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「42紙」(しにがみ)  作者: kiseki-ryu


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第31話「鳴らない電話」

『42紙(しにがみ)』

第31話「鳴らない電話」


1 最初の一冊

一成が初めて物語に心を奪われたのは、小学生の頃だった。

教室の隅で、友達の輪に入ることもなく、本を読んでいることが多かった一成。

休み時間になっても、周りの騒がしさを気にすることなく、ページをめくっていた。

本の中には、自分が暮らしている世界とは違う世界があった。

見たことのない景色。

会ったことのない人。

自分では思いつきもしなかった考え方。

ページを開くたびに、一成は知らない世界へ連れていかれた。

ある日、一成は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を読んだ。

地獄に落ちた男。

その男を救うかのように、上から垂れてくる一本の蜘蛛の糸。

一成は、夢中になって読み進めた。

たった一本の糸が、男の運命を変えるかもしれない。

けれど、その糸をつかんだ男は、自分だけが助かろうとしてしまう。

そして、糸は切れる。

読み終えた一成は、しばらく本を閉じられなかった。

何が正しいのか。

人は、追い詰められたとき、どうしてしまうのか。

誰かを救うとは、どういうことなのか。

幼い一成には、答えが出せなかった。

ただ、物語の中で起きたことが、頭から離れなかった。

翌日も、その本を読んだ。

その次の日も読んだ。

何度読んでも、読むたびに違うことを考えた。

そして、ある日、ノートを開いた。

自分でも物語を書いてみようと思ったのだ。

最初は、うまく書けなかった。

頭の中には場面が浮かんでいるのに、文章にすると、思っていたものとは違ってしまう。

登場人物に何を言わせればいいのかも分からない。

それでも、一成は書いた。

書いては消し、消しては書いた。

ノートのページが埋まっていくことが、嬉しかった。

自分の頭の中にしかなかった世界が、少しずつ形になっていく。

その感覚が好きだった。

いつか、自分の書いた物語を、誰かに読んでもらいたい。

いつか、自分の物語で、誰かの心を動かしてみたい。

それが、一成の夢になった。


2 最初の知らせ

大人になった一成は、働きながら小説を書いた。

仕事から帰ると、食事を済ませ、机に向かった。

疲れている日もあった。

書きたい場面が浮かばない日もあった。

何時間も考えた末に、一行も進まないこともあった。

それでも、一成は机を離れなかった。

少しずつ書き進め、ようやく一つの作品が完成すると、応募先を探した。

原稿を読み返し、誤字を直し、何度も最初から最後まで確認した。

そして、封筒に入れて送った。

初めて応募した作品は、選ばれなかった。

結果を知らせる紙を見たとき、一成はがっかりした。

けれど、まだ一作目だ。

次を書こうと思った。

二作目も、三作目も、結果は同じだった。

応募するたびに、今度こそはと思った。

前よりも良くなったはずだ。

今度の作品には、自分が書きたかったものを込められたはずだ。

そう思って送り出しても、返事は期待したものではなかった。

それでも、書くことはやめなかった。

やがて、一成の作品が小さな文学賞を受賞した。

知らせを受けたとき、一成は何度もその文章を読み返した。

自分の名前がある。

自分の書いた作品が、選ばれた。

大勢の人が知る賞ではなかった。

新聞に大きく名前が載ったわけでもない。

それでも、一成にとっては、忘れられない出来事だった。

初めて、自分が書いたものを認めてもらえた。

あのときの喜びがあれば、これからも書いていける。

一成はそう思った。

その夜、一成は新しい原稿用紙を机に置いた。

また一作、書こう。

今度は、もっと良いものを書こう。

いつか、もっと多くの人に読んでもらおう。

夢は、そこで終わらなかった。

むしろ、あの日から一成は、もっと遠くを目指すようになった。


3 返事を待つ場所

当時、一成の家には電話がなかった。

携帯電話も、まだ誰もが持っている時代ではなかった。

小説を応募するとき、連絡先を書く欄を見て、一成は考えた。

もし、作品が選ばれたら。

もし、出版社から連絡が来たら。

自分は、どうやってその知らせを受け取ればいいのだろう。

そこで一成が思いついたのが、いつも利用していた公衆電話ボックスだった。

公衆電話には、それぞれ電話番号があった。

一成は、その番号を応募用紙に書いた。

作品が認められたら、ここに電話がかかってくるかもしれない。

そう考えた。

応募を済ませた一成は、結果を待った。

仕事を終えると、遠回りをして電話ボックスの前を通った。

受話器を見た。

電話は鳴っていなかった。

それでも、何となくその場を離れられず、少しだけ待つことがあった。

十分。

二十分。

時には、それ以上。

やがて、電話が鳴らないまま時間が過ぎ、一成は家に帰った。

翌日も、同じように仕事へ行った。

帰り道、また電話ボックスの前を通った。

その繰り返しだった。

ある日、電話が鳴った。

一成は、思わず顔を上げた。

けれど、受話器を取ったのは、自分ではなかった。

電話ボックスに入ってきた別の人が、誰かと話し始めたのだ。

一成は、少し離れた場所で、その様子を見ていた。

自分にかかってきた電話ではない。

分かっていた。

それでも、電話が鳴った瞬間、胸が高鳴ったことが恥ずかしかった。

一成は何事もなかったように、その場を離れた。

しばらくして、応募した作品の結果が届いた。

落選だった。

一成は紙を机に置き、しばらく眺めていた。

悔しかった。

自分では、良い作品が書けたと思っていた。

どこが足りなかったのだろう。

何が伝わらなかったのだろう。

考えても、答えは分からなかった。

それでも、次の作品を書き始めた。

そして、また応募した。

また電話を待った。

電話は鳴らなかった。

何度も、何度も。

一成は、電話ボックスの前で待つことをやめなかった。

電話が鳴ることを信じ切っていたわけではない。

鳴らないかもしれないことは、もう分かっていた。

それでも、ほんの少しだけ期待していた。

その少しを捨ててしまったら、長い時間をかけて書いてきた物語まで、どこかへ行ってしまうような気がした。

だから、一成は待った。


4 書き続けた年月

年月が過ぎた。

一成は年を重ねた。

職場では、若い社員が入ってきて、やがて自分より先に帰るようになった。

同僚が結婚し、子供が生まれ、家族の話をするようになった。

一成も、誰かと暮らす人生を考えなかったわけではない。

けれど、仕事を終えて家に帰ると、書きかけの原稿が待っていた。

この場面を完成させたい。

この人物の気持ちを、もう少し丁寧に書きたい。

結末を、別の形にできないだろうか。

考え始めると、時間はすぐに過ぎた。

気がつけば夜が明けていることもあった。

人と会う約束をしていても、頭の中では物語の続きを考えてしまう。

そんな自分に気づき、一成は苦笑した。

小説を書くことばかり考えている。

それでも、嫌いになれなかった。

休日には本を読み、図書館へ行き、気になった文章を書き留めた。

街を歩いていても、人の会話が耳に入ると、こんな人物がいたらどんな物語になるだろうと考えた。

誰かの何気ない表情から、その人が抱えているものを想像することもあった。

一成にとって、物語を書くことは、机に向かっている時間だけのものではなかった。

生きている間に目にしたもの、耳にしたもの、心に引っかかったもの。

その一つ一つが、いつか物語になるかもしれなかった。

応募を続けても、結果は厳しかった。

最初に受賞してから、何年も、何十年も経った。

一成の名前が世間に広く知られることはなかった。

書いた作品の多くは、誰にも読まれないまま、手元に残った。

それでも、一成は書いた。

「今度こそ」という言葉を、何度自分に言い聞かせただろう。

落選の知らせを受け取るたび、もうやめようと思ったこともあった。

自分には才能がないのかもしれない。

書き続けたところで、何も変わらないのかもしれない。

そんな考えが頭をよぎる夜もあった。

けれど、数日経つと、また新しい話を思いついた。

頭の中に浮かんだ物語を、そのままにしておくことができなかった。

一成は、もう一度原稿用紙を広げた。

書くことが、好きだった。

それだけは、最後まで変わらなかった。


5 なくなっていく場所

やがて、一成は仕事を退職した。

毎日通っていた職場へ行く必要がなくなった。

朝起きて、食事をして、机に向かう。

書いて、読み返して、直す。

それが、一成の日常になった。

長年使っていた原稿用紙や本が、部屋の中に増えていった。

新しい作品を書くたびに、以前の作品を読み返すこともあった。

今なら、もう少し上手く書ける。

昔は気づかなかったことが、今なら分かる。

そんな発見があると、一成は嬉しかった。

一方で、世の中は変わっていた。

公衆電話が少しずつ姿を消していった。

街の風景が変わり、以前あった電話ボックスがなくなっていることもあった。

一成は、ある日、いつもの場所に電話ボックスがないことに気づいた。

そこには、別の設備が置かれていた。

しばらく立ち止まり、何もない場所を見つめた。

長い間、何度も通りかかった場所だった。

応募の結果を待った場所。

電話が鳴るかもしれないと、期待した場所。

何も起きなかった時間も含めて、一成の人生の一部になっていた。

それが、いつの間にかなくなっていた。

一成は、別の場所に残っていた公衆電話ボックスを探すようになった。

わざわざ遠回りをして、見つけた電話ボックスの前に立った。

もちろん、そこに自分の応募先から電話がかかってくるはずはなかった。

それでも、受話器を見ると、昔の自分を思い出した。

まだ若かった自分。

一つの作品を送り出し、結果を待っていた自分。

電話が鳴らないことに落胆しながら、それでも次の作品を書こうとしていた自分。

一成は、いつしか、電話が鳴ることだけを待っていたわけではなくなっていたのかもしれない。

あの頃の自分が、まだどこかにいる。

そう思える場所だった。

通りすがりの人が、一成を見ていた。

寒い日に、古い電話ボックスの前で立ち止まる老人。

事情を知らない人には、寂しい人に見えたのかもしれない。

一成は、何も説明しなかった。

自分が何を待っているのか。

なぜ、こんな場所に立っているのか。

言葉にしても、きっと伝わらない。

いや、自分自身でも、もう上手く説明できなかった。

それでも、ここに来ることをやめられなかった。


6 最後の夜

その冬は、厳しい寒さが続いていた。

一成は、いつものように公衆電話ボックスを訪れた。

ガラスの向こうを、車が通り過ぎていく。

人々は襟を立て、足早に歩いていた。

電話ボックスの中には、一成のほかに誰もいなかった。

一成は、受話器を見つめた。

もう、長い間、電話を待っていた。

最初は、受賞の知らせが欲しかった。

自分の書いた物語を認めてくれた人がいる。

そう知りたかった。

その後は、出版社からの連絡を待った。

いつか、もっと大きな舞台に立てるかもしれない。

もっと多くの人に読んでもらえるかもしれない。

そう思っていた。

けれど、今となっては、何を待っていたのかさえ、はっきりしなかった。

ただ、電話ボックスに立つと、昔の自分に戻れるような気がした。

一成は、ガラスの向こうを見た。

自分の人生は、何だったのだろう。

世間に名を残すことはできなかった。

多くの読者に囲まれることもなかった。

書いた作品のほとんどは、誰にも知られないまま終わっていくのかもしれない。

そう考えると、寂しさがなかったわけではない。

もっと才能があれば。

もっと早く認められていれば。

別の人生を選んでいたら。

考え始めれば、いくらでも後悔は浮かんだ。

けれど、一成は、書くことをやめなかった自分を責める気にはなれなかった。

書いている時間は、確かに自分のものだった。

誰かに命じられたわけではない。

誰かに褒められることを保証されたわけでもない。

それでも、自分で書きたいと思い、書き続けてきた。

それだけは、誰にも取り上げられない。

一成は、受話器にそっと手を触れた。

「……一度くらい、鳴ってくれてもよかったのにな」

小さな笑いが漏れた。

責めるような声ではなかった。

長い年月を振り返るような、静かな呟きだった。

そのとき、一成は強い寒気を感じた。

身体が思うように動かない。

意識が、少しずつ遠のいていく。

一成は、電話ボックスの壁に身体を預けた。

もう、帰らなければ。

そう思ったが、立ち上がることができなかった。

ガラス越しの街の明かりが、ぼんやりと滲んだ。

一成は、目を閉じた。

頭の中に浮かんだのは、賞を受け取った日のことでも、落選の知らせを見た日のことでもなかった。

初めて『蜘蛛の糸』を読み終えた、あの日のことだった。

本を閉じたあとも、物語が頭から離れなかった。

自分も、こんな物語を書いてみたい。

あの気持ちがなければ、今の自分はいなかった。

一成は、ほんの少し口元を緩めた。

そして、意識を失った。

一成は、冬の寒さの中で凍死した。

電話ボックスの暖色の光だけが、静かに一成をそっと温かく照らしていた。

電話は、最後まで鳴らなかった。


7 白い空間で

一成が目を開けると、そこは白い空間だった。

目の前には、一人の男が立っていた。

「どーも、42紙です。えぇ、死神です」

一成は、男の顔をしばらく見つめた。

「……死神ですか」

「はい」

「私は、死んだんですね」

「そうです」

一成は、静かに息を吐いた。

「そうですか……」

不思議な場所だった。

けれど、恐怖よりも先に、長い一日が終わったような感覚があった。

一成は、ふと、幼い頃に読んだ物語を思い出した。

「私、小さい頃に芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を読んだんです」

「はい」

「それがきっかけで、小説を書くようになりましてね」

42紙は、黙って聞いていた。

「地獄に落ちた男に、上から蜘蛛の糸が垂れてくる。あの場面が、忘れられなかったんです」

一成は少し笑った。

「一本の糸で、誰かが救われるかもしれない。子供心に、すごい話だと思いました」

そして、少し考えた。

「でも、あなたの話では、神も、天国も、地獄も、生まれ変わりも存在しないんですよね」

「はい」

「だとしたら、仏様もいないんでしょうか」

「分かりません」

一成は、意外そうに42紙を見た。

「……分からないんですか」

「はい」

「あなたは、死神なのに?」

「はい」

一成は、少しだけ笑った。

何でも知っているわけではないらしい。

それが、かえって不思議な安心感につながった。

「それなら……」

一成は、言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。

「蜘蛛の糸も、上から降りてくることはないんでしょうか」

42紙は、一成を見た。

「……分かりません」

一成は、すぐには返事をしなかった。

降りてこない、と言い切られたわけではない。

降りてくる、と約束されたわけでもない。

ただ、分からない。

それだけだった。

「……そうですか」

一成は、白い空間を見渡した。

「私は、ずいぶん長い間、電話を待っていたんです」

「電話ですか」

「ええ。小説を応募して、いつか誰かから連絡が来るんじゃないかと思って」

一成は、少し照れくさそうに笑った。

「公衆電話の番号を連絡先に書いていたんですよ。今考えると、ずいぶん変なことをしていたと思います」

42紙は、何も言わなかった。

「電話が鳴らないことは、途中から分かっていました。それでも、あの場所に行くと、つい待ってしまうんです」

「はい」

「何かを待つのをやめるって、案外難しいものですね」

一成は、自分の言葉を確かめるように、ゆっくりとうなずいた。

「……私は、結局、大した作家にはなれませんでした」

「はい」

「たくさんの人に読んでもらうこともできなかった。自分が書いたものが、誰かの心に残ったのかどうかも、分かりません」

少し間を置いて、一成は続けた。

「でも、書いている時間は、楽しかったんです」

その声は、さきほどよりもはっきりしていた。

「物語の中なら、どこへでも行けました。自分では経験できない人生も、出会えない人も、書くことができた。うまく書けなくて、何日も悩むこともありましたけどね」

一成は、困ったように笑った。

「それでも、また書きたくなったんです」

42紙は、静かに一成を見ていた。

「だから……後悔していないと言えば、嘘になるのかもしれません」

一成は、少しだけ目を伏せた。

「もっと認められたかった。誰かに、あなたの作品が好きですって言ってもらいたかった。自分が書いたものが、誰かに届いたと知りたかった」

長い年月の中で、口にできなかった思いだった。

「それでも、書かなければよかったとは思いません」

一成は顔を上げた。

「私は、書くことが好きだったんです」

その言葉を口にしたとき、一成の表情が少しだけ笑顔に見えた。

誰かに評価してもらわなくても、自分の人生を振り返ることはできる。

認められなかった悔しさと、書き続けた喜びは、どちらか一方だけになるものではなかった。

一成の人生には、その両方があった。

42紙は、二枚の白い紙を差し出した。

「これは……」

「紙です」

一成は、二枚の紙を見た。

「この紙のどちらかを選んでください」

「選ぶと、どうなるんですか」

「4と2の数字が浮かび上がります」

42紙は、淡々と続けた。

「4だと……」

「幸福な死に方」

「2だと……」

「不幸な死に方です」

一成は、しばらく二枚の紙を見つめていた。

「それは、人生が幸福だったか、不幸だったかということですか」

「いいえ。4と2が表すのは死に方です」

一成は、その言葉を受け止めた。

自分の人生につけられる点数ではない。

書いてきた作品の価値を決めるものでもない。

一成は、ゆっくりと一枚の紙を選んだ。

紙の上に、数字が浮かび上がった。

4。

一成は、その数字を見つめた。

42紙が静かに言った。

「4ですね」

「……そうですか」

一成は、それ以上、何かを尋ねることはしなかった。

42紙も、何も言わなかった。

やがて白い空間がゆっくりと消えていった。


8 最後まで

電話ボックス。

冬の街。

ガラスの向こうを、車が通り過ぎていく。

一成は、電話ボックスの中にいた。

身体は、もうほとんど動かなかった。

寒さが、身体の奥まで入り込んでいる。

それでも、一成の心には、幼い頃に『蜘蛛の糸』を読んだ日の記憶が浮かんでいた。

あの日、自分は物語に心を動かされた。

自分も書いてみたいと思った。

そして、書いた。

思うように書けない日もあった。

認められず、悔しい思いをしたこともあった。

何度も、もうやめようと思った。

それでも、また書いた。

一成は、自分が歩いてきた年月を思い返した。

望んだような結果にはならなかった。

けれど、自分で選んだ道だった。

誰かに無理やり歩かされたわけではない。

書きたいと思い、自分の意思で書き続けた。

一成は、受話器を見た。

最後まで、電話は鳴らなかった。

それでも、もう、電話が鳴ることだけが自分の人生ではなかったのだと思えた。

物語を書いていた時間。

新しい話を思いついたときの喜び。

書き上げた原稿を読み返したときの満足感。

そんなものが、自分の人生には確かにあった。

一成は、かすかに微笑んだ。

「……楽しかったな」

誰かに聞かせるための言葉ではなかった。

最後まで自分の人生を生きた、一人の人間の言葉だった。

一成は、電話ボックスの壁に身体を預けた。

暖色の光が、その顔を静かに照らしていた。

身体は冷え切っていた。

けれど、一成の表情には、もう何かを待ち続ける焦りはなかった。

自分の人生に、何もなかったわけではない。

夢を抱き、書き続け、悩み、喜び、最後まで物語を手放さなかった。

誰かに認められなかったことも、電話が鳴らなかったことも、なかったことにはならない。

それでも、それだけで人生のすべてが決まるわけではなかった。

一成は、穏やかな表情のまま、静かに息を引き取った。

電話ボックスの暖色の光が、最後まで一成をそっと包んでいた。

その顔には、自分が生きてきた時間を受け入れた者の、最高に満ち足りた微笑みが残っていた。

やがて、一成の姿は静かに消えていった。


9 糸の行方

透と42紙は、いつもの部屋にいた。

透は、すぐには口を開かなかった。

一成が小説を書き続けてきた年月。

誰にも認められないまま、それでも書くことをやめなかった人生。

そして、鳴ることのなかった電話。

透は、一成の話を思い返していた。

「……あの人、ずっと待ってたんだな」

42紙は、透を見た。

「はい」

「電話が鳴るかもしれないって。いつか、自分の書いたものを認めてくれる人が現れるかもしれないって」

透は、言葉を探すように、少し間を置いた。

「周りから見たら、いつまで待ってるんだって思われたかもしれない。もう諦めたらいいのにって、言う人もいたかもしれない」

42紙は答えなかった。

「でも、本人にとっては、簡単にやめられることじゃなかったんだろうな」

透は、視線を落とした。

「待ってる時間も、あの人の人生だったんだ」

自分で言いながら、透は考え込んだ。

結果が出なかった時間。

何も変わらなかった時間。

報われなかったように見える時間。

それらは、本当に何も残さなかったのだろうか。

一成は、世間に知られる作家にはなれなかった。

けれど、物語を書いていた時間まで、なかったことになるわけではない。

透は、そのことを考えていた。

「……あの人、後悔してないって言ってたな」

「はい」

「でも、本当は、認められたかったんだよな」

「そうですね」

「それでも、書いてきたことは後悔してない」

透は、小さく息を吐いた。

「なんか……分かる気がする」

その言葉を口にした透自身が、少し驚いたようだった。

分かる、と言っても、一成の人生をすべて理解できたわけではない。

同じ経験をしたわけでもない。

ただ、望んだ結果が得られなかったからといって、その人が大切にしてきたものまで無意味になるのだろうか。

透には、そう簡単に言い切れなかった。

しばらく、二人の間に沈黙が流れた。

やがて、透が口を開いた。

「……『蜘蛛の糸』ってさ」

42紙は、透を見た。

「上から糸が垂れてくるんだよな。地獄にいる人間に、助かるかもしれないっていう糸が」

「地獄はありません」

「わかったよ」

「でも、一成さんは、あの話を読んで、自分も物語を書きたいと思ったんだよな」

「はい」

透は、少しだけ眉を寄せた。

「でも、あの人が最後に聞いたとき、お前は分からないって答えた」

「はい」

「仏様がいるのかも、蜘蛛の糸が降りてくるのかも、分からない」

「はい」

透は、しばらく黙っていた。

「……じゃあ、もし本当に、誰かが助けを必要としていたら?」

42紙は答えなかった。

透は続けた。

「誰にも助けてもらえない人がいたら。自分ではどうにもできなくて、誰かに助けてほしいって思っていたら」

声が、少しずつ低くなっていった。

「それでも、何も起きないことがあるんだよな」

42紙は、透の言葉を遮らなかった。

透は、机の上に視線を落とした。

一成の人生を思い出していたはずなのに、いつの間にか、別の人のことを考えていた。

紗季。

助けたかった人。

失いたくなかった人。

もう一度、声を聞きたかった人。

透は、唇を結んだ。

「……紗季にも、糸が降りてきてほしかった」

口にした途端、胸の奥に押し込めていたものが、少しだけ動いた。

「何でもいいんだよ。神様でも、仏様でも……何か、助けてくれるものがあったってよかったじゃないか」

透は顔を上げた。

「俺は、紗季に生きていてほしかった」

それは、今さら誰に伝えても、何も変わらない願いだった。

けれど、透の中では、まだ終わっていなかった。

「……何か一つでも違っていたら、助かったのかな」

42紙は、静かに透を見ていた。

「俺がもっと何かできていたら。違う言葉をかけていたら。何かに気づけていたら……」

透は、そこで言葉を止めた。

自分が何を言おうとしているのか、分からなくなった。

紗季を助けたかった。

その思いは変わらない。

けれど、何をすれば助けられたのか、今も答えは出ていない。

誰かのせいにすれば、少しは楽になるのだろうか。

何か意味があったのだと思えば、受け入れられるのだろうか。

それとも、意味などないと決めてしまえば、諦められるのだろうか。

透には、どれもできなかった。

「……なあ、42紙」

「はい」

「一成さんは、電話が鳴らなかった。それでも、書き続けたことを後悔していなかった」

「はい」

「でも、紗季は……」

透は、言葉を探した。

「紗季は、何かを待つことさえできなかったのかもしれない」

言ってから、透は目を伏せた。

自分が紗季の気持ちを、すべて分かっているわけではない。

紗季が何を考え、何を願っていたのか。

自分が知らないことも、きっとあった。

それでも、もう一度話したかった。

もっと聞きたかった。

知らないままになってしまったことを、知りたかった。

「……俺、まだ、紗季のことを考えると、どうしたらいいのか分からなくなる」

42紙は、静かに答えた。

「はい」

透は、苦笑した。

「お前も、分からないんだよな」

「はい」

その返事に、透は少しだけ目を細めた。

42紙は、紗季を助けることができなかった。

なぜ紗季が死ななければならなかったのかも、答えられない。

それでも、透の前に立っている。

何かを説明して、納得させようとするわけでもない。

透の悲しみを、簡単な言葉で片づけようとするわけでもない。

ただ、そこにいる。

透は、そんな42紙を見つめた。

以前なら、分からないという返事を聞くたびに、腹が立ったかもしれない。

何も教えてくれない。

何も変えてくれない。

そう思ったかもしれない。

今も、すべてを許せたわけではない。

紗季を失った悲しみが、消えたわけでもない。

42紙を許せるようになった、とも思わなかった。

それでも、透は少しだけ考え方が変わってきたことに気づいた。

分からないことを、分からないまま抱えて生きるしかないのかもしれない。

答えが見つからないからといって、考えることまでやめなくてもいいのかもしれない。

一成が、鳴らない電話を待ちながら、それでも書き続けたように。

答えが返ってこなくても、願いが叶わなくても、人は何かを大切にし続けることがある。

透は、ゆっくりと息を吐いた。

「……それでもさ」

42紙が顔を上げた。

「やっぱり、紗季には助かってほしかったよ」

「……そうですね」

透は、それ以上何も言わなかった。

42紙も、何も付け加えなかった。

助けてほしかった。

生きていてほしかった。

その願いは、今も変わらない。

けれど、透は初めて、その願いを口にしたあと、すぐに答えを探そうとはしなかった。

答えがないことと、願いが大切ではなかったことは、同じではない。

そう思えたからだった。

42紙はコンビニ袋の中に手を入れた。

「…また、おにぎりか」

「違います」

「…え、違うのかよ」

42紙は少し微笑んだように見えた。

「シュークリームです」

「…て、甘い物かよ」

透はほんの少しだけ笑った。

気持ちを正直に顔に出した。

しばらく沈黙の時が流れた。

部屋の中には、静かな時間が流れていた。

透は、まだ紗季の死を受け入れられない。

42紙を許せたわけでもない。

それでも、一成の人生に触れたことで、透の中に、小さな変化が生まれていた。

答えのない問いを、答えのないまま抱えていく。

それが、今の透にできることなのかもしれなかった。

そして、まだ言葉にはならない思いを胸に、透は静かに座っていた。


――第三十一話・完――



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