第11話「問い」
42紙
第11話 問い
人は、いつから「自分の死」を考えるのだろう。
病気になったときかもしれない。
大切な人を失ったときかもしれない。
あるいは、何気なく見たニュースで、同じ年齢の誰かが亡くなったと知ったときかもしれない。
それまで遠かった「死」が、急に自分の近くにあるように感じる。
神谷透にとって、それはもう、遠いものではなかった。
高橋修一。
黒田浩二。
山本美咲。
田中由紀。
佐藤恒一。
小林誠。
透は、彼らの人生を知らなかった。
名前さえ知らなかった人もいる。
それなのに。
彼らが最後に何を思い、何を感じ、そして二枚の紙から何を選んだのかを、透は知っている。
幸福な死。
不幸せな死。
けれど。
まだ分からないことがあった。
むしろ。
分からないことのほうが、増えていた。
*
朝。
透は目を覚ますと、しばらく天井を見ていた。
時計を見る。
いつもの時間。
顔を洗い、朝食を食べ、仕事へ向かう。
昨日までと何も変わらない。
駅には人がいる。
電車はいつも通り混んでいる。
誰かがスマートフォンを見ている。
誰かが眠っている。
誰かが急いでいる。
誰も、自分がいつ死ぬのかを知らない。
透は以前なら、それを当たり前だと思っていた。
今は違う。
この中の誰かが。
いつか、あの二枚の紙の前に立つ。
そう考えてしまう。
そして。
自分も。
いつか。
*
仕事を終え、部屋に戻った。
玄関を開ける。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
反射的に答えてから、透は足を止めた。
部屋には誰もいない。
「……何やってんだ、俺」
小さく笑った。
靴を脱いで部屋に入る。
そして。
机の上にある二枚の紙を見た。
白い紙。
何も書かれていない。
この紙が、いつからここにあるのか。
透は、もう何度も考えていた。
けれど。
考えても答えは出ない。
42紙と出会ってから。
この二枚の紙が、透の前に現れるようになった。
なぜなのか。
それも分からない。
ただ。
この紙が4なのか。
2なのか。
それだけは、まだ誰にも分からない。
透にも。
そして――42紙にも。
「……」
透は紙に手を伸ばしかけて、止めた。
そのとき。
「触らないんですか?」
背後から声がした。
「うわっ!」
振り返る。
42紙がいた。
「……お前、いつからいたんだよ」
「今です」
「今って……」
「今、来ました」
42紙はいつものように、何でもない顔をしている。
「相変わらず急に出てくるな」
「すみません」
「謝るなら、せめて玄関から入ってくれ」
「玄関、開けてもらえます?」
「……お前、死神だろ」
「死神でも玄関は開けてもらわないと」
透は呆れた。
けれど、少しだけ笑った。
42紙は机の上の二枚の紙を見る。
「見てたんですか?」
「見てた」
「何か分かりました?」
「何も」
「そうですか」
42紙は紙を見る。
透も見る。
しばらく、二人とも黙っていた。
やがて透が言った。
「なあ」
「はい」
「聞きたいことがある」
「どうぞ」
「俺が見た人たちの最後の瞬間」
「はい」
「俺は、そこにいなかったよな?」
「いませんでしたね」
「なのに、俺は見た」
「そうですね」
「なんで?」
42紙は少し考えた。
「……分かりません」
透は42紙を見る。
「本当に?」
「はい」
「お前が見せてるわけじゃないのか?」
「俺が?」
「そう」
「いや、俺は何もしてないですよ」
「じゃあ、どうして俺には見える?」
42紙は少し首を傾けた。
「何ででしょうね」
「……」
透はため息をついた。
以前なら、ここで話を終わらせていたかもしれない。
けれど。
今は違う。
「じゃあ、別のことを聞く」
「はい」
「どうして人間は、最後に二枚の紙から選ぶんだ?」
42紙は紙を見た。
「……何ででしょうね」
「4と2」
「はい」
「4なら幸福な死」
「そうです」
「2なら不幸せな死」
「はい」
「でも、選ぶ前には分からない」
「分かりません」
「お前にも?」
「俺にも分かりません」
透は少し黙った。
「……誰が決めてるんだ?」
42紙は答えなかった。
透が顔を上げる。
42紙は困ったように笑った。
「……分からないです」
「またかよ」
「すみません」
「だから、謝るなって」
42紙は笑った。
「でも、本当に分からないんですよ」
透は、その顔を見つめた。
嘘をついているようには見えなかった。
何かを隠しているようにも見えない。
ただ、本当に分からない。
そのことが、逆に不思議だった。
「お前は……何を知ってるんだ?」
42紙は少し考えた。
「人間が死ぬこと」
「それだけ?」
「それだけです」
「死神なのに?」
「死神だからって、何でも知ってるわけじゃないですよ」
透は小さく息を吐いた。
「……そうだったな」
42紙は少し笑った。
*
透は、しばらく黙っていた。
そして、また質問した。
「お前は、いつから死神なんだ?」
「いつからでしょうね」
「覚えてないのか?」
「覚えてないです」
「自分のことなのに?」
「そういうこともありますよ」
「……変なの」
「よく言われます」
「誰に?」
「さあ」
「おい」
透が呆れると、42紙は笑った。
その軽さに、透も少しだけ笑ってしまった。
けれど。
すぐに表情を戻した。
「じゃあ、お前は死んだことがあるのか?」
42紙は少し考えた。
「まだないですね」
「死神なのに?」
「死神だって、死ぬかもしれないですから」
「そのときは?」
「そのときになったら考えます」
透は黙った。
42紙も、それ以上は何も言わなかった。
不思議だった。
死神。
死を知っている存在。
なのに。
死んだ後のことは知らない。
神もいない。
天国もない。
地獄もない。
生まれ変わりもない。
そして。
自分が死んだ後のことさえ知らない。
42紙は、死そのものを知っているだけなのかもしれない。
透は、そう思った。
*
しばらくして。
透は机の上の二枚の紙に目を向けた。
「なあ」
「はい?」
「42紙って」
「はい」
「なんで42紙なんだ?」
42紙は少しだけ考えた。
「……なんででしょうね」
「お前も知らないのか?」
「知りません」
透は思わず笑った。
「本当に分からないことばっかりだな、お前」
「そうですね」
「じゃあ、42って何なんだ?」
透は紙を見る。
4。
2。
数字そのものに意味があるようには見えない。
けれど。
ふと。
一つのことが頭に浮かんだ。
日本語の「四」。
「し」。
そして「二」。
「ひ、ふ、み」の「ふ」。
「……」
透は、ゆっくりと言った。
「4は……『し』」
42紙は何も言わない。
「2は……『ふ』」
「そうですね」
「シアワセ」
42紙が透を見る。
「……フシアワセ」
透は二枚の紙を見る。
4。
幸福な死。
2。
不幸せな死。
「……42って」
少しだけ間を置いて。
「シアワセと、フシアワセ……なのか?」
42紙は答えなかった。
透が見る。
「お前、知ってたのか?」
「……知りませんでした」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ、今俺が気づいた?」
「たぶん」
「たぶんって……」
透は苦笑した。
けれど。
その数字が急に意味を持ったように感じた。
42紙。
4と2。
シアワセ。
フシアワセ。
偶然なのかもしれない。
誰かがそういう意味を込めたのかもしれない。
そもそも。
何の意味もないのかもしれない。
まだ分からない。
何も。
*
透は二枚の紙を見た。
そして。
ふと、あることに気づいた。
「……なあ」
「はい?」
「この紙」
「はい」
「俺が4を選ぶのか、2を選ぶのか」
42紙は黙っている。
「まだ分からないんだよな」
「はい」
「お前にも」
「はい」
「俺が実際に選ぶまで?」
「そうです」
透は頷いた。
その答えだけは、最初から変わらない。
どれだけ聞いても。
どれだけ考えても。
どれだけ紙を見ても。
答えは出ない。
だからこそ。
透は思った。
自分が知ることができるのは。
選んだ、その瞬間なのだ。
「……まだ先、か」
透が呟いた。
42紙が、静かに答えた。
「ええ」
「……そのときまで、分からないんだな」
「はい」
透は紙から目を離した。
今はまだ。
選ぶ時ではない。
それだけは分かっている。
けれど。
一つだけ、今までとは違うことがあった。
透は、自分の死を考えるだけではなくなっていた。
自分は、最後に何を選ぶのか。
その問いを。
初めて、自分自身に向けていた。
*
夜。
42紙は帰る準備をしていた。
「もう帰るのか?」
「はい」
「どこへ?」
「……どこでしょうね」
「また分からないのかよ」
「すみません」
「もういいよ」
透は笑った。
42紙も笑った。
玄関へ向かう。
そこで42紙が振り返った。
「神谷さん」
「ん?」
「また来ます」
「……ああ」
ドアが閉まる。
部屋に静けさが戻った。
透は机を見る。
二枚の紙。
白いまま。
4なのか。
2なのか。
まだ分からない。
それは。
透にも。
42紙にも。
誰にも。
透は紙を伏せることも、片付けることもしなかった。
ただ、そのままにしておいた。
まだ選ばない。
まだ答えは出ない。
そして。
まだ先だ。
時計の秒針が、静かに進んでいる。
2時20分。
透は時計を見た。
それから、もう一度だけ二枚の紙を見る。
「……俺は、何を選ぶんだろうな」
答える者はいなかった。
今夜は、それでよかった。
答えが分からないからこそ。
透は、明日も生きていく。
そして。
その答えを知る日は。
まだ、先だ。
――第十一話・完――




