第9話「生まれた場所」
42紙
第九話 生まれた場所
人は、生まれる場所を選べない。
どこの国に生まれるのか。
どんな家に生まれるのか。
どんな両親のもとに生まれるのか。
裕福な家なのか、貧しい家なのか。
健康な身体を持って生まれるのか。
病気を抱えて生まれるのか。
頭が良いのか。
運動が得意なのか。
人付き合いが上手なのか。
何も知らない赤ん坊に、そんなことを選ぶことはできない。
ただ、生まれる。
そして、生まれた場所から人生が始まる。
それなのに、人はときどき言う。
「努力すれば報われる」
「頑張れば夢は叶う」
「人生は自分次第だ」
もちろん、それが嘘だとは思わない。
努力で変えられるものもある。
頑張ったからこそ手に入るものもある。
けれど――
努力するための環境さえ、最初から平等ではない。
同じ十キロの道を走るとしても、最初から車を持っている人と、裸足で走り始める人では違う。
同じ学校に通いたくても、家にお金がなければ通えない。
同じ夢を持っていても、その夢を追いかける余裕がない人もいる。
人生は、最初から公平ではない。
そのことを、小林誠は子どもの頃から知っていた。
誠の家は、古いアパートの一階だった。
壁は薄く、冬になると隙間風が入った。
雨の日には、窓の近くから冷たい空気が流れてくる。
友達の家に遊びに行くと、驚くことがあった。
自分の家よりずっと広い。
テレビも大きい。
冷蔵庫には、自分の家では見たことのない食べ物が入っている。
小学生の頃、友達の高橋が言った。
「誠、これ食べる?」
差し出されたのは、少し高そうなお菓子だった。
「いいの?」
「うん。いっぱいあるから」
誠は一つもらった。
甘かった。
それだけのことだった。
でも、そのとき子どもながらに思った。
――家によって、こんなに違うんだ。
高橋は勉強もできた。
中学に入ると、塾にも通い始めた。
誠は塾には行けなかった。
学校が終わると、家の手伝いをした。
高校へ進む頃になると、家計のことを考えて働くようになった。
友達が制服を着て学校へ向かう時間。
誠は仕事へ向かった。
「仕方ない」
何度も自分にそう言い聞かせた。
羨ましいと思ったこともある。
悔しいと思ったこともある。
それでも、誰かを恨み続けることはできなかった。
高橋が悪いわけではない。
裕福な家に生まれたことも、勉強ができることも、高橋自身が選んだわけではない。
そして誠自身も、貧しい家に生まれることを選んだわけではなかった。
それだけだった。
大人になった誠は、普通に働いた。
大きな成功をしたわけではない。
会社を経営したわけでもない。
有名になったわけでもない。
ただ、毎日働いて、生活して、少しずつ歳を取った。
そして、妻と出会った。
初めて会ったとき、誠は自分に自信がなかった。
金もなかった。
立派な仕事をしていたわけでもなかった。
それでも妻は、そんなことを気にしなかった。
二人が暮らし始めた部屋は狭かった。
テーブルも小さかった。
二人で並んで座ると、それだけでいっぱいになる。
ある夜、妻が言った。
「いつか、もう少し広いところに住めたらいいね」
誠は笑った。
「うん」
「でも、今の部屋も嫌いじゃないけどね」
「俺も」
二人で笑った。
それだけだった。
特別なことなんて何もなかった。
けれど、誠にとっては幸せだった。
仕事から帰ると、妻がいる。
「おかえり」
「ただいま」
それだけの会話をする。
疲れていれば、二人ともあまり話さない。
テレビを見ながら夕飯を食べる。
休みの日には、近所のスーパーまで一緒に歩く。
安いものを探して、
「こっちのほうが十円安いよ」
などと言いながら買い物をする。
そんな生活だった。
やがて、子どもが生まれた。
その日は、二人とも泣いた。
嬉しかった。
怖くもあった。
自分にちゃんと育てられるのだろうか。
お金は足りるだろうか。
そんな不安もあった。
それでも、妻と二人で子どもの小さな手を見つめていた。
「小さいね」
妻が言った。
「うん」
「ちゃんと大きくなるのかな」
「なるよ」
誠はそう答えた。
根拠なんてなかった。
でも、そう言いたかった。
子どもが少し大きくなると、誠は仕事帰りに小さな土産を買って帰るようになった。
お菓子だったり、文房具だったり。
高価なものは買えなかった。
それでも子どもは喜んだ。
「お父さん、ありがとう!」
その言葉を聞くたびに、疲れが少しだけ消えた。
妻との喧嘩もあった。
くだらないことで言い合ったこともある。
仕事のことで余裕がなくなり、妻にきつく言ってしまったこともあった。
そんな夜は、二人とも黙っていた。
しばらくして、妻が小さな声で言う。
「……ごめんね」
誠も答える。
「……俺も」
そして、次の日には普通に朝ご飯を食べた。
完璧な夫婦ではなかった。
完璧な家族でもなかった。
でも、二人で生活していた。
笑ったり。
怒ったり。
泣いたり。
また笑ったり。
その繰り返しだった。
歳を重ねるにつれ、誠の人生は静かになっていった。
子どもは大人になり、家を出た。
妻と二人だけの生活に戻った。
若い頃より会話は減った。
それでも、夕飯を食べる時間は一緒だった。
ある冬の夜。
妻が湯飲みを二つ並べながら言った。
「昔より、二人でいる時間が増えたね」
誠は笑った。
「子どもがいなくなったからな」
「ちょっと寂しいけどね」
「うん」
少し沈黙してから、妻が言った。
「でも……こういうのも悪くないね」
「そうだな」
誠は妻を見た。
若い頃とは違う顔だった。
白髪も増えていた。
皺も増えた。
自分も同じだった。
それでも――
この人と一緒に歳を取ってきた。
そう思った。
それが、妙に嬉しかった。
その数年後。
妻が先に亡くなった。
病気だった。
最後の時間は、長くはなかった。
病室で妻の手を握りながら、誠は何度も言った。
「ありがとう」
何に対しての「ありがとう」なのか、自分でも分からなかった。
結婚してくれたこと。
一緒に暮らしてくれたこと。
子どもを産んでくれたこと。
喧嘩してくれたこと。
笑ってくれたこと。
一緒に歳を取ってくれたこと。
全部だった。
妻は、弱々しく笑った。
「……こちらこそ」
それが最後の会話になった。
妻がいなくなってから、家は急に広くなった。
食卓の椅子が一つ空いている。
二人分だった食器が、一人分になった。
「ただいま」と言っても、
「おかえり」と返ってこない。
それが、何より寂しかった。
誠はその後も生きた。
子どもから電話が来れば話した。
孫ができれば、会いに行った。
妻がいなくなった寂しさは消えなかった。
それでも、人生は続いていった。
六十二歳の冬。
その朝も、特別な朝ではなかった。
窓の外は曇っていた。
誠は一人で朝食を食べた。
テレビからニュースの声が聞こえている。
味噌汁を一口飲んだ。
そして――
突然、頭に激しい痛みを感じた。
「……え?」
箸を置く。
「なんだ……これ……」
痛みが強くなる。
立ち上がろうとした。
けれど、身体に力が入らなかった。
「……頭が……痛い……」
床に手をつく。
視界がぼやける。
テレビの音が遠くなっていく。
誠は、最後に思った。
――今日は、寒いな。
そして、その意識は静かに途切れた。
気がつくと、白い場所に立っていた。
「……ここは?」
目の前に、一人の男がいた。
コンビニの袋を持っている。
「どーも」
誠は眉をひそめた。
「……誰だ?」
男は軽く頭を下げた。
「42紙です」
「……は?」
「えぇ、死神です」
また、それか。
誠は呆れた。
「死神……?」
「はい」
「もっとこう……鎌とか持ってないのか?」
「持ってません」
「骸骨とか」
「普通の人間です」
「……随分、普通だな」
「よく言われます」
42紙は笑った。
そして、いつものように二枚の紙を差し出した。
白い紙だった。
何も書かれていない。
「一枚は4」
「もう一枚は2」
「4なら、幸福な死」
「2なら、不幸な死」
誠は二枚を見つめた。
「どっちが4なんだ?」
「分かりません」
「お前にも?」
「俺にも分かりません」
「……そんな馬鹿な」
「そう言われても困ります」
誠はしばらく黙っていた。
やがて、ふと思い出したように聞いた。
「神様は?」
42紙は答えた。
「いません」
「天国は?」
「ありません」
「地獄は?」
「ありません」
「生まれ変わりは?」
「ありません」
誠は目を伏せた。
「……やっぱり、そうか」
「何か思うところがあります?」
「いや……」
誠は少し笑った。
「人間って、よく神様なんて作ったよな」
42紙は黙っている。
「人生が不公平すぎるからだろ」
誠は続けた。
「生まれる場所も選べない」
「親も選べない」
「金持ちに生まれる奴もいれば、貧しい家に生まれる奴もいる」
「頭のいい奴もいれば、そうじゃない奴もいる」
「健康な奴もいれば、病気になる奴もいる」
「……なのに、死ぬときだけは平等だなんて言われてもな」
42紙は静かに聞いていた。
「だから人間は、神様を作ったんじゃないか?」
「いつか誰かが公平にしてくれるって」
「悪いことをした人間には罰があって、頑張った人間には報いがあるって」
「そう思わないと……やってられなかったんだろうな」
42紙が小さく笑った。
「人間は、理由が欲しいんですよ」
「理由?」
「どうして自分だけ苦しいのか」
「どうしてあの人は幸せなのか」
「どうして大切な人が死んだのか」
「どうして生まれてきたのか」
「分からないことが多すぎるから」
誠は二枚の紙を見た。
「……神様はいないんだよな」
「はい」
「じゃあ、本当に不公平なままなんだな」
「そうですね」
「……そうか」
誠は苦笑した。
「最後まで、世の中は変わらないか」
42紙は答えなかった。
誠は、二枚のうち一枚を選んだ。
指先で紙をつまむ。
そして――
開いた。
そこにあった数字は、
4
だった。
「……4か」
42紙が言った。
「そうですね」
誠は、なぜか笑った。
「幸福な死……か」
その瞬間だった。
景色が変わった。
気がつくと、誠は自分の家にいた。
妻がいる。
まだ若い。
髪も黒い。
台所に立っている。
「おかえり」
その声を聞いた瞬間、
誠の目から涙がこぼれた。
「……ただいま」
自分でも驚くほど自然に言葉が出た。
テーブルには、二人分の食事が並んでいる。
「今日、遅かったね」
「うん。仕事が長引いてさ」
「疲れた?」
「ちょっと」
妻が笑った。
「じゃあ、早く食べよう」
「うん」
それだけだった。
けれど――
誠には、それがたまらなく嬉しかった。
場面が変わる。
二人がまだ若かった頃。
狭い部屋。
小さなテーブル。
二人で食べる安い夕飯。
妻が笑っている。
次の場面。
二人でスーパーに行く。
「こっちのほうが十円安いよ」
「じゃあ、そっちにするか」
「節約しないとね」
「いつか大きい家に住もう」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、頑張らないとね」
二人で笑う。
次の場面。
子どもが生まれた日。
妻と二人で、小さな手を見つめている。
次の場面。
子どもが歩いた日。
「お父さん!」
そう呼ばれて、誠が笑っている。
次の場面。
仕事帰りに買った小さなお菓子。
「お父さん、ありがとう!」
嬉しそうな子どもの顔。
次の場面。
雨の日。
傘を一本しか持っていなくて、二人で肩を寄せながら歩いている。
「濡れてるよ」
「お前もな」
「ふふっ」
次の場面。
休日の朝。
妻が眠そうな顔で、
「もう少し寝ようよ」
と言っている。
「遅くなるぞ」
「今日は休みでしょ」
「あ……そうだった」
二人で笑う。
次の場面。
子どもが大人になり、家を出ていった夜。
二人きりになった食卓。
妻が少し寂しそうに笑っている。
「静かになったね」
「うん」
「ちょっと寂しいね」
「……まあな」
それでも二人は、いつものように夕飯を食べた。
次の場面。
年を取った二人が、同じ食卓に座っている。
会話は少ない。
でも、そこにいる。
ただ、それだけ。
次の場面。
病室。
妻の手を握っている。
最後の時間。
「ありがとう」
「……こちらこそ」
誠の目から涙がこぼれた。
「……そうだったな」
人生には、苦しいことがたくさんあった。
貧しかった。
悔しいこともあった。
諦めたこともあった。
叶わなかったこともあった。
もっと違う人生だったらと思ったこともある。
もっと金があったら。
もっと頭が良かったら。
もっと才能があったら。
もっと恵まれた家に生まれていたら。
何度も思った。
それでも――
妻と出会った。
一緒に暮らした。
子どもが生まれた。
笑った。
喧嘩した。
仲直りした。
一緒に歳を取った。
そして、最後まで愛していた。
誠は思った。
人生は、不公平だった。
たぶん、最後まで不公平だった。
でも――
全部が不幸だったわけじゃない。
そう思った瞬間、
目の前に妻がいた。
若い頃の妻だった。
「遅いよ」
妻が笑った。
誠も笑った。
「……ごめん」
「ずっと待ってたんだから」
「……そうだったな」
妻が手を差し出した。
誠は、その手を握った。
温かかった。
懐かしかった。
安心した。
「……もう一度、会いたかった」
「うん」
「もっと話したかった」
「うん」
「もっと一緒にいたかった」
妻は笑った。
「私も」
二人で歩いた。
どこへ行くのかは分からない。
天国なのか。
どこか別の場所なのか。
そんなことは、誠には分からなかった。
そもそも、そんな場所があるのかさえ分からない。
ただ――
怖くなかった。
誠は妻の手を握ったまま、静かに言った。
「俺さ……」
「うん?」
「人生、もっと違うものだと思ってた」
「……うん」
「もっと金があって、もっと恵まれて、もっと何かを持ってたら……幸せになれると思ってた」
妻は黙って聞いている。
「でも、違ったな」
「何が?」
誠は少し笑った。
「お前と飯食ってた時間とか」
「くだらないことで喧嘩したこととか」
「一緒に買い物したこととか」
「子どもが笑ったこととか」
「そういうのが……一番残ってる」
妻は優しく笑った。
「そういうものだよ」
「……そうなのかな」
「うん」
誠は、妻の手を強く握った。
「……幸せだったな」
妻が笑った。
「うん」
誠は目を閉じた。
最後に感じたのは、
温かさだった。
そして――
もう一度だけ、
妻の声が聞こえた気がした。
「おかえり」
誠は笑った。
「……ただいま」
42紙は、一人で白い場所に立っていた。
「……幸福な死、か」
少し考えてから、呟く。
「でも……」
42紙は二枚の紙を見る。
「4を引いた理由は、俺にも分からないんですよね」
そこに答えはなかった。
誠が善人だったからでもない。
苦労したからでもない。
妻を愛したからでもない。
努力したからでもない。
4と2は、人間の善悪を決めるものではない。
ただ――
誠が最後に感じたものは、
確かな幸福だった。
42紙は、小さく笑った。
「……いい人生だったんじゃないですかね」
数日後。
神谷透は、夜の街を歩いていた。
人の姿はほとんどない。
店の明かりも消えている。
静かな街だった。
小さな家の窓から、明かりが漏れている。
その向こうには、誰かの生活がある。
眠っている人。
明日の仕事を考えている人。
誰かを待っている人。
誰かと喧嘩したまま眠れない人。
そして、明日の朝を待っている人。
特別なことなんて何もない。
それでも――
みんな、それぞれの人生を生きている。
透は歩きながら、今日聞いた誠の言葉を思い出していた。
人生は、不公平だった。
生まれる場所も選べない。
親も選べない。
才能も選べない。
どれだけ努力しても、叶わないことがある。
どれだけ善く生きても、報われないことがある。
神様はいない。
だから、誰かが公平にしてくれるわけでもない。
それでも――
人は誰かを愛する。
誰かを大切にする。
誰かと笑う。
誰かのために生きる。
その瞬間だけは、
自分で選ぶことができる。
透は、夜空を見上げた。
星がいくつか見えていた。
神様がいるようには見えなかった。
それでも、綺麗だった。
透は、また歩き出した。
神様はいない。
人生は公平でもない。
生まれる場所さえ、選べない。
それでも――
人は今日も、
与えられた場所から、
自分の人生を歩いていく。
その歩き方だけは、
自分で選べるのかもしれない。
夜の街に、透の足音だけが静かに響いていた。
――第九話・完――




