第5話「4」
42紙
第五話 4
人には、それぞれ違う人生がある。
生まれた家。
育った環境。
出会った人。
失ったもの。
手に入れたもの。
同じように努力しても、同じ結果になるとは限らない。
それでも――
人は、生きる。
彼女の名前は、山本美咲。
三十九歳。
小さな弁当屋を営んでいた。
店の名前は――
「ひだまり」
だった。
朝は五時に起きる。
まだ外が暗いうちに家を出る。
店に着くと、米を炊き、野菜を切り、肉を仕込む。
六時半には店を開ける。
昼になると、近くの会社員や工事現場の作業員たちが弁当を買いに来る。
「いつもの」
そう言われれば、
「はい、今日もありがとうございます」
と笑う。
一日が終わるのは、夜の八時を過ぎてから。
店を閉め、片付けをして、自宅へ帰る。
狭いアパート。
一人暮らし。
冷蔵庫を開ける。
売れ残った惣菜が少しだけ入っている。
美咲はそれを温めた。
「いただきます」
誰もいない部屋で、一人で食べる。
それでも、美咲は笑っていた。
「今日も、よく頑張った」
自分自身に、そう言うのが日課だった。
美咲が十歳のとき。
父親が家を出ていった。
借金を残して。
母親は昼も夜も働いた。
美咲は学校から帰ると、弟の面倒を見た。
高校に入る頃には、家計を助けるためにアルバイトを始めた。
本当は大学に行きたかった。
教師になりたかった。
けれど、弟の進学を優先した。
「お姉ちゃんはいいよ」
弟は何度もそう言った。
美咲は笑った。
「私は働くの好きだから」
本当は違った。
夢を諦めたことを、誰にも言えなかっただけだった。
二十五歳のとき。
母親が病気になった。
美咲は働きながら、病院へ通った。
仕事が終わってから病院へ行く。
母親の着替えを手伝う。
薬を飲ませる。
夜遅くに帰る。
それでも、翌朝には仕事へ行く。
ある朝。
母親が言った。
「美咲……もういいよ」
「何が?」
「私のこと」
美咲は笑った。
「何言ってるの」
「あなた、自分の人生を生きなさい」
美咲は答えなかった。
その数か月後。
母親は亡くなった。
病院の廊下で、美咲は一人で泣いた。
声を出さないように。
誰にも迷惑をかけないように。
泣き終わるまで、誰にも見つからない場所で。
その後、弟が結婚した。
美咲は心から喜んだ。
「おめでとう」
「姉ちゃん、今までありがとう」
「何言ってるの」
笑って送り出した。
弟には、幸せになってほしかった。
それだけだった。
けれど、その頃から美咲は、自分の人生について考えることが増えた。
私は何をしてきたんだろう。
家族のため。
母親のため。
弟のため。
仕事のため。
誰かのために生きてきた。
では、自分は?
自分のために何かしたことがあっただろうか。
答えは、すぐには出なかった。
三十六歳。
美咲は、今の弁当屋で働き始めた。
最初は、ただの仕事だった。
だが、少しずつ変わっていった。
常連客が、
「ここの弁当、うまいね」
と言ってくれる。
工事現場の男性が、
「今日も助かったよ」
と笑ってくれる。
一人暮らしの高齢女性が、
「あなたの顔を見ると安心するの」
と言ってくれる。
そんな言葉が、少しずつ美咲の心に残った。
ある日、店長が言った。
「美咲さん、料理好きなんだね」
「……はい」
「自分で店やってみたら?」
美咲は笑った。
「私には無理ですよ」
「なんで?」
「お金もないし」
「じゃあ、貯めればいい」
「……」
その言葉が、なぜか忘れられなかった。
美咲は少しずつお金を貯め始めた。
仕事が終わったあと、料理の勉強をした。
休みの日には、いろんな店を見て回った。
失敗もした。
仕込みを間違えた。
弁当を焦がした。
食材を無駄にした。
店を出すために借金をする勇気もなく、何度も諦めかけた。
それでも、少しずつ前に進んだ。
三十九歳の春。
ようやく、小さな店を借りることができた。
店の名前は、
「ひだまり」
だった。
開店初日。
客は三人しか来なかった。
閉店後、美咲は売れ残った弁当を見ながら笑った。
「……三個か」
それでも嬉しかった。
三個売れた。
翌日は五個。
その次の日は七個。
少しずつ客が増えていった。
美咲は忙しかった。
けれど、毎日が楽しかった。
ある夜、店を閉めたあと。
美咲は店の看板を見上げた。
「私、やっと自分の人生を生きてる」
そう思った。
しかし。
幸せな時間は、長く続かなかった。
ある冬の朝。
美咲は店へ向かう途中で、突然立ち止まった。
息が…呼吸が苦しい。
「……あれ?」
少し休めば大丈夫。
そう思った。
だが、その日から体調がおかしくなった。
病院で検査を受ける。
医師は、静かに説明した。
「かなり進行しています」
美咲は黙って聞いていた。
「治療を始めましょう」
「……はい」
「仕事は?」
美咲は少し考えた。
「続けたいです」
医師は困ったように笑った。
「無理はしないでください」
「分かりました」
そう答えた。
でも、翌朝も店を開けた。
病気は少しずつ進行した。
できることが減っていった。
重い鍋を持てなくなった。
長時間立っていられなくなった。
それでも、美咲は店を続けた。
常連客が心配して声をかける。
「最近、痩せた?」
「ちょっとダイエットしてるんです」
美咲は笑った。
誰にも心配をかけたくなかった。
ある日。
小さな女の子が母親と一緒に店へ来た。
女の子は弁当を受け取ると、
「お姉ちゃん、ありがとう!」
と言った。
美咲は笑った。
「こちらこそ、ありがとう」
女の子が帰ったあと。
美咲は店の奥で、少しだけ泣いた。
嬉しかった。
自分が作ったものを、誰かが喜んでくれる。
それだけでよかった。
そして、ある夜。
美咲は自宅で倒れた。
救急車が呼ばれた。
病院へ運ばれた。
弟が駆けつけた。
「姉ちゃん!」
美咲は目を開けた。
「……来たの?」
「当たり前だろ」
「仕事は?」
「そんなのどうでもいいよ」
美咲は少し笑った。
「そっか……」
弟の手を握る。
「幸せになってね」
「何言ってんだよ」
「約束」
弟は泣きながら頷いた。
「……分かった」
美咲は目を閉じた。
そして――
もう一度、目を開けた。
白い空間だった。
「……ここ、どこ?」
「どーも」
聞き覚えのある声。
振り向くと、コンビニの袋を持った男が立っている。
「42紙です」
「……死神?」
「えぇ、死神です」
美咲は42紙を見つめた。
不思議と怖くなかった。
「本当に、死んだんですか?」
「はい」
美咲は少し黙った。
そして、小さく息を吐いた。
「……そうですか」
42紙は二枚の紙を取り出した。
「一枚は4」
「もう一枚は2」
「4なら幸福な死」
「2なら不幸な死」
美咲は二枚の紙を見る。
「どっちが4なんですか?」
「分かりません」
「死神なのに?」
「死神だからって、全部知ってるわけじゃないんですよ」
美咲は少し笑った。
「そうなんだ」
「はい」
美咲は二枚の紙を見つめた。
長い人生だった。
苦労ばかりだった。
諦めたこともあった。
泣いた夜もあった。
それでも――
最後には、自分の店を持つことができた。
美咲は、目を閉じた。
そして、小さく呟いた。
「私……頑張ったな」
42紙は何も言わなかった。
美咲は一枚の紙に手を伸ばした。
「これにします」
紙を開く。
そこには――
4
と書かれていた。
42紙が静かに言う。
「……4ですね」
美咲は数字を見つめた。
そして――
笑った。
「よかった」
次の瞬間。
美咲は病室にいた。
朝だった。
窓から柔らかな光が差し込んでいる。
身体が軽い。
痛みがない。
呼吸も苦しくない。
「……朝?」
隣を見る。
弟が椅子に座ったまま眠っていた。
美咲は少し笑った。
「……昔と同じだ」
弟が子供だった頃。
母親が仕事に出ている間、二人で同じ部屋で眠った。
あの頃と同じ顔。
ただ、もう子供ではない。
「大きくなったね……」
美咲が呟くと、弟が目を覚ました。
「……姉ちゃん?」
「おはよう」
「体、大丈夫?」
「うん」
美咲は笑った。
「今までで、一番調子いいかも」
弟は泣きそうな顔をした。
「そっか……」
「ねえ」
「何?」
「カーテン、開けて」
弟がカーテンを開ける。
朝の街が見えた。
青い空。
遠くを走る電車。
道を歩く人。
コンビニの前で話している学生。
どこにでもある、ごく普通の朝。
美咲は、その景色を見ながら笑った。
「……きれい」
「いつも見てたじゃん」
「うん」
「何が違うの?」
美咲は少し考えた。
「今日が最後かもしれないって思うと……全部、大切に見える」
弟は何も言えなかった。
美咲は笑った。
「でもね」
「うん」
「怖くないよ」
弟が顔を上げる。
「怖くない?」
「うん」
美咲は自分の手を見つめた。
「私、ちゃんと生きたと思う」
母親のこと。
弟のこと。
仕事のこと。
自分の店。
辛かったこともたくさんあった。
泣いた夜もあった。
諦めたこともあった。
それでも――
最後には、自分の名前をつけた店を持つことができた。
「ひだまり……」
美咲が呟く。
「いい名前だったね」
「うん」
「私ね」
美咲は弟を見る。
「ずっと、自分の人生って何なんだろうって思ってた」
「……」
「でも、違った」
「何が?」
「ちゃんとあったよ」
美咲は笑った。
「私の人生」
弟の目から涙が落ちた。
「姉ちゃん……」
「お母さんにも、見せたかったな」
その瞬間。
美咲の視線の先に、人影が見えた。
病室の入口。
若い頃の母親だった。
美咲は目を見開く。
「……お母さん?」
弟には何も見えていない。
母親は何も言わない。
ただ、いつものように笑っている。
美咲も笑った。
「……そっか」
母親の隣には、幼い頃の自分がいる。
その横には、小さな弟。
三人で笑っている。
美咲の目から涙がこぼれた。
「懐かしいね」
母親は何も言わない。
けれど、美咲には分かった。
――もういいよ。
――十分頑張ったよ。
そんなふうに言われている気がした。
美咲は弟の手を握った。
「ねえ」
「うん」
「私、幸せだったよ」
「……うん」
「本当に」
弟は泣きながら頷いた。
「俺も……姉ちゃんが姉ちゃんでよかった」
美咲は笑った。
そして――
最後に一度だけ、深く息を吸った。
苦しくない。
痛くない。
怖くない。
窓から暖かな風が入ってくる。
カーテンが静かに揺れる。
その風に乗って、どこからか小さな花の匂いがした。
美咲は目を閉じる。
「……あったかい」
そして微笑んだ。
「お母さん……」
ほんの少し間を置いて。
「……ただいま」
その言葉を最後に、美咲の身体から力が抜けた。
弟が握っていた手は、最後まで温かかった。
「姉ちゃん……?」
返事はない。
けれど――
美咲の顔には、穏やかな笑顔が残っていた。
泣いているようには見えなかった。
苦しんでいるようにも見えなかった。
まるで――
長い旅を終えて、ようやく帰ってきた人のようだった。
弟は、美咲の手を握ったまま泣いていた。
けれど、その顔にはどこか笑みもあった。
「……姉ちゃん」
「よかったな」
白い空間。
42紙は、一人で立っていた。
手には、美咲が選んだ紙。
4。
42紙はしばらく、その数字を見つめていた。
「……幸福な死、か」
いつもの軽い口調ではなかった。
「……これなら」
少し間を置いて。
「幸福な死って言っても、いいのかもしれませんね」
42紙は二枚の紙を見つめた。
美咲が努力したから4だったのか。
苦労したから4だったのか。
優しい人間だったから4だったのか。
それは分からない。
42紙にも分からない。
ただ――
彼女は最後に4を選んだ。
そして、幸せに死んだ。
42紙は小さく呟いた。
「……頑張りましたね」
誰も聞いていない場所で。
翌日。
青年は、弁当屋「ひだまり」の前に立っていた。
店には、
「臨時休業」
の札がかかっている。
入口には、一枚の紙。
そこには、
「今までありがとうございました」
と書かれていた。
青年は、その文字をしばらく見つめていた。
「昨日の女性……」
背後から声がする。
「はい」
42紙だった。
「4を選んだんだな」
「はい」
「……幸せだった?」
42紙は少し考えた。
「最後は、幸せだったと思います」
青年は店を見る。
「苦労して、頑張って……最後は4だった」
「それは違います」
青年が振り返る。
「え?」
「頑張ったから4だったとは限りません」
「……」
「4と2は、善人と悪人を分けるものじゃない」
「頑張った人間と、頑張らなかった人間を分けるものでもない」
「じゃあ、何なんだ?」
42紙は少し笑った。
「……俺にも分かりません」
青年は黙って店を見る。
小さな看板。
ひだまり。
「でも……」
青年が呟く。
「最後に、あの人が幸せだったなら……」
42紙は答えなかった。
二人はしばらく、店の前に立っていた。
やがて青年が歩き出す。
その背中を見ながら、42紙が小さく呟いた。
「……次は、誰でしょうね」
青年は振り返らない。
朝の街を歩いていく。
人が歩いている。
車が走っている。
店が開く。
学校へ向かう子供たちが笑っている。
誰も、自分がいつ死ぬのかなんて知らない。
だからこそ――
今日を生きている。
青年はふと、ポケットの中に手を入れた。
そこには、あの二枚の紙があった。
4。
2。
どちらが自分を待っているのか。
まだ分からない。
そして――
選ぶその瞬間まで、誰にも分からない。
――第五話・完――




