第3話「祈り」
42紙
第三話 祈り
朝。
青年は、目を覚ますとすぐに机の上を見た。
二枚の白い紙。
昨日と変わらない。
どちらにも数字は書かれていない。
けれど、青年の頭には、昨夜の出来事が残っていた。
――「4」。
確かに見えた。
一瞬だけ、紙に浮かんだ数字。
だが、あれが本当に「4」だったのかは分からない。
「……気にするな」
青年は自分に言い聞かせるように呟いた。
「まだ、死ぬわけじゃない」
そう言って、仕事へ向かった。
◇
その日の昼休み。
青年は会社の近くにある小さな病院へ向かった。
特に用事があったわけではない。
ただ、昨日から「病気」という言葉が妙に頭に残っていた。
病院の入口には、小さな神棚があった。
その前で、一人の女性が手を合わせている。
二十代半ばくらいだろうか。
長い髪を後ろでまとめ、両手を固く握りしめていた。
「……お願いします」
女性は小さな声で呟いていた。
「どうか……お母さんを助けてください」
青年は足を止めた。
女性は目を閉じたまま、何度も祈っている。
「神様……お願いします」
青年は、その言葉を聞いていた。
そして、昨日の42紙の言葉を思い出した。
――神様はいません。
それでも、この女性は祈っている。
青年は、その場を離れようとした。
だが――。
「あの……」
女性のほうから声をかけてきた。
「はい?」
「すみません」
女性は少し恥ずかしそうに笑った。
「今、私……変なこと言ってましたよね?」
「いえ」
「聞こえました?」
「……少し」
「ですよね」
女性は苦笑した。
「恥ずかしいな」
「お母さんが入院してるんですか?」
「はい」
女性は病院の中を見る。
「もう、三週間になります」
「そうですか……」
「治る病気なんですけど」
女性はそこで言葉を止めた。
「治療が大変で……」
「……」
「だから、毎日ここで祈ってるんです」
青年は神棚を見る。
「神様を信じてるんですか?」
女性は少し考えた。
「……分かりません」
「え?」
「神様を見たことなんてないですから」
その答えに、青年は少し驚いた。
「じゃあ、どうして祈るんですか?」
女性は黙った。
しばらくして、小さく笑った。
「祈らないよりは、祈ったほうがいいかなって」
「……」
「何かできることがあるなら、何でもしたいんです」
女性は自分の手を見つめた。
「でも、私には病気を治すことなんてできないから」
そして、神棚を見る。
「だから……お願いするしかなくて」
青年は何も言えなかった。
◇
「秋山さん」
病院の廊下から、看護師の声がした。
「お母さん、今なら面会できますよ」
「本当ですか?」
女性の顔が明るくなる。
「ありがとうございます」
女性は青年に頭を下げた。
「すみません。急に話しかけちゃって」
「いえ」
「……もしよかったら」
女性は少し笑った。
「お母さんに会っていきます?」
「俺が?」
「はい」
「いや、知らない人だし……」
「あ、そうですよね」
女性は慌てて手を振った。
「すみません」
「でも……」
青年は少し考えた。
「お母さん、喜ぶんじゃないですか?」
「……たぶん」
女性は笑った。
「じゃあ、行ってきます」
「はい」
女性は病室へ向かった。
青年はその背中を見送った。
なぜか、その姿が頭から離れなかった。
◇
夕方。
青年が病院の前を通ると、朝の女性がベンチに座っていた。
「……あ」
女性が青年に気づく。
「朝の人」
「まだいたんですか?」
「はい」
女性は笑った。
「母が眠ったので」
「そうですか」
「今日は少し調子が良かったんです」
女性は嬉しそうに話した。
「久しぶりに笑ってくれて」
「それは良かったですね」
「はい」
女性は空を見上げた。
「だから、今日も祈ってきました」
「……神様に?」
「はい」
青年は少し迷ってから聞いた。
「もし……神様がいないって言われたら、どうします?」
女性は青年を見る。
「どういう意味ですか?」
「いや……」
青年は言葉を探した。
「神様が、本当はいないとしたら」
女性はしばらく黙った。
「それでも祈ります」
「……どうして?」
「母に元気になってほしいから」
あまりにもまっすぐな答えだった。
「神様がいるかどうかより」
女性は笑った。
「私は、母が元気になってほしいんです」
「……」
「だから祈ります」
青年は何も言えなかった。
◇
夜。
青年が家に帰る。
部屋には、二枚の紙。
青年は椅子に座った。
「……祈りか」
昼間の女性の言葉が頭から離れない。
神がいない。
それでも人は祈る。
神が救ってくれると信じているからなのか。
それとも――。
自分にはどうすることもできないからなのか。
「分からないな……」
「何がです?」
「うわっ!」
突然、後ろから声がした。
「びっくりした……」
振り返ると、42紙が立っていた。
「こんばんは」
「いつからいた?」
「今来たところです」
「お前、本当に気配ないな」
「死神ですから」
「それ、便利すぎないか?」
「便利ですよ」
42紙は笑った。
「今日は何を考えてたんです?」
「祈りについて」
「ああ」
42紙はすぐに理解した。
「人間は、よく祈りますからね」
「神がいないのに?」
「はい」
「意味あるのか?」
42紙は少し考えた。
「分かりません」
「お前、そればっかりだな」
「本当に分からないんですよ」
42紙は笑った。
「でも」
「……?」
「祈った時間まで、嘘になるわけじゃないでしょう」
青年は黙った。
「神様がいなくても」
42紙は続ける。
「誰かの病気が治りますようにって願った時間」
「誰かが無事でありますようにって願った時間」
「大切な人が幸せでありますようにって願った時間」
42紙は青年を見る。
「その気持ちまで、なくなるわけじゃない」
「……」
「神様が叶えたわけじゃないですよ」
42紙は念を押すように言った。
「神様はいませんから」
「じゃあ、何が残る?」
「その人が、その人を大切に思ったことです」
青年は、昼間の女性を思い出した。
◇
翌日。
青年は病院へ向かった。
朝の女性を探した。
しばらくして、廊下の先に姿を見つける。
「おはようございます」
「あ……」
女性が振り返った。
「昨日の人」
「お母さん、どうですか?」
「少し良くなりました」
女性は笑った。
「先生が、治療の効果が出てきてるって」
「本当ですか?」
「はい」
その笑顔を見て、青年も笑った。
「良かったですね」
「ありがとうございます」
女性は頭を下げる。
「……昨日、考えたんです」
「何をですか?」
「もし神様がいなくても」
女性は少し笑った。
「私、祈ると思います」
「……」
「だって、祈ることで、母が治ると信じたいんじゃなくて」
女性は自分の胸に手を当てた。
「母に元気になってほしいって、自分に言い聞かせてるんだと思うんです」
青年は、その言葉を聞いていた。
「だから、もう少し頑張れます」
「……そうですね」
「はい」
女性は笑った。
「頑張ります」
◇
その日の帰り。
青年は一人で歩いていた。
神は存在しない。
それは変わらない。
祈りを捧げても、神が奇跡を起こすわけではない。
それでも――。
誰かを思う気持ちは、本物なのかもしれない。
「……救いって」
青年は呟いた。
「神様がくれるものじゃないのかもしれないな」
「おや」
後ろから声がした。
振り返る。
42紙が歩いていた。
「いいこと言いますね」
「聞いてたのか?」
「たまたまです」
「絶対嘘だろ」
「死神ですから」
「またそれか」
二人は並んで歩いた。
「なあ、42紙」
「はい?」
「人間は、自分で救いを作れると思うか?」
42紙は少し考えた。
「作れるんじゃないですか?」
「どうやって?」
「誰かを大切にしたり」
「……」
「誰かに大切にされたり」
「……」
「明日も生きようと思ったり」
42紙は空を見上げた。
「そういう小さなものが、救いになるんじゃないですかね」
「……」
「まあ、俺には分かりませんけど」
青年は笑った。
「最後にそれを付けるの、やめろよ」
「だって、本当に分からないんですから」
二人の間に、静かな時間が流れた。
その夜。
青年は部屋に戻ると、机の上の二枚の紙を見つめた。
昨日と同じ白い紙。
だが――。
今は少しだけ違って見えた。
この二枚の紙が意味するもの。
それは、単なる「幸福」と「不幸」ではないのかもしれない。
人生の最後に、自分は何を思うのか。
誰を思うのか。
何を後悔し、何を大切だったと思うのか。
青年は一枚の紙に手を伸ばした。
しかし、触れる直前で手を止めた。
「……まだ、選ばない」
その瞬間。
背後から、42紙の声が聞こえた。
「そうですよ」
青年は振り返った。
「まだ先です」
42紙はいつものように笑っていた。
そして二枚の紙を見つめる。
「人間は、死ぬまで生きてるんですから」
青年は、その言葉を聞きながら窓の外を見る。
夜空には、星が浮かんでいた。
神はいない。
天国もない。
地獄もない。
死んだ後に何があるのかも、誰にも分からない。
それでも人は――。
誰かを思い。
祈り。
明日を信じて、生きていく。
青年は初めて、そんな人間の姿を少しだけ理解した気がした。
そして机の上には、今日も二枚の紙が残されていた。
4と2。
その意味を知る日は、まだ来ない。




