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「42紙」(しにがみ)  作者: kiseki-ryu


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第6話「夢の値段」

42紙(しにがみ)

第六話 夢の値段

「努力すれば、夢は叶う」

田中由紀は、子どもの頃からそう信じていた。

きっかけは、父親だった。

由紀が中学生の頃、父は病気になった。

長い入院生活。

家の中から笑い声が減った。

そんなある日、由紀は病室で父の前に立ち、学校で覚えた歌を歌った。

決して上手くはなかった。

音程も少し外れていた。

それでも、歌い終わったとき――

父は笑った。

「……いいな」

その一言が、由紀には嬉しかった。

自分の歌で、誰かが笑ってくれた。

自分の声で、誰かの心を少しだけ明るくできた。

それが、由紀の夢の始まりだった。

いつか、歌手になろう。

大きなステージに立とう。

たくさんの人に、自分の歌を聴いてもらおう。

そして、いつか自分も――

誰かを笑顔にできる人になろう。

そう決めた。

高校に入ると、由紀は本格的に歌の練習を始めた。

朝は学校へ行く一時間前に起きた。

誰もいない部屋で発声練習をする。

腹式呼吸。

ロングトーン。

音階。

滑舌。

毎日、同じ練習を繰り返した。

学校が終われば、友達が遊びに行く中、由紀は一人で帰った。

カラオケボックスに入る。

一時間。

二時間。

三時間。

歌う。

録音する。

聞き直す。

また歌う。

「ここ、音が下がってる……」

ノートを開いて、細かく書き込む。

「ここは息が足りない」

次のページに書く。

「もっと声を前に」

一曲歌うたびに、自分の欠点を探した。

そして、翌日にはそこを直す。

休日も同じだった。

朝から練習。

昼からアルバイト。

夜、帰宅してからまた練習。

友達から遊びに誘われても断った。

高校最後の夏休み。

みんなが海や旅行に行っている間も、由紀は家で歌っていた。

喉が痛くなるまで歌った。

声が出なくなれば休んだ。

そして声が戻れば、また歌った。

「そこまでやらなくてもいいんじゃない?」

母に言われたこともあった。

由紀は笑って答えた。

「私は歌手になるから」

その言葉だけは、絶対に曲げなかった。

高校を卒業すると、由紀は東京へ出た。

華やかな世界を想像していた。

けれど、現実はそんなに甘くなかった。

最初のオーディション。

一次審査で落ちた。

二回目。

また落ちた。

三回目。

また落ちた。

理由は教えてもらえない。

「今回はご縁がありませんでした」

それだけ。

由紀は帰り道の電車の中で、何度も自分の歌を聞いた。

そして思った。

――もっと上手くならなきゃ。

翌日から、練習量を増やした。

ボイストレーニングにも通った。

しかし、レッスン代は高かった。

だからアルバイトを増やした。

朝はコンビニ。

昼は飲食店。

夜はカラオケ店。

睡眠時間を削った。

仕事が終わって帰宅するのは、夜中の一時や二時。

それでも、眠る前に発声練習をした。

小さな声で歌った。

近所迷惑にならないよう、布団に顔を埋めるようにして歌った。

「もっとできる」

そう思っていた。

二十歳。

オーディションに落ちた回数は、数え切れなくなっていた。

二十一歳。

小さなライブハウスで歌わせてもらえるようになった。

観客は十人。

五人。

多い日でも二十人程度。

それでも嬉しかった。

ステージに立てる。

マイクを握れる。

自分の歌を聴いてくれる人がいる。

それだけで幸せだった。

けれど、現実は残酷だった。

同じライブハウスに出ていた同年代の歌手が、一人、また一人と売れていった。

「昨日、テレビ出てたね」

「うん」

「すごいなぁ……」

笑って祝福する。

心から喜ぼうとする。

でも、家に帰ると悔しくて泣いた。

「私だって……」

鏡の前で何度も呟いた。

「私だって、負けてない」

だから練習した。

歌った。

走った。

体力作りも始めた。

毎朝五キロ走った。

腹筋を百回。

背筋を百回。

スクワット。

ストレッチ。

喉のケア。

食事にも気をつけた。

夜更かしをやめた。

お酒も飲まなかった。

風邪を引かないように人混みを避けた。

声を守るために、冬でもマスクをして歩いた。

旅行にもほとんど行かなかった。

恋愛も後回しにした。

友達から、

「由紀、たまには遊ぼうよ」

と言われても、

「ごめん。練習があるから」

と断った。

誕生日も、クリスマスも、年末年始も。

由紀にとっては、練習できる日だった。

二十二歳。

二十三歳。

二十四歳。

時間だけが過ぎていった。

ある日、由紀は大きなオーディションを受けた。

最終審査まで残った。

初めてだった。

「もしかしたら……」

そう思った。

もし受かったら。

もしここから人生が変わったら。

何度も想像した。

最終審査の日。

由紀は、自分ができることを全部出した。

歌った。

踊った。

笑った。

頭を下げた。

そして結果を待った。

数日後。

不合格だった。

由紀は、その通知を何度も見た。

画面を閉じる。

また開く。

何度見ても同じだった。

不合格。

その夜、由紀は布団の中で泣いた。

声を出さないように、口を押さえた。

そして朝になった。

目を腫らしたまま起きる。

鏡を見る。

「……今日も練習しよう」

それだけ言った。

二十五歳。

小さな事務所に所属することができた。

ようやく、夢に近づいたと思った。

事務所のレッスン。

ボイストレーニング。

ダンス。

表情。

発声。

カメラの前での立ち方。

インタビューの受け答え。

SNSの使い方。

由紀は全部覚えた。

言われたことは、誰よりも早くやった。

宿題が出れば、その日のうちに終わらせた。

歌詞を覚えろと言われれば、何度も書いて覚えた。

振り付けを覚えろと言われれば、帰宅してから深夜まで練習した。

鏡の前で何度も踊った。

転んでも、また立った。

足に豆ができても続けた。

一度、練習中に足を痛めた。

スタッフから、

「今日は休んだほうがいいよ」

と言われた。

由紀は、

「大丈夫です」

と答えた。

病院で診てもらうと、しばらく運動を控えるよう言われた。

それでも三日後には、また練習していた。

「無理しちゃダメだよ」

そう言われても、

「大丈夫です」

と笑った。

由紀は、自分でも分かっていた。

ここまでやっても結果が出なかったら――

もう何をすればいいのか分からなくなる。

だから、やるしかなかった。

二十六歳。

二十七歳。

二十八歳。

三十歳を目前にして、由紀はまだ売れていなかった。

事務所から与えられる仕事も少なかった。

小さなイベント。

商店街のステージ。

ショッピングモールの片隅。

観客は数人。

それでも由紀は、本気で歌った。

一人しか見ていなくても、本気で歌った。

誰も拍手しなくても、最後まで笑顔で歌った。

ある日、イベントの帰りにスタッフから言われた。

「田中さん」

「はい」

「そろそろ……現実的に考えたほうがいいと思う」

由紀は黙った。

「歌が下手だとは言ってない」

「……はい」

「努力してるのも知ってる」

「……はい」

「誰よりも真面目なのも分かってる」

「……」

「でも、努力だけでどうにかなる世界じゃないから」

その言葉は、何度も胸の中に残った。

努力だけでは。

努力だけでは。

努力だけでは――。

帰宅すると、由紀は部屋の電気もつけずに床に座った。

十年以上。

歌を始めてから、十年以上経っていた。

その間、自分は何をしてきたのだろう。

学校。

アルバイト。

レッスン。

オーディション。

ライブ。

練習。

失敗。

また練習。

また失敗。

それでも、やめなかった。

「……私、こんなに頑張ったのにな」

誰もいない部屋で呟いた。

けれど、翌朝。

由紀は起きた。

走った。

発声をした。

歌った。

また一日を始めた。

二十九歳。

夢は、まだ叶っていなかった。

それでも――歌うことだけは、やめなかった。

そして、その年の秋。

小さな地域イベントへの出演が決まった。

客席は三十人ほど。

ステージと呼ぶには小さすぎる場所だった。

音響設備も簡素。

照明も簡単なものだった。

けれど、由紀にとってはステージだった。

マイクを握る。

客席を見る。

知っている人もいる。

知らない人もいる。

たまたま通りかかっただけの人もいる。

それでも――

由紀は笑った。

「それでは、聴いてください」

そして歌った。

一曲。

二曲。

三曲。

これまで十年以上、何千時間も練習してきた歌を。

歌い終わった。

小さな拍手が起きた。

三十人ほどの、小さな拍手。

けれど由紀は、深く頭を下げた。

「ありがとうございました!」

ステージを降りると、一人の女の子が近づいてきた。

「お姉ちゃん」

「ん?」

「歌、よかった」

由紀は少し驚いた。

そして笑った。

「……ありがとう」

その一言だけで、胸がいっぱいになった。

帰り道。

由紀はスマートフォンを見た。

今日のステージを誰かが撮影してくれていた。

動画を再生する。

小さなステージ。

少ない観客。

少し震えている自分の声。

それでも――

「……私、歌ってる」

思わず笑った。

そのとき、別のニュースが目に入った。

昔、一緒にオーディションを受けていた女性だった。

今では有名な歌手になっている。

来月、大きなドームでライブをするらしい。

画面には、何万人もの観客を前に笑う彼女の姿が映っていた。

由紀は、しばらくその画面を見つめていた。

そして、小さく笑った。

「……すごいな」

スマートフォンを閉じる。

「私も……行きたかったな」

その言葉を口にしたあと、由紀は少しだけ空を見上げた。

悔しかった。

本当は、ずっと悔しかった。

誰にも言えなかった。

「私だって……」

何度も思った。

私だって、あれだけ頑張った。

私だって、諦めなかった。

私だって――。

けれど。

そこから先の言葉は、出てこなかった。

夜の道を歩く。

イベント会場から少し離れると、人通りはほとんどなくなった。

街灯が一定の間隔で並んでいる。

車の音も少ない。

由紀はスマートフォンをバッグにしまった。

そのときだった。

遠くから、大きなエンジン音が聞こえた。

振り返る。

大型トラックが近づいてきていた。

交差点。

信号は、由紀の側が青だった。

由紀は歩き出した。

次の瞬間――

強い衝撃。

身体が宙に浮いた。

何が起きたのか分からなかった。

地面に倒れる。

音が遠くなる。

トラックは、そのまま走り去っていった。

「……え……?」

声が出ない。

身体を動かそうとした。

動かない。

痛かった。

けれど、それ以上に怖かった。

由紀は手を伸ばした。

少し離れたところに、スマートフォンが落ちている。

画面が光っている。

さっき撮影された、自分の歌の動画。

由紀は必死に手を伸ばした。

届かない。

もう一度。

届かない。

「……誰か……」

声が震えた。

周囲を見る。

誰もいない。

車も来ない。

人の気配もない。

「……誰か……助けて……」

返事はなかった。

街灯だけが、静かに道路を照らしていた。

由紀は、もう一度スマートフォンを見た。

画面には、自分の歌。

そして、通知。

先ほど見た歌手のニュースだった。

ドーム公演。

完売。

数万人。

由紀は目を閉じた。

「……私……」

涙が一筋、頬を流れた。

「……最後まで……誰にも見てもらえないんだ……」

誰にも見つけてもらえない。

誰にも声をかけてもらえない。

救急車も来ない。

誰かが手を握ってくれることもない。

母親もいない。

友達もいない。

ファンもいない。

観客もいない。

あれだけ、たくさんの人に見てもらいたいと思っていた。

あれだけ、たくさんの人に歌を届けたいと思っていた。

それなのに。

最後に自分を見ているのは――

スマートフォンの中の、自分自身だけだった。

「……頑張ったのにな……」

誰に言うでもなく、呟いた。

「私……ずっと……頑張ったのに……」

返事はない。

夜は静かだった。

時間だけが過ぎていく。

そして――

由紀は、誰にも発見されないまま、静かに息を引き取り人生最後の幕を降ろした。

二十九歳だった。

***

目を開けると、真っ白な場所にいた。

痛みはなかった。

由紀はゆっくり身体を起こした。

「……ここ……どこ?」

「どーも」

聞き覚えのある声。

振り向く。

そこには、コンビニの袋を持った男が立っていた。

「42紙です」

「……」

「えぇ、死神です」

由紀はしばらく黙っていた。

それから、ぽつりと言った。

「……死んだんですか?」

「はい」

「私……」

言葉が続かない。

42紙は何も言わなかった。

由紀は俯いた。

「……誰にも、見つけてもらえなかった」

「……」

「私、ずっと歌ってたんです」

「はい」

「たくさんの人に聴いてほしくて」

「はい」

「有名になりたくて……」

「はい」

「でも、なれなかった」

42紙は黙って聞いていた。

「最後くらい……」

由紀は唇を噛んだ。

「最後くらい、誰かに見つけてもらいたかった……」

42紙は、少しだけ目を伏せた。

そして、いつものように二枚の紙を取り出した。

白い紙。

何も書かれていない二枚。

「一枚は4」

由紀は紙を見る。

「もう一枚は2」

「……」

「4なら、幸福な死」

「2なら?」

「不幸な死」

由紀は笑った。

力のない笑いだった。

「……もう死んでるのに?」

「そうですね」

「今さら……?」

「そうなんですよ」

42紙は少し困ったように笑った。

「死神なのに、説明が雑ですね」

「自覚はあります」

由紀は二枚の紙を見た。

「どっちが4?」

「分かりません」

「あなたにも?」

「俺にも分かりません」

「……おかしいよ」

「よく言われます」

「死神なのに?」

「死神だからって、何でも知ってるわけじゃないんですよ」

由紀はしばらく黙った。

そして、ふと思い出したように聞いた。

「……神様は?」

42紙は答えた。

「いません」

「……」

「天国もありません」

「地獄も?」

「ありません」

「生まれ変わりも?」

「ありません」

由紀は目を閉じた。

「……じゃあ、私が頑張ってきた意味は?」

42紙は答えなかった。

答えられなかった。

由紀は二枚の紙を見る。

「私……頑張ったよ」

「はい」

「本当に頑張った」

「知ってます」

「誰よりも頑張ったつもりだった」

「……はい」

「それでも、夢は叶わなかった」

42紙は、静かに言った。

「そうですね」

慰めることもしなかった。

「頑張れば必ず夢が叶う」とも言わなかった。

由紀は、その答えを聞いて少しだけ笑った。

「……そっか」

そして――

一枚の紙を選んだ。

「これ……」

42紙が受け取る。

紙を裏返す。

そこに、小さく書かれていた。

「……2」

由紀は目を閉じた。

「……そっか」

怒らなかった。

泣きもしなかった。

ただ、静かに笑った。

「最後まで……私らしいね」

42紙は何も言わなかった。

由紀は二枚の紙を見つめた。

「ねえ」

「はい」

「もし、もう一回やり直せたら……」

少しだけ間を置いて。

「私、また歌うと思う」

42紙が由紀を見る。

「……夢が叶わなくても?」

「うん」

「どうしてですか?」

由紀は考えた。

そして、ほんの少しだけ笑った。

「……歌ってるときだけは、幸せだったから」

42紙は答えなかった。

だた静かに由紀を見ていた。

やがて、白い空間に二人の姿が溶けていく。

***

翌朝。

由紀が最後に歌った小さなイベント会場では、誰も彼女の死を知らなかった。

昨日のステージで撮影された動画だけが、誰かのスマートフォンに残っていた。

再生すると――

小さなステージの上で、由紀が笑っている。

「ありがとうございました!」

小さな拍手。

小さな笑顔。

誰にも知られないまま終わった、ほんの短い時間。

それでも彼女は、確かに歌っていた。

***

夜。

青年は眠れずにいた。

時計を見る。

2時17分。

ベッドの横には、いつもの二枚の紙。

白紙のまま。

青年は、その紙を見つめた。

「……努力しても、夢が叶わないことってあるんだな」

暗闇の中から声がした。

「ありますよ」

42紙だった。

「じゃあ……」

青年は振り返る。

「努力する意味って、何なんだ?」

42紙は少し考えた。

「……さあ」

「分からないのか?」

「分かりません」

いつもの答えだった。

青年は二枚の紙を見る。

4。

2。

どちらが幸福なのか。

どちらが不幸なのか。

誰にも分からない。

努力した人が4になるわけでもない。

悪い人が2になるわけでもない。

夢を叶えた人が4になるわけでもない。

夢を叶えられなかった人が2になるわけでもない。

ただ――

人は最後に、二枚の紙の前に立つ。

そして、自分で一枚を選ぶ。

42紙は、静かに言った。

「人生って……」

少しだけ笑う。

「思ったより、難しいですよね」

青年は答えなかった。

時計の針だけが動いていた。

2時17分。

二枚の紙は、まだ白い。

その白さが――

なぜか、少し怖かった。

――第六話・完――

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