第7話「金の値段」
42紙
第七話 金の値段
佐藤恒一。
六十八歳。
大手企業グループの会長。
新聞やテレビでは、何度もその名前を見た。
「成功者」
「一代で巨大企業を築いた男」
「希代の経営者」
そんな言葉と一緒に。
だが――。
彼の人生を、そんな綺麗な言葉だけで語ることはできない。
むしろ、その逆だった。
幼い頃の佐藤は、貧しい家庭で育った。
小さな家。
古い家具。
毎日の食事にも困るような生活。
母親はいつも働いていた。
そんな家で、少年だった恒一は、ある日、母親に言った。
「俺、大人になったら金持ちになる」
母親は笑った。
「どうして?」
「金があれば、何でも買えるから」
「何でも?」
「家も、車も、好きなものも」
母親は少し考えてから、
「そうね」
とだけ答えた。
だが、恒一はそれでは満足しなかった。
もっと金が欲しかった。
もっと力が欲しかった。
誰にも馬鹿にされない人間になりたかった。
そして――。
そのためなら、何をしてもいいと思うようになった。
最初は小さな詐欺だった。
人を騙して金を取る。
借金を踏み倒す。
弱い人間から金を巻き上げる。
それが、少しずつ大きくなっていった。
脅迫。
暴力。
裏取引。
違法な金の流れ。
人を騙すことに、ためらいはなくなった。
人を傷つけることにも。
そして――。
人を殺した。
一度ではなかった。
金のため。
口封じのため。
自分の邪魔をする人間を消すため。
それでも、恒一は眠れないほど苦しむことはなかった。
むしろ、
「仕方ない」
そう思っていた。
金があれば、自分は勝てる。
金があれば、何でも解決できる。
そう信じていた。
やがて逮捕された。
刑務所に入った。
周囲からは、
「人生が終わったな」
と言われた。
だが、恒一は反省していなかった。
刑務所の中でも考えていた。
――出たら、また金を稼ぐ。
――今度はもっと上手くやる。
そして数年後。
出所した恒一は、本当にまた金を稼ぎ始めた。
今度は、もっと慎重だった。
表向きは合法的な会社を作り、裏では人を使い、金を動かした。
人を利用することにも慣れていた。
自分の手を汚さずに、人を動かす方法を覚えた。
会社は大きくなった。
一つ。
二つ。
三つ。
気がつけば、巨大な企業グループになっていた。
高級車。
豪邸。
高級時計。
海外の別荘。
何億、何十億という金。
テレビに映る恒一は、いつも穏やかな笑顔を浮かべていた。
インタビューでは、
「社員を大切にしています」
などと話した。
誰も知らない。
その裏で、何人もの人間が泣いていたことを。
何人もの人生が壊されたことを。
そして――。
何人もの人間が、恒一の欲望のために消えていったことを。
六十八歳になった頃には、恒一は巨大なビルの最上階にある自分の部屋から、街を見下ろしていた。
眼下には、無数の建物。
道路を走る車。
小さく見える人間。
恒一は窓の外を眺めながら、笑った。
「……全部、俺のものだ」
誰にも聞こえない声で呟く。
「俺は……勝ったんだ」
その日の夜。
恒一は一人で屋上へ向かった。
夜風が吹いていた。
高層ビルの屋上から見える街は、まるで小さな模型のようだった。
恒一は手すりの近くまで歩いていく。
そして、街を見下ろした。
「……俺は、何でも手に入れた」
家も。
会社も。
金も。
地位も。
女も。
人間さえも。
「金さえあれば……何でもできる」
そのときだった。
背後から声がした。
「……佐藤さん」
恒一が振り返る。
そこには、一人の男が立っていた。
見覚えのない顔だった。
「……誰だ?」
男は答えなかった。
ただ、恒一を見ていた。
「俺を知ってるのか?」
沈黙。
恒一は苛立った。
「誰だって聞いてるんだ」
男が、静かに言った。
「……覚えてないでしょうね」
「何?」
次の瞬間――。
男の手が、恒一の身体を強く押した。
「――っ!」
手すりを越える。
身体が宙に浮いた。
「待――」
伸ばした手は、何も掴めなかった。
そして――。
恒一の身体は、暗い夜の中へ落ちていった。
気がつくと――。
そこは、真っ白な場所だった。
床も。
壁も。
天井もない。
恒一は立ち上がった。
「……なんだ、ここは」
そのとき。
「どーも」
聞き覚えのあるような、ないような声。
振り返る。
そこに、一人の男が立っていた。
コンビニの袋を持っている。
普通の服。
普通の顔。
普通の青年にしか見えない。
「……誰だ、お前」
「42紙です」
「……は?」
「えぇ、死神です」
恒一はしばらく黙った。
そして、
「……ふざけてるのか?」
「よく言われます」
42紙は笑った。
「死神っていうと、大きな鎌を持ってて、顔が骸骨で、黒尽くめで……みたいなの想像したでしょ?」
「……」
「残念。普通の人です」
「……俺は死んだのか?」
「はい」
恒一は自分の身体を見た。
傷はない。
痛みもない。
だが――。
「……金は?」
42紙が首を傾げる。
「金?」
「俺の金だ」
「持ってきてないですよ」
「……何?」
「ここじゃ使えませんから」
恒一は黙った。
「家は?」
「ないです」
「会社は?」
「ないです」
「車は?」
「ないです」
「……全部?」
「全部です」
恒一の顔から、少しずつ表情が消えていった。
そして42紙は、いつものように二枚の紙を取り出した。
「一枚は4」
「もう一枚は2」
恒一は紙を見る。
どちらも真っ白だった。
「4なら幸福な死」
「2なら不幸な死」
「……どっちが4だ?」
「分かりません」
「お前が死神なんだろ?」
「そうですけど」
「じゃあ、分かるだろ」
「分からないんですよ」
恒一は42紙を睨んだ。
「……ふざけた話だ」
「まあ、そうですよね」
「俺は……」
恒一は二枚の紙を見た。
人生の最後に残された選択。
金もない。
会社もない。
権力もない。
ここには、自分自身しかいない。
「……これを選べばいいんだな」
「はい」
「どっちが4か分からない?」
「分かりません」
「お前にも?」
「俺にもです」
恒一は少し笑った。
「……面白い」
そして――。
一枚を選んだ。
42紙が確認する。
「……4ですね」
恒一の口元が上がった。
「……4」
「はい」
「俺は……最後まで勝ったんだ」
42紙は、少しだけ黙った。
「……そう思いますか?」
「当然だろ」
恒一は笑った。
「俺は金を手に入れた」
「……」
「人間が欲しがるものは、全部手に入れた」
「……」
「最後に4を引いた」
42紙は、静かに恒一を見る。
「でも」
「……なんだ?」
「4を引いたからって、あなたがやったことが正しくなるわけじゃありません」
恒一の笑顔が止まった。
「人を騙したことも」
「……」
「人を傷つけたことも」
「……」
「人を殺したことも」
42紙は、淡々と言った。
「なくなりません」
恒一は黙っていた。
「……じゃあ、なんで4なんだ?」
「分かりません」
「俺が悪い人間だったから2じゃないのか?」
「違います」
「……」
「4と2は、善人と悪人を分けるものじゃありません」
42紙は続けた。
「人間の善悪を、俺が決めるものでもない」
「……」
「悪い人間だから2になるわけじゃない」
「……」
「あなたが選んだ紙が、4だった」
「ただ、それだけです」
恒一は、しばらく何も言わなかった。
そして――。
ふと、遠くを見るような目をした。
そこにあったのは、豪邸でもなかった。
高級車でも。
巨大な会社でもなかった。
小さな家だった。
古いテーブル。
質素な食事。
まだ少年だった自分。
そして――。
若かった母親。
『お金持ちにならなくてもいいよ』
母親は笑っていた。
『ちゃんとご飯を食べて』
『元気に帰ってきてくれれば、それでいいから』
少年だった恒一は、笑っていた。
「俺、大人になったら金持ちになる」
『どうして?』
「金があれば、何でも買えるから」
母親は少し困ったように笑った。
その記憶を――。
恒一は、何十年も思い出していなかった。
「……俺」
小さく呟く。
「俺……金持ちになったよ」
誰に言うでもなく。
「……すごく金持ちになった」
しばらく黙った。
そして――。
「……でも」
声が少し震えた。
「……あんまり幸せじゃなかったな」
42紙は何も言わない。
恒一は目を伏せた。
「俺がやったことは……消えないよな」
「消えません」
即答だった。
「……そうか」
恒一は笑った。
今までとは違う笑い方だった。
「俺は……悪い人間だった」
42紙は否定しなかった。
「……でも」
恒一は、昔の母親の顔を思い出していた。
「最後に、あの頃を思い出せた」
「……」
「それだけは……悪くなかったな」
少しだけ間を置いて。
恒一は呟いた。
「金じゃ買えないものって……あったんだな」
42紙は何も答えなかった。
ただ、静かに恒一を見ていた。
やがて――。
恒一の姿が、白い空間の中へ溶けていく。
その顔には、もう「勝った男」の表情はなかった。
ただ、一人の人間の顔があった。
翌朝。
青年はニュースを見ていた。
テレビには、佐藤恒一の名前が映っていた。
巨大企業の会長。
転落死。
警察は事件の可能性も含めて調べているという。
「……」
青年はテレビを消した。
部屋が静かになる。
しばらく何も考えられなかった。
あれほど人を傷つけた男が――。
4を引いた。
努力した美咲は4だった。
努力し続けた由紀は2だった。
悪いことをした黒田は2だった。
そして――。
人を騙し、人を殺し、莫大な金を手に入れた男は4だった。
「……分からない」
思わず声が出た。
すると――。
部屋の奥から声がした。
「何がです?」
青年が振り返る。
42紙が立っていた。
「……お前は、どう思う?」
「何がです?」
「4と2だよ」
42紙は少し考えた。
「……分かりません」
「またそれか」
「だって、本当に分からないんですよ」
青年は苦笑した。
そして、窓の外を見る。
朝の光が、部屋の中に差し込んでいた。
「……佐藤って男さ」
「はい」
「最後に、母親のことを思い出してた」
「そうですね」
「それで……少しだけ、幸せそうだった」
42紙は黙っている。
青年はしばらく考えた。
「じゃあ……」
言葉を探す。
「幸せって、最後に決まるものなのかな」
42紙は答えなかった。
「それとも……」
青年は窓の外を見た。
「生きてる間に、自分で作るものなのかな」
42紙が、ほんの少しだけ笑った。
「それは……」
「……?」
「人間に聞いたほうがいいんじゃないですか?」
「人間に?」
「はい」
42紙はそう言うと、窓の外へ目を向けた。
「だって、俺は死神ですから」
「……」
「生きてることについては、人間のほうが詳しいでしょう」
青年は何も言わなかった。
そのとき――。
時計の針が進んだ。
2時17分。
秒針が、一つ進む。
2時18分。
青年は時計を見た。
たった一分。
けれど――。
その一分の間にも。
どこかで誰かが生まれ。
どこかで誰かが笑い。
どこかで誰かが泣き。
そして――。
誰かが、人生を終えている。
青年は、時計から目を離した。
「……なあ、42紙」
「はい?」
「俺は……」
少しだけ間を置いて。
「ちゃんと、生きてみようと思う」
42紙は何も言わなかった。
ただ――。
いつものように、少しだけ笑った。
そして次の瞬間。
そこには、もう誰もいなかった。
青年は一人になった。
窓の外には、朝の街が広がっている。
昨日と何も変わらない街。
けれど――。
青年には、少しだけ違って見えた。
人はいつか死ぬ。
4を選ぶのか。
2を選ぶのか。
そのときまで、誰にも分からない。
だからこそ――。
今、生きている。
青年は静かに立ち上がった。
そして、玄関のドアを開けた。
朝の光の中へ、一歩踏み出した。
――第七話・完――




