↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「42紙」(しにがみ)  作者: kiseki-ryu


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/33

第8話「名前」

42紙(しにがみ)

第八話 名前

人は、いつから自分を「自分」だと思うのだろう。

生まれたばかりの赤ん坊には、自分の名前さえ分からない。

誰かに名前を呼ばれて。

誰かに抱きしめられて。

誰かに叱られて。

少しずつ、自分がここにいることを知っていく。

――名前。

それは、ただ人を呼ぶための言葉なのかもしれない。

けれど。

誰かに名前を呼ばれることが、

「あなたは、ここにいる」

と伝えることなのだとしたら――。

その名前を、誰にも呼ばれなくなった人間は。

一体、何を感じるのだろう。

「神谷さん」

その声に、青年は振り返った。

「……はい?」

会社員らしい男が、財布を差し出していた。

「これ、落としましたよ」

「あ……」

神谷透は受け取った。

「ありがとうございます」

「いえいえ」

男はそれだけ言って、人混みの中へ消えていった。

透は財布を見た。

自分の名前が書かれたカードが入っている。

神谷透。

二十七歳。

どこにでもいる普通の会社員。

特別な才能があるわけでもない。

大きな夢があるわけでもない。

毎朝、電車に乗って会社へ行き。

仕事をして。

帰宅して。

コンビニで夕食を買う。

そんな毎日だった。

以前の透なら、それを「普通」と思っていた。

けれど。

42紙と出会ってから。

その「普通」が、少しずつ変わって見えるようになっていた。

人は死ぬ。

いつか必ず。

善人でも。

悪人でも。

金持ちでも。

貧しい人でも。

努力した人でも。

夢を叶えられなかった人でも。

その最後には、二枚の紙が待っている。

4か。

2か。

どちらなのかは、誰にも分からない。

そして――。

神谷透自身にも。

財布を返してくれた男と別れたあと。

透は駅へ向かって歩いていた。

途中で、財布の中身を確認する。

現金。

カード。

免許証。

どれも無事だった。

そのとき、ふと考えた。

――もし、この財布を誰かに拾われなかったら。

きっと困っていた。

カードを止めたり。

警察に届けたり。

いろいろ面倒なことになっていたはずだ。

たった一人の知らない人が拾ってくれただけで、それが全部なくなった。

「……不思議だな」

透は小さく呟いた。

その日の夜。

会社から帰った透は、財布を机の上に置いた。

いつもなら、そのまま何も考えない。

だが今日は違った。

財布の中にある免許証を取り出す。

そこには顔写真と名前がある。

神谷透。

「……神谷透」

自分の名前を口にする。

何度も呼ばれてきた名前。

生まれたときから、ずっと一緒にある名前。

でも――。

透は今まで、その名前について考えたことなどなかった。

そのときだった。

「いい名前ですね」

「……!」

声がした。

振り返る。

42紙が立っていた。

いつもの服。

いつもの顔。

そして、いつものようにコンビニの袋を持っている。

「……また勝手に入ってきたな」

「まあまあ」

「鍵、閉めてたぞ」

「死神ですから」

「便利だな、それ」

42紙は笑った。

「神谷透さん」

「……なんだよ」

「今日、名前を呼ばれてましたね」

「聞いてたのか?」

「まあ」

「趣味悪いな」

「死神なんて、だいたいそんなもんですよ」

「自分で言うなよ」

透は苦笑した。

そして免許証を見る。

「なあ、42紙」

「はい?」

「名前って……何なんだろうな」

42紙は少し首を傾げた。

「名前ですか?」

「うん」

「名前は名前じゃないですか?」

「そういう答えじゃなくて」

「難しいですね」

「お前でも?」

「俺、死神ですから」

「それ、関係あるのか?」

「たぶん」

42紙は笑った。

「でも、人間って不思議ですよね」

「何が?」

「生まれたときから、自分の名前を持ってる」

「……」

「でも、自分で決めたわけじゃない」

透は黙って聞いている。

「親とか、家族とか、誰かが名前をつける」

「そうだな」

「そして、その名前で呼ばれて生きていく」

42紙は透を見る。

「学校でも」

「……」

「会社でも」

「……」

「友達からも」

「……」

「好きな人からも」

透は少し笑った。

「俺、そんなに呼ばれてないけどな」

「じゃあ、俺が呼びましょうか?」

「いらない」

「神谷さん」

「……」

「神谷さん」

「しつこい」

42紙は笑った。

「でも」

少しだけ声が変わった。

「名前を呼ばれるって、結構大事なことだと思いますよ」

透は42紙を見る。

「どうして?」

「その人が、そこにいるって分かるから」

「……」

「名前を呼ぶ相手がいる」

「……」

「名前を呼んでくれる相手がいる」

42紙は少し間を置いた。

「それだけで、人間は一人じゃなくなることがありますから」

透は何も言わなかった。

翌日。

会社で、透は新人社員に呼び止められた。

「神谷さん」

「ん?」

「昨日、ありがとうございました」

「何が?」

「資料のことです」

「ああ」

新人は頭を下げた。

「助かりました」

「いいよ、それくらい」

「……神谷さんって」

「何?」

「名前、覚えやすいですよね」

「またそれ?」

二人で笑った。

新人は仕事へ戻っていった。

透も自分の席に戻る。

そして仕事を始めた。

いつもの一日。

何も変わらない。

けれど。

昼過ぎ。

その新人が、上司に注意されているのが聞こえた。

「ここ、昨日も言ったよね?」

「すみません」

「確認してから出してって言ったでしょう」

「……はい」

新人は小さくなっていた。

透はしばらく見ていた。

そして。

「すみません」

透が口を挟んだ。

上司が振り返る。

「何?」

「その資料、俺も確認します」

「神谷君が?」

「はい」

「……分かった」

上司が離れていく。

新人が透を見る。

「神谷さん……」

「次から気をつければいいよ」

「……ありがとうございます」

「うん」

新人は席に戻った。

透も仕事に戻る。

それだけのことだった。

けれど。

その日の帰り。

新人が透のところへ来た。

「神谷さん」

「ん?」

「俺、頑張ります」

透は笑った。

「うん」

「……名前、覚えてくれてるの嬉しいです」

透は少し驚いた。

「名前?」

「はい」

「そんなことで?」

新人は笑った。

「そんなことが、結構嬉しいんですよ」

そう言って、帰っていった。

透は、その背中を見つめた。

そして――。

昨日、42紙が言った言葉を思い出した。

「それだけで、人間は一人じゃなくなることがありますから」

「……そういうことか」

透は小さく呟いた。

その夜。

透は自宅に戻った。

部屋は静かだった。

机の上には、昨日の財布。

その横に免許証が置いてある。

透はそれを手に取った。

神谷透。

今日も。

何度も呼ばれた。

神谷さん。

神谷さん。

それだけなのに。

今までとは少し違って聞こえた。

名前は、自分を証明するものなのかもしれない。

でも――。

それだけじゃない。

誰かに呼ばれることで。

誰かに覚えてもらうことで。

自分が誰かの中にいることを知る。

そんなものなのかもしれない。

透は免許証を財布に戻した。

そして時計を見る。

2時18分。

「……もうこんな時間か」

秒針が動く。

カチ。

カチ。

カチ。

眠ろうとした。

けれど。

なかなか眠れない。

今日の新人の言葉が、頭から離れなかった。

「そんなことが、結構嬉しいんですよ」

透は天井を見つめた。

「……名前か」

しばらくして。

透は、今日聞いた新人の名前を口にした。

「……○○」

誰もいない部屋。

それでも。

その名前を呼ぶと、昼間の青年の顔が浮かんだ。

明日も会社に来るだろう。

また失敗するかもしれない。

また怒られるかもしれない。

それでも。

きっと、生きていく。

透は少しだけ笑った。

その瞬間――。

時計の針が進んだ。

2時19分。

「……」

透は時計を見た。

一分。

また、一分進んだ。

第7話の夜にも。

確か、一分進んだ。

「……偶然だよな」

そう呟いた。

けれど。

なぜか、気になった。

時計の針が進んだ理由など、透には分からない。

42紙もいない。

誰も説明してくれない。

ただ――。

昨日までとは違う何かが、自分の中に残っている。

透は電気を消した。

そして目を閉じた。

名前を呼ぶこと。

名前を覚えること。

名前を呼んでもらうこと。

そんな小さなことが、人を少しだけ生きさせることもある。

そのことを――。

神谷透は、まだ知らなかった。

これから先。

自分が出会う人間たちによって。

もっと多くのことを知ることになる。

そしていつか。

そのすべてが――。

自分自身の死へとつながっていくことも。

時計の針は、

2時19分。

静かに時を刻んでいた。

――第八話・完――


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。