第4話「2」
42紙
第四話 2
人が死ぬとき、その人が善人だったか悪人だったかなんて、死そのものには関係がない。
事故は、善人も悪人も選ばない。
病気も、年齢や性格を選ばない。
そして――死に方もまた、人間の都合では決まらない。
ただ、その男の場合。
最期の時間だけは、あまりにも惨めだった。
黒田浩二、四十七歳。
小さな運送会社を経営していた。
社員は十五人ほど。
会社を始めた頃は、黒田も真面目だった。
朝は誰より早く出社し、トラックの点検をしていた。
社員の名前も全員覚えていた。
「お前、ちゃんと飯食ってるか?」
そんな声をかけることもあった。
だが、会社が大きくなるにつれて、黒田は変わっていった。
売上。
利益。
数字。
それ以外のものが、だんだん邪魔になっていった。
社員の残業代を削った。
事故を起こした運転手に責任を押しつけた。
取引先とのトラブルも、立場の弱い社員に謝らせた。
辞めようとする社員には、
「ここを辞めたら、次の仕事なんて見つからないぞ」
と平気で言った。
それでも会社は続いていた。
誰も黒田に逆らわなかった。
正確には――
逆らう余裕がなかった。
家族を養わなければならない。
住宅ローンがある。
子供の学費がある。
だから、みんな黙っていた。
黒田は、それを「自分の力」だと思っていた。
その日の午後。
事務所の奥で、女性社員が黒田の前に立っていた。
三十二歳の佐々木だった。
「社長……」
「何だ?」
「先月の給料のことなんですが」
「またその話か」
「残業代が、三万円ほど足りません」
黒田はパソコンから目を離さなかった。
「計算間違いだろ」
「経理にも確認しました」
「じゃあ経理に聞けよ」
「経理から、社長の指示だと……」
黒田の手が止まった。
「……何?」
佐々木は少しだけ黙った。
「私たち、ちゃんと働いてます」
「知ってるよ」
「だったら……」
「だったら何だ?」
黒田は顔を上げた。
「会社を潰したいのか?」
「そんな……」
「今、会社がどれだけ厳しいか分かってるのか?」
「でも、それと給料は――」
「嫌なら辞めればいい」
佐々木は唇を噛んだ。
しばらくして、
「……分かりました」
とだけ言って、部屋を出ていった。
ドアが閉まる。
黒田は鼻で笑った。
「どいつもこいつも……」
机の上には、社員から天引きした金の入った封筒があった。
黒田はそれを鞄に入れた。
自分のための金だった。
会社の金。
社員の金。
そんな区別を、黒田はもうしていなかった。
夜九時過ぎ。
事務所には黒田一人しかいなかった。
スマートフォンが鳴った。
妻からだった。
黒田は少し迷ってから電話に出た。
「何?」
『今日、帰ってくるの?』
「分からない」
『かりん、明日が大会だから』
「だから?」
電話の向こうが静かになる。
『……最近、家に帰ってこないね』
「仕事なんだから仕方ないだろ」
『そういう意味じゃ――』
「もういいよ」
黒田は電話を切った。
机の上にスマートフォンを置く。
そして、ため息をついた。
「面倒くせえな……」
そのまま仕事を続けた。
午後十時四十分。
ようやく会社を出る。
外は雨だった。
黒田は傘を開き、駐車場へ向かった。
車に乗り込む。
エンジンをかける。
スマートフォンには、不在着信が一件。
娘、かりんからだった。
黒田は画面を見た。
しかし、かけ直さなかった。
「……明日でいい」
そう呟いて、車を走らせた。
自宅に着いたのは、午後十一時半を過ぎた頃だった。
家の明かりはついていた。
妻は起きていた。
「ご飯、いる?」
「いらない」
「かりんが――」
「疲れてるんだよ」
黒田は靴を脱ぎ、妻の横を通り過ぎた。
「お風呂、沸いてるから」
「入らない」
「……そう」
それだけだった。
妻は何も言わなかった。
黒田は二階へ上がった。
自分の部屋に入り、鞄から封筒を取り出す。
金庫を開ける。
その中には、今まで隠してきた金が入っていた。
黒田は封筒を出し、机に並べながら笑った。
「……これだけあれば、何とかなる」
会社がどうなろうと、自分だけは大丈夫。
ずっと、そう思っていた。
そのときだった。
胸の奥に、妙な痛みを感じた。
「……ん?」
少し休めば治る。
そう思った。
しかし、痛みは消えなかった。
むしろ、どんどん強くなっていく。
「……なんだ、これ」
胸を押さえる。
息が苦しい。
冷たい汗が額から流れた。
黒田は椅子から立ち上がった。
「……母さん……」
思わず妻を呼ぼうとした。
だが、声が出ない。
机に手をつく。
スマートフォンが見える。
あと少し。
手を伸ばす。
けれど、指が震えて画面を押せない。
黒田は床に膝をついた。
「……救急……」
声にならない。
スマートフォンが手から落ちた。
床に当たり、画面が点灯する。
そこには、娘からの不在着信。
黒田はその画面を見つめた。
「……ごめん……」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
そのまま、黒田は床に倒れた。
二階から物音がした。
妻が階段を上がってくる。
「あなた?」
返事がない。
「どうしたの?」
ドアを開ける。
そして――
妻はその場で立ち尽くした。
「……あなた?」
黒田は動かなかった。
妻が駆け寄る。
「あなた!」
救急車が呼ばれた。
だが、黒田は助からなかった。
目を開ける。
白い場所だった。
黒田はゆっくり身体を起こした。
「……ここは?」
目の前に、男が立っている。
コンビニの袋を持っていた。
「どーも」
黒田は怪訝そうな顔をする。
「……誰だ?」
「42紙です」
「は?」
「えぇ、死神です」
黒田はしばらく男を見る。
そして鼻で笑った。
「くだらない」
「よく言われます」
「俺は死んだのか?」
「はい」
黒田の顔から笑みが消えた。
「……本当に?」
「本当に」
42紙は二枚の紙を取り出した。
「いつものやつです」
「何だ、それ」
「一枚は4」
「もう一枚は2」
「4なら幸福な死」
「2なら不幸な死」
黒田は二枚の紙を見つめた。
「どっちが4だ?」
「分かりません」
「死神なのに?」
「死神だからって、何でも知ってるわけじゃないんですよ」
黒田は黙った。
「じゃあ、何のために二枚ある?」
「選ぶためです」
「選んだ結果は?」
「選んでみれば分かります」
黒田は笑った。
「……くだらない」
「そうかもしれませんね」
黒田は二枚の紙を見比べた。
そして、一枚を取った。
「これだ」
紙を開く。
そこに書かれていた数字は――
2
黒田の表情が変わった。
「……2?」
「はい」
「待て」
「はい?」
「交換だ」
「できません」
「いいから交換しろ」
「一度選んだ紙は交換できません」
「俺はそんなの聞いてないぞ!」
「今、説明しました」
「ふざけるな!」
黒田は42紙に詰め寄った。
「俺はまだ――」
そこで、黒田の言葉が止まった。
目の前が暗くなる。
気がつくと、自宅の二階だった。
「……?」
黒田は床に倒れている自分を見た。
妻が叫んでいる。
「救急車、お願いします!」
電話の声。
サイレン。
慌ただしい足音。
救急隊員が部屋に入ってくる。
「聞こえますか!」
「……」
黒田は叫んだ。
「ここだ!」
誰も反応しない。
「俺はここだ!」
声が届かない。
妻が泣いている。
「お願いします……助けてください……」
黒田は自分の身体に触れようとした。
手がすり抜ける。
「……何だよ、これ」
その瞬間。
激しい痛みが戻ってきた。
胸が締めつけられる。
息ができない。
さっきまで死んだと思っていた痛みが、もう一度始まった。
「やめろ……」
黒田は床に倒れた。
「もう死んだんだろ……」
それでも痛みは続く。
救急隊員が心臓マッサージをしている。
妻が泣きながら名前を呼んでいる。
黒田は、そのすぐ横にいる。
なのに――
誰にも触れられない。
声も届かない。
そして、自分だけが、その瞬間を知っている。
「……苦しい……」
黒田は這うように妻のところへ向かった。
「……助けてくれ」
妻は泣いている。
「お願い……」
「俺はここにいる……」
妻は黒田の身体を見つめている。
黒田の存在には気づかない。
救急隊員が言った。
「……ご家族の方、もう少し離れてください」
「嫌です!」
妻が叫んだ。
「まだ生きてますよね?」
救急隊員は答えなかった。
黒田は、その会話を聞いていた。
そして初めて――
自分が本当に死ぬのだと理解した。
「……嫌だ」
誰にも届かない声だった。
「嫌だ……」
しばらくして、病院。
黒田の身体は救急搬送された。
妻は廊下の椅子に座っていた。
黒田は、その隣に立っていた。
妻は泣いていた。
何度もスマートフォンを見ている。
そこには娘からのメッセージがあった。
《パパ、大丈夫?》
《電話したけど出ないから心配してる》
黒田は画面を見つめた。
「……返事しろよ」
自分でも分からない言葉だった。
「電話してやれよ……」
もちろん、できない。
医師が出てくる。
妻が立ち上がる。
「先生……」
医師は静かに頭を下げた。
黒田は、その場に座り込んだ。
「……嘘だろ」
誰も答えない。
「俺、まだ……」
妻が泣き崩れる。
その姿を見ながら、黒田は初めて気づいた。
自分が死ぬことよりも。
自分が死んだあとに残されるもののほうが、怖かった。
会社。
金。
家。
家族。
全部、自分が握っていると思っていた。
けれど――
死んだ瞬間、それらは全部、自分の手から離れていた。
その夜。
病院の屋上。
黒田は一人で立っていた。
誰にも見えない。
誰にも聞こえない。
42紙が隣に立っていた。
「……これが2なのか」
黒田が聞いた。
「はい」
「こんなの……」
言葉が続かない。
42紙は何も言わない。
黒田はしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「俺は……悪い人間だったから、こうなったのか?」
42紙は首を横に振った。
「違います」
「じゃあ、何なんだよ」
「分かりません」
「……」
「俺にも分かりません」
42紙は夜の街を見下ろした。
「4と2は、善人と悪人を分けるものじゃありません」
「人間の善悪を、俺が決めるものでもない」
「悪い人間だから2になるわけじゃない」
黒田は黙っていた。
42紙は続ける。
「あなたが選んだ紙が、2だった」
「ただ、それだけです」
黒田は目を閉じた。
「……そうか」
そして、小さく笑った。
今まで誰かを見下すときに浮かべていた笑いではなかった。
力のない、寂しい笑いだった。
「……俺、最後まで運が悪かったな」
42紙は答えなかった。
しばらくして、黒田は聞いた。
「なあ」
「はい」
「死んだ後って……何があるんだ?」
42紙は少しだけ間を置いた。
「知りません」
「死神なのに?」
「死神だからって、死んだ後のことまで知ってるわけじゃないですよ」
黒田は夜空を見上げた。
「……そうか」
それが最後だった。
黒田は、静かに消えていった。
翌朝。
青年はスマートフォンのニュースを見ていた。
《会社経営者の男性、自宅で死亡》
短い記事だった。
詳しい事情までは書かれていない。
ただ、四十七歳の男性が自宅で倒れ、搬送先の病院で死亡が確認されたとだけ書かれていた。
画面を閉じた。
「……昨日の人だ」
後ろから声がした。
「そうですね」
42紙だった。
「2を選んだんだよな」
「はい」
「不幸な死だった?」
「はい」
青年はしばらく黙っていた。
「……悪い人間だったから?」
42紙は首を横に振った。
「違います」
「じゃあ?」
42紙は二枚の紙を取り出した。
白い紙。
4と2。
「悪人だから2を引いて、不幸な死に方をしたわけじゃない。」
青年は紙を見つめる。
「4と2は、善人と悪人を分けるものじゃありません」
「人間の善悪を、俺が決めるものでもない」
42紙は、二枚の紙をしまった。
「ただ、最後に――」
少しだけ笑う。
「どちらかを選ぶ」
「それだけです」
青年は何も答えなかった。
窓の外では、いつもと変わらない朝が始まっていた。
人が歩いている。
車が走っている。
コンビニの店員が店を開けている。
誰も、自分がいつ死ぬのかなんて知らない。
青年は、自分の手を見つめた。
そして思った。
――もし、自分の前に二枚の紙が置かれたら。
自分は、どちらを選ぶのだろう。
その答えは、まだ分からない。
時計を見る。
午前2時17分。
いつもの時間だった。
机の上には――
二枚の白い紙が置かれていた。
そして、そのうち一枚の端にだけ。
一瞬。
「4」
のような影が浮かんだ。
青年が目を凝らした瞬間。
消えた。
「……」
背後から、42紙の声がした。
「まだですよ」
青年が振り返る。
誰もいない。
ただ、二枚の紙だけが残っていた。
4なのか。
2なのか。
まだ、誰にも分からない。
そして――
選んだ本人にも、その瞬間までは分からない。
――第四話・終――




