第30話「人の命の重さ」・後編
『42紙』
第30話「人の命の重さ」・後編
8 白い空間
高瀬直人は、ゆっくりと目を開けた。
そこは、白い空間だった。
直人は、自分の身体を見下ろした。
公園で少年たちに殴られ、蹴られたはずだった。身体には激しい痛みがあった。息をすることさえ苦しかった。
だが、今は何も感じない。
「……ここは?」
直人が周囲を見回すと、一人の男がいた。
「どーも、42紙です。えぇ、死神です」
直人は、男の顔を見つめた。
「……死神?」
「はい」
「俺は……死んだんですか」
「はい」
直人は、しばらく黙っていた。
自分が死んだ。
その言葉を、すぐには受け入れられなかった。
美和の顔が浮かんだ。
結人の小さな手が浮かんだ。
もう一度、会いたかった。
もう一度、家に帰りたかった。
「……そうですか」
直人は、うつむいた。
42紙は、二枚の白い紙を差し出した。
「では、こちらから一枚、お選びください」
直人は二枚の紙を見つめた。
「……選ぶんですか」
「はい」
直人は、しばらく迷ったあと、一枚を手に取った。
白い紙に、数字が浮かび上がる。
2。
直人は、その数字を見つめた。
「……2ですか」
「はい」
直人は顔を上げた。
「これは、どういう意味なんですか」
「4と2は死に方です。4は幸福な死に方。2は不幸な死に方です」
直人は、もう一度、紙を見た。
「……俺の死に方は、不幸だったんですね」
「はい」
それ以上、直人は何も尋ねなかった。
だが、自分の人生を振り返っても、答えは出なかった。
家族を守ろうとして家を出た。
亡くなった二人のことを考え続けた。
それでも、自分が何をすればよかったのか、最後まで分からなかった。
「……美和と結人に、会いたかったな」
ただ、家族を守ろうと必死だった。
ただ、世間から逃れるので精一杯だった。
自分の不幸な死に方で、亡くなった親子にこれで許してもらえるだろうか。
当然の結果だったと、直人は自分の死を受け入れていた。
それはあまりにも悲惨な死に方だった。
直人は本当は何ひとつ間違ったことはしていないのに……
42紙は、何も言わなかった。
直人は、静かに目を閉じた。
そして、意識は最後の記憶へと戻っていった。
白い空間が徐々に暗くなっていった。
9 取り返しのつかないこと
公園の地面に倒れた直人。
少年たちの笑い声が聞こえる。
「まだ一分経ってねえぞ」
「次、俺な」
直人は、もう声を出すこともできなかった。
美和。
結人。
もう一度、会いたかった。
もう一度、家に帰りたかった。
しかし、直人の身体は動かなかった。
やがて、意識が途切れた。
少年たちは、直人が動かなくなったことに気づいていた。
それでも、死んだとは思わなかった。
「もういいだろ」
誰かが言った。
少年たちは、その場を離れた。
彼らにとって、あれは仲間内で盛り上がるための遊びだった。
相手がどれほど苦しんでいたのか。
何を思いながら殴られていたのか。
そんなことを考えようともしなかった。
彼らは、自分たちが何をしたのか、分かっていなかった。
しかし、直人は死んでいた。
警察が捜査を進め、少年たちの関与が明らかになると、彼らは事情を聞かれることになった。
そこで初めて、少年たちは知った。
自分たちが殴っていた男が、命を落としていたことを。
「……死んだって、どういうことですか」
少年の一人が、そう尋ねた。
警察官は、少年たちを見つめた。
「あなたたちが暴行を加えた男性は、亡くなりました」
少年たちは黙り込んだ。
信じられなかった。
あの程度で死ぬはずがない。
本気で殺そうとしたわけではない。
そんな思いが、頭の中を巡っていた。
けれど、彼らが殺すつもりだったかどうかと、直人が命を落としたという事実は別のことだった。
自分たちがしたことを、なかったことにはできない。
そのことを、少年たちは突きつけられた。
少年たちは、警察の捜査によって暴行の疑いが強まり、逮捕された。
自分たちが軽い気持ちで始めた行為が、一人の人間の命を奪った。
その事実から、もう逃れることはできなかった。
10 藤井蓮
藤井蓮は、十六歳だった。
直人を殴った少年たちの中に、蓮もいた。
蓮もまた、最初は自分がしたことの重大さを理解していなかった。
仲間がやっていたから、自分もやった。
誰が一番強いのかを競っていただけだ。
相手が死ぬなんて、考えてもいなかった。
そう思おうとしていた。
だが、警察で直人の死を知らされてから、あの公園の光景が頭から離れなくなった。
地面に倒れた男。
苦しそうな声。
「もう……やめてくれ……」
蓮は、何度もその声を思い出した。
「……うるせえな」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
忘れたかった。
考えたくなかった。
ほかの奴らだって殴っていた。
自分一人が悪いわけではない。
そう考えれば、少しは楽になれる気がした。
けれど、あるとき、蓮はふと思った。
あの男には、家族がいたのだろうか。
帰る場所はあったのだろうか。
どうして、あんな場所に一人で座っていたのだろう。
蓮は、何も知らなかった。
直人が事故のあと、世間の非難に追い詰められたことも。
家族を守ろうとして家を出たことも。
妻と幼い息子に、もう一度会いたいと願っていたことも。
何一つ知らなかった。
だが、知らなかったからといって、何をしてもよかったわけではない。
そのことに、蓮は少しずつ気づき始めていた。
自分たちが殴った相手にも、人生があった。
守りたいものがあった。
帰りたい場所があった。
それを、自分たちは何も考えずに踏みにじった。
「……俺たち、何やってたんだろうな」
つぶやいても、答える者はいなかった。
後悔しても、直人は戻ってこない。
謝っても、直人の家族が受けた苦しみが消えるわけではない。
蓮は、初めて自分がしたことの重さを考え始めていた。
けれど、気づいたからといって、すぐにすべてが変わるわけではなかった。
言い訳をしたい気持ちもある。
逃げ出したい気持ちもある。
それでも、あの男の声だけは、簡単には消えてくれなかった。
この事件もニュースやSNSなどで連日取り上げられた。
少年たちもまたその家族も、直人と同じように世間にさらされて、これからの人生を生きていかなければならない。
11 帰らなかった夫
直人が亡くなったことは、やがて美和にも伝えられた。
美和は、すぐには言葉が出なかった。
直人が家を出てからも、いつか帰ってくると信じていた。
帰ってきたら、何も責めずに迎えよう。
結人も、きっと喜ぶだろう。
そんな日が来ることを願っていた。
しかし、直人はもう帰ってこない。
「……あなた」
美和の目から、涙がこぼれた。
結人は、母親の顔を見上げ、小さな手を伸ばした。
美和は、その手を握った。
泣いても、時間は戻らない。
結人は、これから大きくなっていく。
父親がいなくても、この子を育てていかなければならない。
美和は、直人が置いていった離婚届を思い出した。
あのとき、提出しなかった。
直人が帰ってくると信じていたからだ。
今となっては、もう伝えられない。
自分は、直人を責めていなかった。
一緒に乗り越えたかった。
帰ってきてほしかった。
その気持ちは、最後まで届かなかった。
美和は、結人を抱きしめた。
「……結人。お父さんはね……」
言葉が止まった。
いつか、この子に父親のことを話す日が来るのだろう。
そのとき、何を伝えればいいのか。
美和には、まだ分からなかった。
12 残された者にできること
時間が過ぎても、真紀と莉子を失った家族の悲しみは消えなかった。
二人が生きていた頃の日常は、もう戻らない。
直人がどれほど苦しんでいたのかを知ったとしても、その事実は変わらなかった。
一方、美和も夫を失った。
直人が家を出たあと、どこで何をしていたのか。
どれほど苦しみ、どんな思いで日々を過ごしていたのか。
美和がすべてを知ることはできなかった。
やがて、美和は直人の生命保険金を受け取った。
しばらく考えたあと、その一部を真紀と莉子の遺族へ送ることにした。
それで、何かが変わるとは思っていなかった。
お金を渡しても、二人は戻ってこない。
直人が苦しんだ時間も、なかったことにはならない。
それでも、美和には何かをせずにはいられなかった。
手紙には、直人が最後まで二人のことを忘れられずにいたことを書いた。
自分たちも、直人を失ったこと。
そして、何をすればよいのか、今も答えが見つからないこと。
美和は、手紙を封筒に入れた。
これは償いなのだろうか。
それとも、残された者が、これからを生きるために選んだ行動なのだろうか。
美和には、分からなかった。
ただ、誰かの命を失ったあとに、何もなかったことにはできない。
それだけは、分かっていた。
13 人の命の重さ
透は、しばらく黙っていた。
直人の人生を見届けたあと、胸の奥に重いものが残っていた。
「……人間って、何なんだろうな」
42紙は、透を見た。
「何がですか」
「誰かが死んだら、悲しむ人がいる。残された家族が苦しむことだって、少し考えれば分かるはずだ」
透は、言葉を切った。
「それなのに、何も考えずに人を傷つける奴がいる。自分が何をしたのか、相手がどうなるのかも考えずに」
「はい」
「……どうして、そんなことができるんだろうな」
42紙は、少し黙っていた。
「分かりません」
透は、42紙を見た。
「お前にも分からないのか」
「はい」
透は、視線を落とした。
直人は、家族を守ろうとして家を出た。
けれど、美和は直人が帰ってくるのを待っていた。
直人は、その気持ちを知らないまま、命を落とした。
「……直人は、家族を守りたかったんだよな」
「そうですね」
「でも、自分がいなくなれば家族が幸せになるなんて、一人で決めてしまった」
透は、少しうつむいた。
「美和は、帰ってきてほしかったんだ。離婚届だって出さなかった。それなのに……」
言葉が続かなかった。
誰かを守ろうとする気持ちが、必ずしも相手を幸せにするとは限らない。
正しいと思ってしたことが、誰かを傷つけることもある。
何も考えずにした行動が、取り返しのつかない結果を生むこともある。
「……人間は、間違える生き物なんだろうな」
「はい」
「でも、間違えたことに気づいたとき、どうするかは……その人次第なのか」
「そうですね」
透は、目を閉じた。
藤井蓮は、自分がしたことの重さに気づき始めていた。
だが、気づいたからといって、直人が戻ってくるわけではない。
後悔することと、償うことは同じではない。
謝ることと、許されることも同じではない。
「……じゃあ、償いって何なんだろうな」
42紙は、透を見ていた。
「分かりません」
「だよな」
しばらく、二人の間に沈黙が流れた。
透は、直人のことを考えていた。
もし、直人が家を出る前に、誰かに相談できていたら。
もし、世間の人々が、事故の責任だけでなく、その後の直人の苦しみにも目を向けていたら。
もし、少年たちが、目の前にいる男を一人の人間として考えていたら。
何かが変わっていたのだろうか。
答えは分からない。
ただ、直人が生きていたこと。
家族を愛していたこと。
苦しみながらも、亡くなった二人の命について考えていたこと。
そのすべてが、少年たちには見えていなかった。
透は、42紙を見た。
「なあ、42紙」
「はい」
「人の命の重さって、何で決まるんだろうな」
42紙は、すぐには答えなかった。
やがて、短く言った。
「……分かりません」
透は、それ以上何も尋ねなかった。
透の部屋の窓から朝日がゆっくりと昇り始めていた。
透は、まだ答えを見つけられずにいた。
人の命の重さ。
誰かを傷つけた者の罪。
残された者が背負う苦しみ。
それらの現実を受け入れて、人間は生きていかなければならない。
すべてに簡単な答えなどないのかもしれない。
――第三十話・後編 完――




