第10話「天国と地獄」
42紙
第十話 天国と地獄
天国は、どこにあるのだろう。
地獄は、どこにあるのだろう。
昔から人間は、死んだあとの世界を想像してきた。
善いことをすれば天国へ行ける。
悪いことをすれば地獄へ落ちる。
死んだ人は、どこかへ行く。
生まれ変わって、また別の人生を生きる。
そんな話を、人間は何千年も信じてきた。
けれど。
この世界に、天国はない。
地獄もない。
生まれ変わりもない。
そして――神もいない。
少なくとも、42紙はそう言っていた。
では。
人間が「天国」や「地獄」と呼んでいたものは、いったい何だったのだろう。
* * *
神谷透は、駅前の宝くじ売り場の前で立ち止まった。
大きな看板に、
「一等・五億円!」
と書かれている。
その前では、数人の人間が宝くじを買っていた。
「当たったら、人生変わるよな」
隣にいた男が笑った。
「五億だぞ。仕事なんか辞めるよ」
「俺なら家買う」
「俺なら海外行く」
そんな会話を聞きながら、透は思った。
もし、本当に五億円が当たったら。
その人にとって、その瞬間はきっと――
天国なのだろう。
けれど。
同じ街のどこかでは、今日、仕事を失う人間もいる。
大切な人と別れる人間もいる。
病院で悪い結果を聞く人間もいる。
借金を抱える人間もいる。
逆に。
今日、子どもが生まれる人もいる。
長年好きだった人に告白する人もいる。
夢だった仕事に就ける人もいる。
同じ朝。
同じ昼。
同じ夜。
同じ街で。
人によって、天国と地獄が同時に存在している。
透は歩き出した。
「……天国って、そういうことなのかな」
独り言のように呟いた。
* * *
その日の夕方。
透は駅のホームで、一人の男を見かけた。
四十代くらいだった。
電話を切ったあと、男はしばらく動かなかった。
そして、小さく呟いた。
「……クビ、か」
その声は、周囲の雑音に消えそうなくらい小さかった。
男はベンチに座った。
両手で顔を覆う。
「どうすりゃいいんだよ……」
家族がいるのかもしれない。
住宅ローンがあるのかもしれない。
明日からの生活を考えているのかもしれない。
透は声をかけようとして――やめた。
何を言えばいいのか分からなかった。
「大丈夫ですよ」
そんな無責任なことは言えない。
「きっと何とかなります」
そんな保証もできない。
透はただ、その男の横を通り過ぎた。
そして、駅の階段を下りた。
* * *
夜。
透が部屋に戻ると、いつものように42紙がいた。
ソファに座って、コンビニのおにぎりを食べている。
「……おかえりなさい」
「ここ、俺の部屋なんだけど」
「知ってます」
「なんでいるんだよ」
「死神なんで」
「その理屈、便利すぎない?」
42紙は笑った。
「まあまあ」
透は向かいに座った。
しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「なあ」
「はい」
「天国って、本当にないんだよな?」
42紙は、おにぎりを食べながら答えた。
「ありません」
「地獄も?」
「ありません」
「生まれ変わりも?」
「ありません」
「神様も?」
「いません」
迷いのない答えだった。
透は少し黙った。
「……じゃあ、死んだ人間はどうなる?」
42紙の手が止まった。
「分かりません」
「またそれか」
「だって、本当に分からないんですよ」
「死神なのに?」
「死神だからって、何でも知ってるわけじゃないです」
42紙は、おにぎりの袋を丸めながら言った。
「俺が知ってるのは、人間が死ぬ瞬間までです」
「その先は?」
「知りません」
透は42紙を見つめた。
「……じゃあ、第9話の小林さんは?」
42紙は少しだけ目を伏せた。
「小林さん?」
「4を引いた人だよ」
「ああ」
42紙は思い出したように頷いた。
「奥さんが出てきたやつですね」
透は黙っていた。
あのとき。
誠は妻と再会した。
「遅いよ」
そう言って、妻が待っていた。
二人は並んで歩いた。
「おかえり」
「……ただいま」
あまりにも自然だった。
だからこそ。
透には、ずっと引っかかっていた。
「……あれは」
透が言った。
「本当に、奥さんだったのか?」
42紙は少し考えた。
そして、首を横に振った。
「違います」
「……え?」
「小林さんは、死んだあとに奥さんと会ったわけじゃありません」
透は黙った。
42紙は静かに続けた。
「4を引いたからです」
「4を?」
「はい」
「どういう意味だよ」
42紙は、いつもの軽い調子ではなくなっていた。
「4というのは、天国へ行く紙じゃありません」
「……」
「死んだあとに、誰かと会える紙でもありません」
「じゃあ、あれは……」
「小林さんが生きている間に感じた幸せです」
透は息を止めた。
42紙は続けた。
「奥さんと暮らした時間」
「子どもが生まれた日のこと」
「一緒に笑ったこと」
「喧嘩したこと」
「仲直りしたこと」
「何でもない日に、一緒にご飯を食べたこと」
「そういうものが、死ぬ瞬間に鮮明になったんです」
透は、第9話の光景を思い出した。
若い頃の妻。
小さな部屋。
買い物帰りの二人。
子どもの笑顔。
雨の日の帰り道。
そして、最後に病室で交わした言葉。
――ありがとう。
――こちらこそ。
あれは。
死後の世界ではなかった。
誠が最後に見たのは。
誠自身が生きてきた人生だった。
「……じゃあ、4っていうのは」
「幸福な死です」
「幸福な死っていうのは、天国に行くことじゃない」
「はい」
42紙は頷いた。
「最後の瞬間に、その人が幸福を感じることです」
透は、ようやく理解した。
この二枚の紙は。
天国への切符でも。
地獄への切符でもない。
人間が最後に何を感じるのか。
その一瞬だけを分けるものだった。
* * *
「……じゃあ」
透が言った。
「天国も地獄もないのに、なんで人間はそんなものを作ったんだろうな」
42紙は笑った。
「怖かったからじゃないですか?」
「また、それか」
「だって怖いでしょう」
42紙は肩をすくめた。
「死んだらどうなるのか分からない」
「なんで自分だけ苦しいのか分からない」
「なんであの人だけ幸せなのか分からない」
「なんで頑張ってるのに報われないのか分からない」
「なんで、いい人が早く死ぬのか分からない」
透は黙って聞いていた。
42紙は続けた。
「人間って、理由が欲しいんですよ」
「理由?」
「はい」
「苦しいなら、苦しい理由が欲しい」
「不幸なら、不幸な理由が欲しい」
「悪いことをしたなら、罰を受ける理由が欲しい」
「頑張ったなら、いつか報われる理由が欲しい」
「死んだら、その先に何かがあると思いたい」
42紙は少し笑った。
「だから、神様を作ったんじゃないですかね」
「……」
「天国や地獄も」
「人間が、自分じゃどうにもできないものに意味をつけたかったんですよ」
透は、以前聞いた言葉を思い出していた。
――人間は弱いから、神様を作った。
けれど。
今なら、その意味が少し違って見える。
神様を作ったのは。
ただ弱かったからではない。
理不尽な世界で。
それでも生きていくためだったのかもしれない。
* * *
数日後。
透は、会社帰りの道を歩いていた。
交差点の信号が赤になる。
目の前を、一組の夫婦が歩いていた。
二人とも仕事帰りらしい。
「今日、何食べる?」
「何でもいい」
「それ、一番困るやつ」
二人が笑った。
少し離れたところでは、若い男がスマートフォンを見ている。
突然、男の顔が明るくなった。
「……受かった」
就職が決まったのだろう。
その横を、うつむいた女性が通り過ぎる。
泣いている。
誰かと別れたのかもしれない。
透は足を止めた。
同じ道路。
同じ時間。
同じ夜。
笑っている人間がいる。
泣いている人間がいる。
喜んでいる人間がいる。
絶望している人間がいる。
誰かにとっては天国。
誰かにとっては地獄。
でも。
空の上に天国があるわけじゃない。
地面の下に地獄があるわけでもない。
人間は、生きている間に。
自分の人生の中で。
天国のような時間を経験し。
地獄のような時間も経験する。
そして。
そのどちらも、死ぬまで続く人生の一部なのだ。
* * *
夜。
透は部屋の窓から外を眺めていた。
遠くに小さな明かりがいくつも見える。
一つ一つの窓の向こうに、人間がいる。
笑っている人。
喧嘩している人。
眠っている人。
泣いている人。
誰かを待っている人。
明日の仕事を考えている人。
今日、人生で最高の日を迎えた人。
今日、人生で最悪の日を迎えた人。
それでも。
みんな、生きている。
透は小さく呟いた。
「……天国も地獄も、ないんだな」
背後から声がした。
「ありませんよ」
42紙だった。
「でも」
透は窓の外を見たまま言った。
「人間は、生きてる間に天国も地獄も作ってる」
42紙は少しだけ笑った。
「そうかもしれませんね」
「宝くじが当たったら天国みたいに嬉しい」
「はい」
「仕事をクビになったら地獄みたいに苦しい」
「はい」
「誰かを愛したら、天国みたいな時間になる」
「はい」
「その人を失ったら、地獄みたいになる」
「……そうですね」
透は、しばらく考えた。
そして言った。
「じゃあ……」
「はい?」
「天国も地獄も、死んだあとにあるんじゃなくて」
「……」
「今、ここにあるんだな」
42紙は答えなかった。
ただ、いつものように笑っていた。
* * *
人間は、死んだあとに天国へ行くわけではない。
地獄へ落ちるわけでもない。
神が待っているわけでもない。
生まれ変わるわけでもない。
死んだあとに何があるのか。
それは、42紙にも分からない。
ただ一つ分かっているのは。
人間は死ぬまで、生きているということ。
だから。
天国のような一日も。
地獄のような一日も。
その人間が生きている間にしか存在しない。
透は窓を閉めた。
明日も朝が来る。
誰かにとっては、幸せな朝になる。
誰かにとっては、最悪の朝になる。
それでも。
人間は目を覚ます。
そしてまた、自分の人生を歩いていく。
神様はいない。
天国も地獄もない。
けれど――
人間は今日も、生きている。
その場所で。
その人生の中で。
自分だけの天国と地獄を抱えながら。
部屋の時計を見る。
長い間、止まっていたように見えた秒針が、静かに動いた。
2時20分。
透は、まだそのことに気づいていなかった。
――第十話・完――




