悪夢というかただの昔の話なのだが。



翌朝、獣の咆哮ともいえる声でノラは飛び起きた。足の筋肉を思いきり硬直させて、布団から抜け出す。

寝巻き男は額に大汗をかいており、目を見開いて、肩で息をしている。

どうやら今日はこの男が悪夢を見たようだった。

悪夢というのは交代制で見るものなのだろうか。だとしたら今夜はノラの番だ。

時計を見ると昨日よりも少し早いくらいの時間に目覚めたようだ。袖で汗をぬぐった悪夢男はのそりと立ち上がり、ふらつきながらも台所へと姿を消した。

男は毎日自炊をしているのか。見習わなければいけない。自分のやっていることは他の精霊から食事を横取りしているただの泥棒精霊だ。そのことはノラを落胆させるが、今はこの男で人気を供給しているのでまだマシといえる。

それでも自分で働いて飯を食べるのとでは程遠いが。働いていたあの頃が懐かしい。

唯一の救いは、アメショーまで処罰されなかったことだろう。自分を慕ってくれていた後輩まで野良行きだったら本当に自分に価値はなかった。また会えたらいいな、と切に願う。


男の朝食ができるまで食卓の椅子に座って待つ。

そこでふと、気が付いたことがあった。

食卓には椅子がもう一つある。自分が座っている椅子の他にもう一つ。一人暮らしではないのか。

そして昨日の朝、自分がうなされて滑り落ちたソファーを見る。明らか三人掛けだ。一人暮らしだとしても、二人掛けを買うだろう。

なぜ今まで気が付かなかったのだろう。

洗面台の方に駆ける。マグカップも歯ブラシも二つ。

この部屋にはもう一人住んでいる?


考えながらリビングに戻ると寝巻き男が目玉焼きを持ってきた。すこし焦げ付いていることが不調を表しているようだった。

料理中に描いた汗なのか、先ほどの悪夢の汗か分からないが、襟には汗が染みている。

 汗が気持ち悪かったのか上を脱ぎ捨てた。

 上裸男の屈強な筋肉には数多くの傷が刻まれていた。

 事故にでもあったのだろうか、なんて安直な考えはしない。

 切り傷、刺し傷、火傷、銃創、打撲痕。多種多様、すべての種類の傷を背負っているのではないかというほどだ。昨日見たときは数か所しか見えていなかったから深く考えず、自分と重ねて感傷に浸っていた。

 こんな人間を見るのは初めてだった。

 一体なにがあったのだろうか。

 上裸男は昨日より食事に時間がかかったが、米粒一つ残さず平らげて、再び台所へと歩いていった。

 毛繕いしながら、男が洗い物をしている音を聞く。折角なら男のそばに付き、人気を拝借したいところだが、万が一水が撥ねてきたら大変だ。我々精霊は水が苦手なのだ。浸透圧のように人気がどんどん水のほうに流れ出てしまう。

 非常に危険だ。安易に水の近くには行けない。

 もちろん精霊の中には野外の管轄の奴もいる。そんな時、雨が降っては仕事にならない。

 尤も、雨の日は人間もあまり外を出歩かないから野外担当の精霊は暇になるのだが、一応いなくちゃならない。

 そんな時には人気がたくさん込められた「木天蓼」という、いわば外付けバッテリーが配布され、それに入った人気を利用して精霊は雨を防ぐバリアーを張る。バリアーを張るのにも結構な人気を使うので、ちょうど一日で使い切る。

 木天蓼は長い間中に入っている人気を使わなければ、その内包された過剰な人気によって精霊は恍惚状態になってしまう。

 上級精霊たちは木天蓼の危険性を案じてあまり使いたがらないようだが、代案が見つかっていない以上仕方ない。

 木天蓼どころか余分な人気すら持ってない状態では水に触るなんて自殺行為に等しい。

 おとなしく待っていると上裸男が現れ外出準備を始める。

 昨日のスーツではなく、上下黒のスウェットに黒トレンチコート。手に鞄を持つこともなければ、堅苦しいスーツに身を包むこともない身軽な服装。

 大きく息を吸い、ため息交じりに吐き出す。

屈伸を二、三回し、大腿を強くたたく。ドアノブをひねり、部屋を出る。

 それは何かの決意のようにも見えた。

 

 今日もあの事務所の前で待ち構える。

 朝から半日待ち続けた。

 時刻は十六時だろうか、夕日が見え始めた頃だ、宮川を含めた三人が出てくる。そのまま近くの飲み屋へ入るのでスゥエット男も後をつける。

 「何名様ですか?」若い女の店員の声が店の中から聞こえてくる。

 「おい、見りゃ分かんだろ?三人だよ三人。バカが。」態度の悪い返答。三人の誰かが吐き捨てる。

 「し、失礼しました。お席ご案内致します。」顔を見てはいないが、引きつった顔が想像できる。可哀そうに。

 五分ほどの時間をおいて、男も入店する。

 こちらが探すまでもなく店内で騒ぐ三人が目に入った。その騒ぎ方からは品性のかけらも感じられなかった。騒ぐ時点で品性はないので騒ぎ方もなにもないが。

 「いらっしゃいませ。一名様ですか?」店員が駆け寄ってきた。声を聞く限り先ほどの女店員だ。

 「はい。」

 「かしこまりました。それではご案内しますね。」明るく笑顔で言う。性格がいいのはその笑顔で分かる。ナナセちゃんのようだ。

 「あ、それなんですけど。」

 「はい?」店員が振り返る。少し訝しむ目。

 男は三人組の席から近すぎないが遠すぎもしない、ちょうど観葉植物で隠れるテーブルを指さす。

 「あの席がいいんですが、大丈夫ですか?」

「大丈夫…です、けど、四人席ですが、大丈夫ですか?」眉が下がる。

おそらくこの言葉には「一人で四人席に座られると混雑したときに困るんですが、」という意味合いが含まれている。

男も分かっているが、どうしてもその席がいい旨を伝える。

「かしこまりました、案内いたします。」

 きっと内心、三人組といい、この男といい変な客ばかり来る日だと嘆いているだろうなとノラは推測する。男も同じだろう。どこか申し訳ない顔をしている。

 席についてメニューを広げる。

 ノラは机の上の卓上調味料や、グラスにさしてある箸の横に座る。尻が冷たい。

 店員を呼びつけ、チャーハンを注文する。

 以上ですか?あ、それと、これも。オレンジジュースですね。うん。

 焼きめしとジュースという質素な机の上とは対極に、三人の机は饗宴のような品数だ。

 明らかに食べきれる量ではない。

 三人の方を目尻にとらえ、「最後にはちょうどいいか。」鼻で笑い、子馬鹿にする男。

 宮川の部下と思われる一人が机に並べられた数々の品の一つのエビチリをレンゲで掬い、

口に運ぶ。それと同時に喋るので、赤いチリソースがふんだんに机に飛ぶ。

 「いやぁ。楽じゃないっすよ。まだ調子こいてるやつもいるわ、他にもなんだ、まぁとにかく、上手くいかねぇことが多すぎるンすよ。」部下が愚痴をこぼす。

 そういえばアメショーは愚痴なんてこぼしたことなかったな。いつだって前向きに仕事をしていた。愚痴を言うことが悪いとは思わないが、言わないことはすごいと思う。

 宮川はこれに対して、「でもお前ら、面倒を起こす前に俺に報告するだろ?それができる部下はなかなかいない。特にこの業界ではな。先に手が出る奴が多い。そんな中でまず俺に相談し、報告をして指示を仰ぐ奴は貴重だ。感謝してる。」貫禄があった。

 「タツヤさんまじやべぇっす。そんなふうに余裕がある人こそなかなかいないっすよ。」

 もう一人も同調する。

 「ホントっす。何度も逃げ出そうと思ったっすけどそんなことできないし。そんな時何度もタツヤさんには助けられました。こうやってメシにも連れてきてくれますし。」へへと薄笑いを浮かべる。

 話の流れから宮川の下の名前はタツヤというのか。宮川は満更でもなさそうだ。

 

 四割お世辞、三割雑談、三割愚痴の話が二時間続いた。ノラは最初の一時間は辛抱強く耐えていたが、とうとう退屈になり、丸くなって目を瞑った。

 男はチャーハンがなくなったら注文するを二度ほど繰り返していた。オレンジジュースは思ったよりも本格的なものがでてきたのか、飲むたびに苦そうな顔をしていた。二杯目からはお冷を飲んでいた。

 三人組は意外にもあの皿をすべて平らげていたので驚いた。

 食って飲んで機嫌がよくなったのか、帰りの宮川たちはうってかわって穏やかに会計を済ませ店を出た。

 男はチャーハンをかきこみ、素早く代金を払って、追いかける。

 ノラはぼうっとしていたので出遅れた。追いかける男を追いかける。


 「俺は今から事務所戻るが。お前らは?」横に並んだ二人の方は見ないで話しかける。 

 「俺らはもう少し飲んでから帰ります。」

 「そうか。」

宮川は鞄に手を突っ込み封筒を取り出す。手を入れてからすぐに目的のものが取り出せるというのはつまり、カバンの中が整理されていることの表れだ。

 「これで遊んでこい。余っても返さなくていいぞ。」 

 もともとうっすら笑っていた二人が破顔した。 

 この金でどう遊ぼうか、と浮足立っている。 

 「いいんですか?」疑問形ではあるが、すでにこの金を手にしたような口ぶりだった。

 「たまにはな。入れ込んでる嬢がいるんだろ?使ってやれよ。」

 二人とも気を付けの姿勢になり「最高っす!」と声をそろえる。

 行ってきます、と威勢のいい声で別れる。

 男が小さく、今だ。といったのが聞こえた。

 

 二人と宮川が完全に見えなくなったところで、男が走り出した。視線は宮川の鞄にある。

 そして鞄を強引に奪う。奪った後もなお走り続ける。酔っていて握りが甘かったのか、盗られることなんて想定していなかったのかあっさりと鞄は手から抜け落ちた。

 宮川はコンマ数秒何が起こったか分かっていなかったが、すぐに目を鋭くさせて追う。

 男はかなりの健脚で、通行人の間をするするとすり抜けて進んで行く。ノラもそれに並走するように軽快なステップを踏み、躱し、飛ぶ。後方からは「きゃっ」「うわっ」と、人の声が耳に入る。

 男がすこしだけ振り返る。走るペースが少しだけ緩やかになった。なぜだ?

 息づかいは一定でまだ余力があるにもかかわらず。最初は荷物を奪い取り逃げ切ろうとしているのかと思ったがどうやら違うようだ。

 明らかに追わせている。どこかへ誘導しようとしている。

 そのことに気が付いたのは街灯の少ない路地に入りこんだ時だ。アルコールを飲んでいたからか宮川は随分と減速している。それでも追いかけるのをやめないのは鞄の中身が余程大切なものだからだろう。

 男は暗く人目のつかない場所で曲がったところで止まる。

 曲がるところもあえて見せたのだろう。大げさに大回りしていた。

鞄を放り投げる。

 両手が空く

 息を潜めて追いつくのを待った。

 ノラは曲がり角からひょこっと顔を出しどのくらいで追いつくのか確かめる。

 十メートル、七メートル、四メートル

 三メートル、二メートル、一メートル

 曲がってくる!

 ノラの頭上を黒い影が素早く流れる。  

 その影は宮川の顎に当たり、バチンと光を放った。軟体生物のように崩れる。

 

 

 「あぁ、起きてしまったか。」起きてしまったのは想定外なのだろうが、あまり気にしてないような間の抜けた声。

 目を覚ました俺が一番に目に入ったものはよく知る金属の塊。先端には筒状の物体が付いている。音が出ないようにする、アレ。やばい、ということだけはわかる。

 何が起きた?部下と飲んだ。そのあとは?そうだ。こいつに鞄をひったくられた。誰の鞄だと思ってやがる。とりあえず逃げなくては。クソ、手足が痺れてうまく動けない。スタンガンか。逃げるのも反撃も無理そうだ。

 「なぜ殺す、何でだ。」恐怖とアルコールで回らない頭でひねり出せた言葉はこれっぽっちだった。

これで見逃してくれるとも思えない。何を言っても見逃されないことにうすうす気づいてはいたが。

 「頼まれた。金を積まれて。」

 「いくらだ、いくらで。」震えて言葉が続かない。

 「七百五十万。」これはしめた。

 「よし、十倍出そう。」

 「無理だ。そもそも額を教えた時点で帰す気はない。」淡白な回答と確実な殺意が伝わる。

 本格的に体の底から慄く。駄目だ助からんダメだダメだ、

 銃口が向けられる。死が眼前に迫る。

 これまでも数回はこんなことがあった。だけどギリギリで助かってきた。今回も助かるに決まってる。

 「殺さないでくれ、頼む。殺すな!」

 「頼むよぉ、助けて」

 助かる。絶対に助けが来る。

「お願いしま、」

 

カシュッ。

 


目を見開き、口をあんぐりと開ける。ノラと死体の表情が図らずもリンクした。

思えば、違和感がなかったわけではない。

目つき、数々の傷、個人情報の書類、不自然な尾行。

とはいえ、とはいえだ。人を殺すとはなかなか結び付かない。普通は。

殺し屋男はどこかへ電話をかけている。

「回収をお願いしたい。はい。場所は、ちょっと待ってくださいね。」近くの電柱へ歩み寄る。

「〇〇〇〇―〇の近く。袋小路になってるところの奥です。あぁ、すぐ着きますか。」

 電話を切る。 

 もっと長く、料金などを話していたはずだが、何一つ頭に入らない。

 死体を見たのはこれで二度目だ。

 一度目は思い出したくもない。あの日。電車に飛び込んだ奴の死体。 

 しかし今回は頭部以外は原形をとどめているのが逆にリアルだった。そう考えている間に大型のバンが到着し、合羽のようなものをまとった服装の人間が四人降りてくる。マスクにゴーグルと、素顔が不明だ。

 二人はブルーシートを広げて死体を包み込む。

 一人はポリバケツ一杯の水を撒いて地面に流れた血を上書きする。

 一人は何やら消臭剤のような霧状のものを散布した。

 血腥さはたちまち無臭となっていく。神業ともいえる速さで殺人現場はまっさらになった。おそらくバンが到着してから二分も経っていない。

 殺し屋男は先ほど投げやった宮川の鞄を探り、封筒を二つ取り出した。そして遅れて降りてきた運転手に手渡す。

 バンの運転手は普段着の中年だった。後ろで結われた長い黒髪に無精髭。

 「ターゲットの鞄に入ってたのか。掃除代が浮いたな。棚からぼた餅ってやつか。」タバコを取り出して火をつける。夜の路地にライターの点火音はよく響いた。

 「いや、鴨ネギの方。それにしても、いつも早くて、確実で、すこし割高。助かってるよ。」殺し屋男の口角が上がる。

 「俺らはな、二十四時間三百六十五日、休みがない訳よ。高くもなる。お前が前もってこの日のこの時間にここで殺すってのを教えてくれれば少しは安くなるかもな。」わざとか偶然か、バン運転手はタバコの煙を殺し屋男に吹きかける。

 「タカハシさん。わざとだろ。」言われてはしゃぐタカハシ。

 「そりゃ、な。」

 長い付き合いらしい。殺し屋男の表情もいくらか柔らかい。

 「まぁまたターゲットを始末したら連絡しなよ。」バンに乗り込む。

 「さっきから言おうと思ってたんだが、その『ターゲット』ってのやめれてくれ。なんだか殺し屋みたいだろ。」

 「殺し屋じゃないのか?」タカハシは顔をきょとんとさせる。

 「まぁそいなんだけどな。」

 「じゃあな。あまり長居するのもアレだし。お前を回収する日を楽しみにしてるよ。」

 返答はせずに笑みを返していた。それを確認したのちに、バンは発進する。

 バンは速度をどんどん上げて、あっという間に見えなくなってしまう。

 鼻で息を吐き出し、バンとは反対方向へ歩く。

 涼しい夜風はどこか血の匂いがした。


 

 翌日訪れたのは例の音楽教室だった。 

 重い扉を開ける。

 「やったぞ。昨日。」ぶっきらぼうに答える。

 さくらは膨大な書類の整理をしている最中だったようだ。

ノラは重い目をこすり、せっかくだからとさくらの狭いデスクの上にいっぱいに寝そべる。昨晩は興奮で眠れなかった。

 書類整理を中断し、少しばかり目を見開き体をこちらに向ける。

 「もう依頼主には連絡してあるわよ。にしても早いわね。」

 「あぁ、早ければもらえるんだろ?金。」

 「節操ないわね。死屍累々。」

 「別に今回は一人だったんだが?」

 返答の代わりに出てきたのは札束だ。

 札束が立つほどの枚数だ。殺し屋男は札束の個数とその端数を数えながら疑問を口にする。

 「足りてるか?というか足りてはいるが、早く済ませたのに金額が変わってないぞ。色を付けるといっていたよな?」表情こそ変わっていないがかなり怒っている。

 ノラは正面から男を見ていなかったがそれでもかなりの迫力があった。

 「え、内訳教えようか?まず元々の七百五十万。それに上乗せで八百三十万。そこから私の仲介料百三十万が引かれて七百万でしょ?」

 「そこまでは分かる。仲介料もいつもより多いかもしれないが許す。あとなんだ?」

 悪びれもせずに、そう。ありがと。と言う。

「それで回収業者に八十万。それを差し引、」男はそれを聞いて前のめりになり、右手をし制止の姿勢をとる。

「まてよ。それだ。もう払ってあるぞ。タカハシさんには。」確かに封筒二つを渡しているのをノラも見た。

「え?普通に請求来たから払っちゃったけど。」何か悪いことした?という顔をしていた。    

実際悪いことはしていない。

あの野郎、という顔をしている。

「あの野郎。」本当に言った。

「次回はタダにしてくれれば許す。」

「次もお金取られたら?」小悪魔の笑み。首をかしげて笑うから長い髪が揺れた。

「回収業者が回収されることになるだろうな。」

「笑える。」笑わずにさくらは言った。



その日はまだ日の高い内にアパートへと戻ってきた。殺し屋男は受け取った金をリビングのテーブルに粗雑に置き、着替えをする。

日が差し込むいい部屋だ。マンションは二階だったから上から見下ろせた。ノラはそれがとても心地良かった。

男はまたスウェット男に戻っていた。

札束の横に積まれた本を取る。

前にノラが読めなかった約?みたいな作者の本。表紙は水色に風鈴。夏を感じさせる。

本を広げて栞が挟んであるところから読む。  

ノラもとなりでくつろぐ。

暖かい夕陽光に当てられるとどうしても目を閉じて寝てしまいそうになる。

しかし寝るわけにはいかなかった。これまでの法則によると、次に悪夢見るのはノラということになる。バカげた迷信ではあるが、信じずにはいられない。とはいえ眠いものは眠い。

そうだ。目を瞑るだけにしよう。そうすれば寝ないで休憩できる。そうしよう。

 

 ピンポーン

 

 家のインターホンが鳴った。パチリと目を開ければ外はすっかり暗闇に包まれていた。

寝てしまっていたようだが悪夢は見なかった。

 外を見る。暗くて何も見えない、なんてことはない。精霊は夜目がきくので少量の光でも十二分に視界は確保できる。

 外には車が一台駐車していた。

 男はインターホンには無反応だった。本のページをめくる。


 ピンポーン

 

 再び、鳴る。ノラは耳だけをドアの方に傾ける。視線は男に合わせる。そうしたら机の上の携帯電話が鳴った。

 スウェット男は舌打ちをする。居留守がバレてしまったではないか、と。

 本を机に置いて、立ち上がる。電話には出ないでポケットに入れた。

 ノラのこれまでの野生の勘か。そのドアは開けてはいけないような気がしてならない。

 髭がピリピリする。ドアへ男が向かう。

 鍵を外す。ドアを開ける。

扉の前には見知った顔があった。

 どこかで見た顔だ。

 「だから言ったじゃないですか。同じような仕事だと。」



高い声。女の声だ。

 丸刈りにサングラス。

 思い出したタクシーの運転手。

 ただあの時とは違うのは右手に拳銃が握られていることだった。

 「両手を挙げてください」運転手の背後にはどこまでも夜が広がっている。

 両手を挙げた。

俺は半分緊張、半分どのようにやり過ごすかを考えている。

 「どうして?」男がまず質問した。

 「タクシーに乗ってきたときにすぐに分かりましたよ。あ、あなた九州で大暴れしてくれた人だなって。」喋りながらも拳銃はしっかりと俺の心臓を捉えている。嫌だな、プロだ。

 「まだ生きているということは、あの飴は食べてないんですね。」ノラは降りる際、運転手が渡してきたパイナップル飴を思い出す。

 「すっかり忘れていた。あの日から、あのスーツ着てないから。」互いに一分の隙も無い。

 「雇われたのか?それとも。」

 「組織お抱えの何でも屋です。普段はタクシードライバーで。ただ上からの命令があれば、って感じです。ずっと命令は出てましたよ。九州の奴にお礼をしろって。」

 「成程。」

 「ただ殺せ、ではなく捕まえろ、と言われています。抵抗しなければ撃ちません。」

 「どうせ連れていかれた先で殺される。できるだけの抵抗をしてみようかな。」ある筈もない余裕を捻りだしている。 

 「できませんよ。さくらさんの所在もすでに押さえていますから。」

 奥歯を噛む。捻りだす余裕もなくなってきた。

 「随分と甘い見込みだ。俺がさくらを見捨てて逃げるとは思わなかったらしい。」

運転手はそれを無視して続ける。「さびれたあの音楽教室には仲間たちが張っていますから。あなたがおとなしく捕まればさくらさんは生かしてあげます。抵抗するなら、あなたを撃ち殺したあとでさくらさんも捕らえて殺すよう指示するだけです。」弱点をえぐってくるところが正に同業者。

「ずいぶん優しいな。殺されるのは俺だけか。」

「いいや、二人ですね。あなたと、あと依頼主ですよ。依頼主はすでにあの世へ行きましたが、実に良い働きをしてくれました。大体は彼から聞き出したんですよ。」聞いた、ではなく、聞き出した、のか。

そうか。

もう問答は不要だ。



ノラだけが分かった。この男が行動すると。

男は右を一瞬だけ見て、大声を出す。

「大家さん!近づくな!」

運転手は反射的に左を見る。が、そこには誰もいない。

銃口が胸からずれた。今しかない。

素早く右手を突き出し、正確に運転手のノドを突く。

怯んだ、と判断した時には既に、男の左手は運転手の顔面にめり込んでいる。速い。

サングラスが砕ける。破片が拳に刺さる。

それを意に介さずに、さらにもう一発顎に左フックを放つ。

口を開けながら殴られたので下顎だけが右にスライドして異様な音を出した。

運転手が崩れ落ちたのを確かめて男は右にある階段へ走る。ノラもそれについていく。

とにかく今は逃げる事だけを考える。今この男を失えば人気が足りずに自分まで消えることになる。もっと速く走れよ、人間。

階段まであと少しというところで逃亡男の右肩がガクンと前に凭れる。

それと同時に背後で硝煙が弾けた。ノラは急な大きな音にぎょっとしてその場で小さく跳ねてしまう。

続けざまに音がもう一発。

次は男の背中に命中したようで、前につんのめり、階段を転げ落ちる。

「 クソ、殺すつもりで殴ったぞ。なんで気絶すらしてないんだよ。」ぼやきながらも立ち上がろうとしている、が、負傷しているからか、立ち上がることができない。

こうしている間にも、あの運転手がやって来て撃ち殺されるかもしれない。

ノラも体を使って立ち上がるのを手伝うが、体重差があってか、まったく助けになっていない。仕方ない、あまり余裕のない人気を消費することにはなるが、力を使い、自分の体重をぐっと増加させる。

ノラは頭のてっぺんを使って、這っている男の胸をぐっと押し上げる。一番踏ん張らなくてはいけない立ち上がる、という動作を手助けしてやる。よし、立ち上がることはできた。これで少しは逃げやすくなるだろう。

すぐにノラは踵を返し、運転手の元まで戻る。状態を確認しておきたかった。まだ動いているのか?

階段を四、五段、飛ばして跳躍する。

駆け寄って見てみるが、運転手の容態もなかなかの深手だった。これ以上にないというほどに朱く染め上げた眼球は赤い月のようだ。

サングラスの破片が目に刺さっている。

喉が潰れており、呼吸をすることも難しそうで、風切り音のような呼吸音をしている。

なにより鼻は曲がり、顎は粉砕されていて口を閉じることも叶わない。

 が、それでも拳銃を前に突き出し、その銃口は壁で体を支えながらも逃げている男をしっかりと捉えている、

 手が震えてはいるが、確実に仕留められる確証がないから撃たないだけで、いつでも撃てるようだ。

 コヒュー、コヒュー、ヒュー。


 背後で重い物を落としたような音がした。

もう振り返るまでもない。男が崩れ落ちた音だ。

 ドライバーは目を見開く。

 痛々しい呼吸音が止まる。

 引き金にかかっている指に力が入る。

 撃った。

 分かる。撃つ。そしておそらくこの一発に被弾したら男は死ぬ。

 不本意だが最後にありったけの力を使う。

 二メートルほど垂直にジャンプし、弾丸を弾くために、円錐形の不可視のシールドを張る。雨を防ぐバリアを何層にも重ねたものだ。

 そのシールドに阻まれた銃弾はガギン、という音を立てて明後日の方向に飛んでいく。

 運転手は「ありえない」という顔をするまでもなく、停止スイッチを押されたようにその場に倒れた。グチャと水分を含んだ音が生々しい。最後のひと絞りだったようだ。

 ただそれはあの男も、ノラも同様だ。

 力を使い果たしたノラは手負いの獣のように全身に力が入らず、足を引きずるように歩く。何とか、ついていかなくては。

 男を追って道路に出る。血にまみれた男の背中が見えた。透けているように見えた。

 血の跡を見ると、その間隔がだんだんと縮まっている。

 死なれたらマズい。自分まで死ぬ。



 震える手でズボンのポケットから携帯電話を取り出す。背中に命中した銃創から滴る血で湿っていた。

 右肩にもう力が入らない。

 必死の思いでうろ覚えの電話番号を入力する。間違っていたが最後、もう一度入力する余力はない。

 コール音が響き渡る。静かな夜だ。通行人もいない。もし血塗れの自分を見られたら通報されてしまう。それだけは避けたかった。

は役立てくれ。出る前に力尽きたら笑えない。

 コール音が止み、電話の向こうから息切れした女の声が聞こえる。

 「ねぇちょっと、どうして電話に出ないの、一大事なのに!」この状況に高い声はやめてほしい。

 「来客の、相手を。」 

 「九州の奴らが押しかけてきてるの。私はもう逃げられたからいいけど、そっちに大勢刺客が送られてるんじゃないかって思って知らせてあげようとしたのに。全く、来客って。」

 やっぱり、そうか。どっちにしろ俺もさくらも殺すつもりだったんだ。

 「さくらは、逃げられたのか。」

 「あの部屋はいくつか仕掛けがあるの。それを使えば余裕。あの男たち、本棚の下敷きになってノビてるわよ。それにちょっとなに、『さくらは』って。そっちも追われてたの?」

 「今も、追われている、かなりの、深手だ。逃げられそうに、ない。」

 「今どこ?家?」

 「家の前の、道。」腹から声を絞り出す。反動で背中が痛む。

 「そこでじっとしてて。すぐに迎えを寄こすから。」

 「じっとしてたらたぶん、追いつかれる。着く頃には、たぶん、死んでる。」

 「でもどのみち逃げられないでしょ。あなたが深手というくらいだから。」

 そうかもな、と言おうとしたが声が出ない。

 「今連絡したらもう向かってるって。信頼できる人にお願いしたから。」

 電話が切れた。俺の息づかいだけがこの空間に存在する音だ。

 過払い分は働いてほしい。

その場に座した。

 空を見上げる。

 真っ黒な空には名前も知らない星が輝いている。



 共倒れだ!クソ!今日の悪夢は二人そろってみることになるとは。いや現実か。現実の方がよっぽど悪夢というのが皮肉だ。

 とうとう男は歩みを止めて、壁に寄りかかり、天を仰ぐ。

 背に弾を撃ち込まれているのにもかかわらず背中を壁に任せるとは。激痛ではないのか。

もう痛みすら感じていないのか。

 男は目を閉じる。もう動く気はないようだ。

 人通りもない。終わりだ。ノラも倒れる。 

 この男を誰も助けてくれはしないようだ。

 脳裏に過去の風景が早回しのビデオのように流れる。そのテープの大半にはアメショーが写っていた。

 最後にアメショーに会いたかったな。

 「またな」って言っちまったからな。

 まぁ会ってどうするんだって話ではあるが。

 瞼が重い。開けていられない。

 もう忘れてるか、俺の事なんか。

 しょうがないよな、よそ様から人気を奪って生きてきた自分がまともな消え方するわけもない。長いようで、短かった。

 ちょっと疲れた。俺は頑張った。頑張った。

 


 思考が切れる直前だった。

 誰かに叩かれた。ただ痛みはなかった。

 本当の本当、最後の力を使って目を開けた。

 目を開けて後悔した。嫌なもの見せやがって。

 上級精霊様じゃねぇか、しかもコイツ、俺のことをクビにしやがったやつだ。正に悪夢だ。

 なんだよ、首に数珠なんてしやがって。

 ノラの視界は、猛スピードでこっちに向かってくる黒いバンのライトのせいでまばゆかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。