精霊と幽霊
小説というものにマンクスは、微塵も興味がなかった。ほかの精霊と雑談すると三割が小説や本の話になるのだが、私が本を読んでないと知ると、他の精霊は瞳孔を細くし、「そうなんですか!?」と驚く。
精霊の中には結構、人間の書いた小説を読むものが多い。ほのぼのした性格というのも手伝っているのだろう。
私はのんびりな性格でもないし、小説を読むのも苦手だった。それならば少しでも仕事を進めて昇進したいと考えるタイプだ。
三百ページ、ものによっては六百ページも続いているのだ。
それを読む時間があったらどれだけ仕事が進むのだろうか。それにもし、それで読んで面白くなかったらどうするつもりなのだろうか。
作者のところまで行って腹いせにそいつの足で爪とぎでもするのだろうか。
外にある花を見ながらそんなことを考える。
いたって普通の一軒家だったが仕事は少々特別だった。仕事の前に貰った書類には「田中の付き添い」と書いてあった。
デスクの前の見晴らしの良い窓際にちょこんと座る。向かいにある冷房の風がちょうど当たる位置でとても涼しい。春も終わり、そろそろ夏が来るが、エアコンをつけるにはまっだすこし早い時期だ。
窓際のカーテンレールに吊るされている、ガラスに棒状の鈴が取り付けられているようなオブジェが、エアコンの風にあおられてチリンと心地よい音を鳴らした。確か飾る際に切り取られたタグには「風鈴」とかいてあった。田中が一昨年くらいにどこからか買ってきた。その時にはあまりに魅力的な音に惹かれてしまっていて、田中の見張りそっちのけで手で揺らして音を鳴らしていたが、風も吹いていないのにせわしなく鳴り続ける風鈴を気味悪がり、「取るか…?」と零したので急いでやめた。
また風に当てられしゃらりと風鈴が鳴る。
風鈴の音に反応し、田中が上を向いた。長い髪が揺れる。三十六歳の男。ただひげを剃っていないせいか、幾分か年嵩に見える。面白みのない中年。すこし痩せすぎている気もしなくはない。
田中は机に置いてあるパソコンに向かってキーボードを叩いている。
そうやって書いているのが小説、というものらしい。てんで興味のないマンクスは紙に書いてある文字を纏めて綴じたものを小説として認識していたのでパソコンにカタカタ文字を打ち込むことで小説を書いているということを知ったのはこの仕事に就いてからの事だった。
田中は有名な作家なようで、上級精霊からは特別に守るように指示されていた。大方推測するに上級精霊の中にもこの作家のファンが多いのだろう。
その有名な作家に万が一のことがないように私が派遣されたのだ。精霊界で屈指の有能と言われてきた私がこの大役に抜擢されるのもうなずける。
重要な仕事ではあるがそこまでの激務というほどでもなかった。あの状態は少し神経を使うが。
田中は必要以上の外出をせず、基本は家に籠りきりでパソコンに向かっている。
そんなわけで今日も今日とてカタカタリズムよくキーを鳴らしながらパソコンと睨めっこしている。
時々くちびるの端を歪めたり、力を込めてデリートキーとやらを長押しする。執筆がうまくいっていない時なのだろう。放っておけばまた書き始める。
時々休暇をもらって本部に戻るが、その時に先輩精霊や同僚の精霊から「なぁマンクス、あの著名な小説家、絢爛の私生活はどんなものなんだ?」と私の周りを囲んで聞いてくるが何か面白味のある答えはない。それなのに毎回毎回詰め寄って来て少々鬱陶しい。
「たまに食料品とかを買いに行くために外に出て、あぁ、たまに散歩に行くくらいだ。だが、まぁ、基本は家に籠って小説を書いたり読書したりだ。」というと、揃って微妙な顔をする。が、いくら著名で偉大な人間であっても私生活まで偉大なわけではないだろうに。
勝手な幻想を抱かれる絢爛とやらに少しばかり同情した。
ちなみにいうと田中の小説にはてんで興味もないので最初、絢爛というペンネームを言われて誰の事か全く分からなかった。
「本名は田中だからそう呼ばないか?」と喉元まで出かかったが、わざわざそういうのも野暮だなと思ったので彼らファンの前では絢爛、というふざけた(と言っては本人に悪い気がするが)名前に揃えてやることにした。
あたまに相手に合わせて絢爛と呼ぶとき、「田中」がちらついて話に集中できなくなる時があり、悶々とする。
不意にガタン、と田中が机から立ちあがるので意識をそっちに移す。
リビングへ向かうので私は「仕方ないな」といった具合で香箱座りを崩しててちてちと後をつける。
書斎を出で少しだけ廊下を歩く。そのままリビングへ抜けて台所へ行く。冷蔵庫を開けて、なみなみと入ったウイスキーのボトルを取り出して気だるげに書斎へ戻る。
この人間は何時もそうだ。執筆がうまくいかない状態が長時間続くと、酒に頼る癖がある。
私も一度田中のグラスに入っている酒をぺろりと舐めてみたことがある。だが何だあれは。飲めた物ではない。
味が舌に広がると同時に「ヴェエ!」と口を開けて舌を突き出し、吐く素振りをしてしまった。もっとも私は精霊だから胃袋がないので吐くものもないのだが。
そして少量舐めただけであるのにふらふらと踊りさながらの動作で床に伏した。
あんな妙な液体で小説が進むのか、人間は奇妙珍妙なものだなと思った。
このことを上級精霊に報告したところ、「酒を飲むのは人間にとってもあまりよくないことだから、適度にして、あまり飲み過ぎるようなら対処してくれたまえ。」と言われた。
しかしだ、いかに有能と言われている私とはいえ、どのくらいの量の酒が「飲みすぎ」なのか判断しかねた。
一舐めでふらふらになる私に比べて四杯で頬が紅潮する程度の酔い具合の田中。その程度なら止めるほどではないなという判断で飲酒を放置していた。
「イザカヤ」という店を管轄しているブリティッシュに聞いてみれば、メイテイ状態になる前に止めるのがいい。という助言をもらったが、そのカタカナ状態とやらがどの状態を指すのかが分からなかった。まぁ、平気だろうと高をくくっている。
しかしこの頬が紅く染まった状態の田中は酒での健康とかそれ以前に飲むと途端に性格が変わる。
言っているそばから、肘が酒瓶に当たって机から滑り落ちた。そしてその酒瓶はそのままつま先に直撃しようとしている。
私はすかさず、全身に力を籠め、跳躍し、つま先と酒瓶の間に仰向けに滑り込む。
音が出ないように腹で受け止め、割れないように田中の足の横へ転がす。田中は酔っているからか、机の高さからガラス製の瓶が落ちたのにも関わらず、割れるどころか静かに地面へ着地したことに微塵も疑問を抱かない。
あぁ、と無力な声を出し、ボトルネックの部分を握って拾い上げた。
これでもし足を怪我したり、瓶が割れて、その破片で足を切ってしまった日には、全責任は私にある。
コイツが勝手に落として切ったのだから、ただの自業自得なのだ、だから全くもって私は悪くない、という言い訳は通用しないだろう。
外にも苦難は絶えない。急にすすり泣いたと思ったら思いきり頭を机にたたきつけようとする。私が急いでこれまた、田中の顔と机の間に滑り込み、クッション代わりになるので田中は無傷で済む。私は結構痛いが?
ほかにも数々の苦難に見舞われる。
だから重要で、精霊界でも指折りで有能な私にしか務まらないのだ。
酒を飲んでいない時はまだいい。ただ酒を一口飲めば、この仕事の難易度は跳ね上がる。
だからといって飲ませなければ執筆が捗らず、原稿が遅れて、それもまた私の責任になる。頭を抱えるほかない。腹も立ってくる。
そんな苦悩を他所に、田中は空になったグラスにまた酒を注ぐ。とぷんとぷんと空気をふんだんに含ませながらグラスは酒で満ちていく。そしてまた酒を口にふくみ、キーボードを叩く。
パソコンの画面は文字で埋まっていく。
外がだんだんと暑くなり、湿度も増してきた。外では昆虫がけたたましく鳴いており、耳障りだ。風鈴も、夏になり冷房の風量も強くなったのでせわしなく鳴るようになった。
凛とした音に私はうっとりとしている。
田中は対極に涙を流すことが増えた。酒も増えた。
「ダメだ。もう書けない。」写真立てに縋りつく。私にはそうすることで何がしたいのかはよくわからなかった。そんなことをしているなら、少しでも仕事を進めろ、と。
この男はこれまでも度々、写真立に縋りつくが、夏になるにつれてその回数は増えている。
その写真立てには、田中と女、それと小さな子供、三人の人間が写った写真が飾られている。写真の中の田中は、今よりも幾分か肌の色もよく、髪も髭も整えられており、若々しく見えた。
笑顔も見たことのないくらい明るく、今の田中に使うのは似つかわしくないが、とてもかわいらしい笑顔だった。この男はこんなに無邪気に笑うのか。
それがどうしてこうなってしまったのか、その理由は私は知っていた。
仕事の前に渡された書類に記載されていたからだ。
四年前、ドライブをしていたところ、エンストしてしまったから車を路肩に車を止めた。
しっかりと発煙筒も炊いた。だがそれでも居眠り運転の車が突っ込んできた。
田中はロードサービスに電話をするために車を降りていたが、妻と子供は車の中。
子供は即死。
妻は病院に運ばれたのちに死亡。
居眠り運転の運転手も、救急搬送されたのちに、死亡。
淡々と記述してあったが、悲惨なことが起きていた。それが四年前の夏だ。だから夏になると感傷的になるのだ。
不意に田中は立ち上がる。椅子が軋み、木製の音を出す。
男は急用を思い出したように歩き出し、外へ出る。
どんよりとした空気の重さが、マンクスと田中を包んだ。手を振ると、指の間をぬるい風が通り抜ける。ニュースキャスターがここ最近では一番涼しいと言っていたがそれでもこの暑さだ。そんなに暑い中、どこへ行こうというのだろうか。
道路に出る。右へ曲がる。大通りに出た。
アスファルトはあまりに熱く、そのまま足を付けたら火傷してしまいそうだった。なので私は足を地面からほんの少し浮かせる。それでも輻射熱でじんわり暑かったが、直よりマシだ。
確か、猫型の機械は地面から三ミリほど浮いていたな、と思い出す。小説は苦手でも漫画なら有名どころは読んだことがある。その中のキャラがそんな設定だった。
私の場合は設定などではなく事実だが。ここは漫画の中でもなければ小説の中のはなしでもない。
関係のない話で暑さをごまかそうとしていたが、やはり暑いものは暑い。頭上からじりじりと照り付けてくる太陽には、いかに精霊といえどもなすすべがない。ただ一つ、救いなのは、私の毛が黒色ではないということだ。
もし私が黒毛だったら、間違いなく焦げ猫、いや焦げ精霊になっていた。
昔、病院へ派遣された時に、ボンベイという精霊に会ったことがあるが、彼のような黒毛の精霊はどうしているのだろう。
ダメだ、暑くて思考が回らない。舌を出して熱を逃がそうとする。だがこの暑い中での
散歩もそこの角で終わりだ。ものの五分ほどの長さだったが、無限に感じるほどの長さ。
砂利で舗装された道へ入り、公園の敷地内へ侵入する。
酒でおぼつかない足で何とかベンチへ辿り着く田中。背もたれに背を預け、足を放り出し、尻を前にせり出す。その姿勢では腰を悪くするだろう。直すべきかと思ったが、どうせ直したところですぐにこのだらしない姿勢に戻ることは目に見えていた。
私も田中の隣に座ろうとしたが、木製のベンチとはいえ、かなり熱を持っていたので、ベンチの下、陰になっている所へもぐりこむことにした。ベンチの足と板を使って蜘蛛が巣を作っていた。
野良猫ならそのままパクリといってしまうのか。分からないが私が精霊で良かったな、
と話しかける。返事は当然、なかった。八つの無機質な赤い目で、私を見るばかりだ。
なんだか蜘蛛が自分の縄張りを主張しているようで、腹が立った。ここは私の場所だ。
すらっとした誰かの足が近づいてきて、田中の隣に座った。三人掛けのベンチの両端に一人ずつ座っている。きっと田中も「自分の場所だ」と思ったに違いない。
田中はその誰かに配慮して足を畳み、姿勢を良くした。
ベンチの下からだったのでその人間の顔は分からなかったが、話しかけた声で男と分かった。
「今日も暑いですね。」低く落ち着いた声だった。ラジオのパーソナリティのようだ。声だけで気温が下がったようにも感じた。
「あ、え、そうですね、暑いです。」酔っ払っている上に、いきなり話しかけられて、さらに人とは話すことなど滅多にないという三要素は田中の言葉を拙くさせた。
前方では子供たちがこの猛暑をものともせずにボール遊びや、遊具で遊んでいる。
「こんな日でも子供は元気ですね。」
「ん、そ、そうですね。」長い前髪から滴る汗が落ちた。いや、これは冷や汗かもしれない。この状況は挙動不審な男が児童を観察しているように見えなくもない。
「それに比べ私は暑さにやられて、休憩してるところなんですよ。」ははは、と男が笑った。仕事の帰りで、帰る前に少し休憩です。
と続けた。
「あ、そうなんですか。何のお仕事されてるんですか?」慣れてきたのか、だんだんと言葉が出るようになってきたようだ。
「営業のようなものですよ。あなたは?何をされている方です?」
「いや、少し。」いやお前はイヤスコシではなくて作家だろう、と突っ込みたくなったところで、「小説を書いて、生活してます。」と言った。
男は目を開いて、「そうなのですか!」と少し驚いたような素振り。
「なんというお名前で?」
「あ、け、絢爛という名前で。」
「そうなのですね。正直に言いますと存じ上げませんでした。私、昔の小説を読むことが多くて、今の作家さんに疎いんですよ。」
「いえ、僕なんて、そんな、無名ですから。」
「新刊が出た際には必ず、読ませていただきます。」
「そんなわざわざ、でも、嬉しいです。」声は嬉しそうになかった。
この男に対して、というよりかは、自分自身に対してだろう。大方、新刊が出せるか不安なのだろう。
「ちなみに、ジャンルはどんなものを?」
「その時、書きたいものを、とりとめもなく。SF、サスペンス、ファンタジー。でも、恋愛モノとミステリーはカイト事がないんです。」
遠くからゴムボールが飛んでくる。田中と男の前まで転がってきた。それを追いかけて小学校高学年くらいの男の子が走ってくる。
「そういえば、」田中の方から口を開いた。
「この公園、ボール遊びが禁止されていない珍しい公園なんですよ。」
「へぇ。」
ボールを追ってきた子供が大きな声で「おじさん、ボール取ってえ!」とこちらへ呼びかける。「おじさん」はどちらを指しているのだろう。「もうおじさん、か。俺は。」
田中がボールを手に取り、投げようとする。が、上手く投げられずにボールが手から零れ落ちる。草の上にボールは落ちた。
酒で力が入らなかったのか、私は気になり、ベンチの下から頭を出そうとした。
その時、上から水滴が落ちてきた。間一髪で躱す。水分はまずい。
田中の汗が落ちてきたのかと思ったが違う。
汗ではなく涙だった。
急に泣いている。アルコールの所為で感情を制御できなくなってるのか。膝に手をついて、大粒の涙を流していた。
直径一センチの水たまりが次々と出来上がるものだから再度ベンチの下に身を隠す。
「どうしたんですか、大丈夫ですか。」男が肩に手を置き、心配の色を浮かべる。
「おじさん、体調悪いの。」子供も涙を流す田中を案じた。
「いや平気だ、平気です。」声も震えていた。
片手を膝から離し、地面にあるボールを拾い上げる。
「これ、はい。」涙声でボールを渡されて男の子もどうしたらよいか分からないといった具合だったが、とりあえず感謝をしておくのが安牌だと思ったようで「ありがとう」とだけ言った。そうしてそそくさと男の子は去ったが、男はまだ隣にいた。
なぜいきなり泣き始めたのだろう。
酒のせいか?
私は今までに就いた仕事を思い出していた。
その数多の職場で学んだことは、人間はあまりに脆く弱いということだ。精神面も、肉体面もだ。
少し疲れれば眠り、少し暑ければ倒れて、少し病にかかれば死んでしまう。
寿命も短いというのにその大半は労働か睡眠に消費している。田中は比較すればまだ自由な時間は多いと思っていたが、それでも労働というのは少しづつ心を蝕んでいたか?
いや、違うな。
子供を見て泣いたのか。
それも、少し違いそうだ。
あぁ、納得した。
子供にボールを投げようとして泣いたのだ。
田中の過去を思い出す。
もう子供とキャッチボールはできない。
そう思って泣いたのだ。
上で田中がベンチに座りったのだろう。
軋む音と、少しの地面の揺れがあった。
「少し、昔のことを思い出しただけですから。」
ハンカチを取り出し、涙を拭う。ハンカチには花の刺繍。白い菊のような花だ。黒のハンカチに白の刺繍はよく映えた。
男は宙を見て、「そうなんですか。」とだけ言った。
しかし田中は据わった目で男を見て言う。
何かの決心がついたような顔だった。
「さっき、どんなものを書くのか、と聞いてきたじゃないですか。」
「他人の人生も道連れにして全部をぶっ壊すような小説を書きたいんですよ。」
乱暴にベンチを立ち上がり。たどたどしい足取りで歩き始めた。
去り際、私は男の顔をちらりと見たが、先ほどまでの穏やかさとは似つかわしくない、鋭い目をしていた。
田中の呼吸がおかしかった。ふうふうといった泣き虫が必死に泣くのを堪えているような、感情の湿度を含ませた息を吐きながら帰路を辿った。
家に入るなり、玄関に靴と靴下を脱ぎ捨て、書斎に駆けこむ。雑に机の上にあるぬるい茶色の液体が入ったボトルを掴み、ふたを開ける。
部屋に落ちているグラスも拾い、そこに向かってボトルを逆さにするようにして注ぐ。
グラスを半回転させてから鷲掴みにして一気に流し込む。何度も、何度も。
液体は喉を通過し、細い目が少しだけ見開かれる。
目が虚ろになり、言葉が勝手に口から出ていくように一人で喋る。
「俺は、ああなれる権利があったハズだ」
「なぁ玲花、将太、いるんだろ?早く、帰って来てくれよ」
「死んでないよな、生きてるよな、あ?死んだのは俺で二人が生きてるのかもしれないな?それならどれだけよかっただろうな。はは、ミステリーのどんでん返しならよかったな。いや主人公が実はもう死んでるってのは使い古された手法か。そもそも俺、ミステリー苦手だし。」
「そういえば、あれ、思い出せない。今までどうやって生きてきたっけ。気が付いたら、今、ここにいるな。はは。」
田中の目はさらに虚無に包まれる。
喋らなくなり、ベットに倒れこむ直前に、「あれ?猫?」と言った。
夢を見た。
「すごいじゃない。作文で賞取っただなんて。」母の声だ。賞状を握る自分の手がひどく小さい。
目の前にはみんなの前で表彰された賞状がある。
大した賞じゃなかった。せいぜい学年で優秀だっただけで、地区だとか、県での賞なわけでもない。でも嬉しかった。勉強はそこそこできたが、一番ではない。運動も人並みで、
いや、人より劣っていたな。だからこの一番がとても嬉しかった。僕が文章を書き始めたのはあれからだった。お話を書くたびに母に見せに行った。父はいなくて、苦労していたのだろうが、そんなものを子供には全く見せずにさっぱりとした純粋な笑顔で「すごい」と言ってくれた。あの笑顔を忘れることはできない。
もう十年になる。母が死んでから。
遥か前方で教授が何かを喋っている。テストもレポートもない授業だ。九十分席についていれば終わる。あれから、小学生の時、賞をもらってから僕は小説を書き続けていた。
書けなかったら死ぬ、止まることはできない、なんてことはない。趣味の範囲で誰にも見せることなく、ノートに書き連ねているだけだ。
一種の暇つぶしと思って気楽に書いている。
友人もいないし。
さて昨日の続きを、
「ねぇ。」
なんだ、紙から目をあげて、隣を見上げる。同じ学部の女だ。何回か見たことがある。
「隣、いいかな。」
いいですよ。
「何書いてるの?レポート?」
そうです。
「うそつき、レポートの書き方じゃないでしょ。大体まだ三回目の授業なのにそんなに何枚もあるレポートが出る訳ないじゃん。」机を引いて左に座る。
「何書いてるの?」
小説。くだらないよ。誰にも見せたことないし、自分で読み返すだけ。
「じゃあ読者一号になってあげるよ。」
だれが?
「私が。本読むのは好きだし。」
やだよ、名前も知らないような関係性の人に読まれるなんて。
「私の名前は三木玲花っていうの。」
なに?急に。変な人。
「名乗ったんだから読ませてよ。」
仕方ないな。
粗雑な字で書かれた小説を彼女の前に差し出す。
外に群生している薊が風になびく。
それを冷えている室内から見る。今は夏だから暑いだろうと病院側が冷房を効かせてくれているのだろう。
頬がやけにくすぐったかった。指で掻こうとすると肌が滑った。僕はこの室内で汗をかいているのか?いや違う。この液体は両目から流れている。気が付くまでに時間がかかった。何故涙を流している?それはもちろん悲しいからだ。遠くで蝉の声が聞こえる。近くで君の声がする。
ただ何と言っているかは思い出せない。思い出せない?聞き取れないではなく?
必死に玲花の口に耳を近づける。
玲花は何とか言葉を紡ごうと大きく息を吸っている。その行為が見ていられなかった。
普通の呼吸音では到底でないような風切り音が妻の口から出ていく。近くで見る君の肌はとても白く、儚げで、出会ったばかりのあの褐色と同じ肌とは思えなかった。本当に、死を連想させるような佇まい。
なんだ、なにが「最後に、」だよ、待てよ。
ダメだ、死ぬな、僕を、置いて、行くな。
あぁ!起き上がったと同時に壁を殴る。穴が開く。すべてが憎い。
パソコンの前へ行き、キーボードに手をかける。爪を立ててキーを剥がす。力のままに、怒りのままに、後悔のままに、無力感のままに。
今までの心に溜まっていた泥をすべてぶちまけるように。
酒がまだ半分入っているグラスをぶん投げる。投げた先は本棚で、グラスの当たった衝撃で本がバサバサと落ちた。本はウイスキーを吸って浅黒く変色していた。
そんなものでは全く足りない。照明を、酒瓶を、猫の置物を、マウスを、壊れたキーボードを、投げる。
物が壊れる音がした。のちに、部屋は静かになった。
俺の息づかいと風鈴の音だけが聞こえる。
もう決めた。行くべきところがある。ぬるいウイスキーを手荒につかみ、俺は家を飛び出した。
『ジャックダニエル』の文字が前後に揺れる。中では酒が波打っていて音を立てている。
きっとあの水面に船が浮かんでいたら難破沈没は確実だろうなと思った。
田中は車を持っていない。だから日が落ちたとはいえ熱気の残る夏の路面を歩くことになっている。もっともこんな状態では運転しようものならたちまち粗野な運転により警察に目をつけられて逮捕されて何らかの罰を受ける。もちろん私も上級精霊から何らかの罰を受ける。
ある意味で私たちは運命共同体なのか。
なら、この酒もない方がいいな。
日没とはいえ、現代日本で酒瓶片手に街を徘徊する中年男性は、法には抵触しないとは思われるものの、なんだかよくない気がした。
まじてや、どこか店に行くというのなら、万引きを疑われてしまう。そもそもこんなに酒を飲んで健康にいいはずがない。
歩いている田中の腕に飛びつき、ウイスキーの瓶を持っている手に思いきりパンチする。
田中は「痛っ」と怯んで、瓶を落とした。
狙いどおりに地面と激突し瓶は粉々に割れる。中からはアルコールの液体が流れだし、匂いを嗅いだ私は少しふらついてしまった。
田中は割れた破片を数秒、じっと見ていた。
そしてそれを片す素振りも見せずそのまま歩き始めた。うつむき、ほとんど泣いているような泣き笑いを浮かべながら道を進む。
この気温だというのに汗一つかいていないところが不気味だった。
すいすいと道を進んで行くので気を抜いたら置いて行かれてしまいそうだった。
十五分ほど歩いた。前方にとても大きく、角張った白色の建物が見える。
ネズミのような名前のホームセンターだ。
そういえばあの猫型ロボットはネズミが嫌いで見ようものなら腹にあるポケットから次々と奇怪な道具を出してネズミを排除しようとしていたな、と漫画のページをなぞるように振り返る。
ホームセンターの前まで来た。
入口のセンサーが田中に反応して滑らかに自動ドアが左右に開き、来客を迎え入れる。
中の空気はねっとりとした気温とは別の国の空気のようで鋭い冷気が私の毛の一本一本を通り抜けていく。
とても心地よいが、この涼しさに慣れてしまっては帰りが余計に酷になってしまうなと、どこか罪悪感。
店を入り、すぐ右へ。迷うことなく酒類のコーナーへ行き、先ほど私が田中の手から落としたものと同じウイスキーを手に取る。
今の田中ならそのまま瓶の封を開けて口をつけて飲んでしまいそうな勢いがあったが、
流石にそれはしないようだ。ふと田中の表情を伺う。私は口を固く横に結び、気を引き締める。
いつのまにか田中の顔からは笑みが消えていた。
ウイスキーを手にした田中は、買い物かごに入れようとはせずに、ここまで向かってくるまでのように、ネックの部分をもって次の目的の場所まで歩みを進めた。レジへ向かわないところを見るに、酒だけを買うつもりではないようだ。
ホームセンター内を端から端まで横断するように田中は移動している。工具か材木売り場に用があるのだろうか。
相変わらずこの男は表情で心が読めない。
ふと右をみると、ペット用品のコーナーだ。
「あ」と私は足を止めた。止めてしまった。
キャットタワーがある。うちの本部をそのまま小さくしたような形。私は一度、あのキャットタワーの頂点に座ってみたかったのだ。
少しだけなら大丈夫だと思い、段になっている足場をリズム良く駆け上り、あっという間に頂上まで上りつめる。
元々が高い棚に展示されていたのでその上となるとかなりの高さになっていた。上空から田中の頭が見える。
そこから見える、もはや景色ともいえる視界は素晴らしいものだった。思わず座り込んで、ホームセンターを見渡す。買い物をしている人間達を見下ろすのはとても気分がよかった。
私が配属される仕事はどれも忙しい物ばかりだった。それに比べて田中の付き添いは田中の付き添いをしてから随分と平和な日々が続いていた。この仕事も無事にこなして、のし上がって、昇進して、上級精霊になって、こんな風にずっと高いところに座って見ているだけの仕事がやりたい。
部下の精霊達にあれこれ指図して自分は座っているだけなのだから気分がいい。
そういえば、ここホームセンター担当の精霊がいるはずなのだが、どこにいるのだろう。もし私がここの担当ならキャットタワーに鎮座するのだが。まぁ私がここに座っていたところで何か言われることもないだろうが、どうしても気になってしまう。
ホームセンターは外にも植物やら肥料やら大きな板材などが置いてあるから、そっちの様子を見に行ってるのかもしれない。
折角来たからこのキャットタワーの素晴らしさについて言葉を交わしたかった。
そんなことはどうでもいい。何か肝心なことを忘れている気がする。
あ、田中。間の抜けた声を出す。
キャットタワーからほとんど落ちるようにして降りる。どこにいった?
しまった。探すなら高所からの方がよかった。方向ならわかる。奥の方へ行った。問題はそこではない。どれくらい考え込んでいた?すでに田中はここから出て行ってしまった可能性もある。本当にまずい。
精霊だって、私だって悪寒は走る。
鼻から疲労の溜まった息が抜ける。キャンプ用品コーナーから工具売り場まで、すべて見回したがどこにもいなかった。迂闊だった。
外を探したときにここの管轄の精霊に会った。花が好きなのか、暑いというのにじっと花を眺めていた。
こちらはトラブルが起きたというのに、呑気に花なんかに見とれやがって。くそ。
ここにはもういないのだろうか、とりあえず自宅へ向かう。
急いで、という言葉が生ぬるいほど、光陰矢の如く、田中を追う。
私を包み込む熱気さえ、スピードで振りほどく。
二分もかからずに家に着いた。帰路上には田中の姿はなかったので自宅にいると信じたい。もし寄り道していたのなら詰みだ。
面倒なことは頼むからやめてほしい。
はは。正直なところ。ずっと嫌いだったんだ。のうのうと生きている自分が。子供も死に、妻も死んだ。なんで俺は生きてる。ずっと空っぽだった。妻と子が死んで思ったことは、この先どうやって生きていけばいいのか、だった。心境という意味じゃない。方法という意味だ。どうやって一人で寝て、どうやって飯を食い、どうやって小説を書けばいいのか、その方法をすべて忘れてしまったかのように全てが上手くできない。
よく人生を長い旅に例えるが、俺の場合は途中からはトンネルだった。暗い、長い、先の見えないトンネル。そこを懐中電灯無しで歩く。先の見えない中、いつ終わりが来るとも分からない。だからと言って止まることはできなかった。勝手に時間は進んでいく。引き返すことなんてできない。
周りはどんどん幸せになっていく。子供が生まれ、第二子が生まれ、自分だけは一人だ。
け自分だけ大きなペナルティを食らった。周りに大幅に遅れを取った。
進んで行くのが嫌で、引きこもって、結局縋りつくのは君たちの写真と、唯一の取り柄の小説だけだ。なにも成長していない。なにもできていない。なにも、ない。
だからといって変わる気もなかった。
それももう今日で終わりだ。やっと決心がついた。
自死というのは小説家としては華々しい散り方だろうか。いや、こんな俺に散り方もクソもないか。
だめだな、もう死ぬと決めたのにどうしても考えてしまう。
また変なことを思い出す前に死のう。
先ほど買ってきたトラロープを鴨井に括り付ける。何度も調べたことだ。器用に素早くできた。
リビングから椅子を持ってくる。そういえばこの椅子は妻が実家から持ってきた物だ。
いや、余計なことを考えるなって。死ぬんだろ?これから。
最後にウイスキーを口いっぱいに含み、流し込む。酒だってもともと好きじゃなかったんだ。
椅子の上に立つ。ロープに首を通す。未練はない。あるはずもない。
力を入れて椅子を蹴り飛ばす。
落下の空気を感じた。
私は息を吐き出す。「やばい」でもなく「間に合わなかった」でもない。「仕方ないな。」だった。
ずっと前からこいつは死のうとしていたことは分かっていた。資料の備考欄に「自殺の恐れあり。注意されたし」とも書いてあった。
私が見たのはロープを結び付けていたところからだ。ぶつぶつ言っているのは、まるで死にたくないのに死ぬ理由を見つけたくて足掻いているようだった。
ただ一つ想定外だったことは、そのまま椅子に立ち、椅子を蹴ったことだ。まさか実行するとは思ってなかった。
流石にこの私も少し焦ったが、体が落下し、その自重で首が締まるまでに助けることなど、朝飯前。
しかし、助けるにしてもこの暑いなか、走らされた怨みはある。他にも助ける手段はあったが、あえて荒々しい手段を選んだ。
壁を背にして、後ろに反転しながら飛びのく。足を壁にしっかり着けて、そのまま壁を蹴り飛ばすようにして田中に飛びつく。
そしてそのまま田中の右頬を思いきり殴りつける。その衝撃で首からロープがスポっと抜けて田中は肩から床に激突する。
振動で机の上に立ててあった写真立てが田中の前に差し出されるように、転げ落ちた。
田中はその写真立を掴み、妻と子の頭を指で撫でる。
「なんだよ、まだ死ぬなっていうのかよ。」
吐き捨てるように、涙声で言った。
なんとも偶然があるものだな、と思っていた。
私が驚いたのはそのあとだ。
風もなかった。エアコンもついていない。部屋の窓もドアも締め切っていた。
それなのになぜか、風鈴が涼しげに、見守るように、チリンと静かに鳴った。
「わかったよ、しょうがないなぁ。」もう少しだけ、生きてみるよ。
田中の目にはいつの間にか小さな明りが灯っていた。
「まさか、な。」私は思わずそう言ってしまった。
田中は体を痛そうにしながらも立ち上がり、パソコンの電源をつけた。
風鈴が独りでになることはもうなかった。




