第30話「人の命の重さ」・前編
『42紙』
第30話「人の命の重さ」・前編
人は、どこまで他人の人生を知っているのだろう。
目の前にいる人が、どんな人生を歩んできたのか。
何を失い、何に苦しみ、何を守ろうとしていたのか。
人は、相手のことを何も知らないまま、簡単に誰かを責めることがある。
そして、自分が何をしているのかさえ深く考えず、取り返しのつかないことをしてしまう人間もいる。
かつて、妻と幼い息子と暮らし、ごく普通の日常を送っていた男が、すべてを失い、最後には誰にも知られない場所で命を落とすまでの物語である。
1 何気ない日常
高瀬直人、四十八歳。
直人には、妻の美和と、生後六か月になる息子の結人がいた。
決して裕福な暮らしではなかった。
仕事で疲れて帰ってくる日もあれば、思うようにいかず、ため息をつく日もあった。
それでも、家に帰れば美和がいて、結人がいた。
「あなた、おかえりなさい」
「ただいま」
美和の声を聞くと、直人はほっとした。
結人は、まだ言葉を話せない。
それでも、直人の顔を見ると、小さな手足を動かし、声を上げて笑うことがあった。
「お父さんが帰ってきたの、分かるのかな」
美和が笑う。
「どうだろうな。でも、俺の顔を見て笑ってくれると、疲れも吹き飛ぶよ」
直人は結人を抱き上げた。
小さな身体。
温かな体温。
自分の指を握る、小さな手。
この子が大きくなったら、一緒に遊びに行こう。
歩けるようになったら、手をつないで出かけよう。
いつか言葉を覚えたら、どんな話をしてくれるのだろう。
そんなことを考えるだけで、直人の胸は温かくなった。
特別な幸せを求めていたわけではない。
家族が健康で、明日も同じように朝を迎えられること。
仕事をして、家に帰り、三人で食卓を囲むこと。
直人にとって、それだけで十分だった。
しかし、その日常がいつまでも続くとは限らないことを、直人はまだ知らなかった。
2 取り返しのつかない事故
ある日の夕方。
仕事を終えた直人は、車を運転して帰宅していた。
交差点に差しかかる。
信号は青だった。
直人は、周囲を確認しながら交差点へ進入した。
その瞬間、横から一台の車が飛び込んできた。
「……っ!」
直人がブレーキを踏む。
だが、間に合わなかった。
激しい衝突音。
車体が大きく揺れ、直人の身体に衝撃が走った。
しばらくして、直人はぼんやりと目を開けた。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
車の窓は割れ、周囲から人々の声が聞こえる。
やがて、救急車のサイレンが近づいてきた。
事故の相手は、三十二歳の女性、小野寺真紀だった。
真紀の車には、生後八か月の娘、莉子が乗っていた。
真紀は、運転中に落ちた哺乳瓶を拾おうとして、前方から目を離してしまった。
その間に信号が赤に変わっていたことに気づかず、交差点へ進入したのだった。
事故の調査が進むにつれ、直人が青信号で交差点に進入していたことが確認された。
直人に事故を避けられたと認められる事情はなく、直人に法的な責任は問われなかった。
だが、真紀と莉子は亡くなった。
病院に運ばれた直人は、事故の結果を知らされた。
「……二人とも、亡くなったんですか」
医師は、静かにうなずいた。
直人は、言葉を失った。
自分が生きていることさえ、すぐには実感できなかった。
事故を起こそうと思ったわけではない。
信号を守って運転していた。
自分に責任がないことも、説明を受ければ理解できた。
それでも、二人の命が失われたという事実だけは、どうしても受け止めきれなかった。
真紀にも、家族がいたはずだ。
莉子にも、これから成長していく未来があったはずだ。
母親に抱かれ、笑い、泣き、少しずつ言葉を覚え、歩けるようになっていく。
そんな当たり前の未来が、突然なくなってしまった。
直人は、事故のことを考えるたびに、胸が締めつけられた。
しかし、本当の苦しみは、事故の事実だけでは終わらなかった。
3 誰かを責めたい人々
事故の報道が始まると、世間の反応は大きくなっていった。
亡くなったのが母親と赤ん坊だったこともあり、事故は多くの人々の関心を集めた。
ニュースでは、事故の概要が繰り返し伝えられた。
SNSでは、さまざまな意見が飛び交った。
「赤ちゃんがかわいそう」
「お母さんだって、まだ若かったのに」
「残された家族は、どうやって生きていくんだろう」
亡くなった二人を悼む声があった。
それは、当然のことだった。
しかし、その一方で、直人に向けられる言葉も増えていった。
「相手が二人も亡くなっているのに、何の責任もないなんておかしい」
「本当に避けられなかったのか」
「運転していた以上、何か責任があるんじゃないのか」
事故の詳しい状況を知らない人まで、直人を責め始めた。
法的な責任が認められなかったことが報じられても、非難はやまなかった。
直人の名前や顔が知られるようになり、家族のことまで話題にされた。
「こんな人間が普通に生活しているのか」
「家族はどんな気持ちなんだろう」
直人は、画面を閉じた。
だが、閉じたところで、言葉が消えるわけではなかった。
外へ出ると、誰かに見られている気がした。
店に入ると、周囲の視線が気になった。
自分のことを知っている人がいるのではないか。
自分を責めている人がいるのではないか。
そんな考えが、頭から離れなくなった。
やがて、美和にも影響が及び始めた。
買い物に出れば、見知らぬ人の視線が気になる。
結人を連れて歩けば、誰かに父親のことを知られているのではないかと不安になる。
美和は、直人を責めなかった。
「あなたのせいじゃないよ」
そう言ってくれた。
直人も、その言葉を信じたかった。
けれど、家族まで苦しんでいる現実を見るたびに、直人は自分を責めた。
自分がいなければ、美和と結人はこんな思いをしなくて済んだのではないか。
自分が家にいることで、二人の生活まで壊してしまうのではないか。
直人は、少しずつ追い詰められていった。
4 もし、自分の家族だったら
直人は、真紀と莉子のことを考え続けていた。
自分にも、妻がいる。
生まれたばかりの子どもがいる。
もし、事故で美和と結人を失ったら。
もし、ある日突然、家に帰っても二人がいなくなっていたら。
直人は、どうやって生きていけばいいのだろう。
美和が結人を抱きしめる姿を見ていると、直人は事故のことを思い出した。
真紀も、莉子を抱いていたのだろう。
莉子が泣けば、あやしていたのだろう。
ミルクを飲ませ、眠った顔を見て、明日も元気でいてほしいと願っていたのだろう。
直人には、そうした光景が想像できた。
だからこそ、苦しかった。
自分は、何も悪いことをしていない。
そう言い聞かせても、二人の命が戻らないことは変わらない。
自分が何をすればいいのか、分からなかった。
謝ればいいのか。
お金を払えばいいのか。
自分が苦しめば、何かが変わるのか。
どれも答えにはならなかった。
直人は、ある夜、眠れずにいた。
隣では、美和が眠っている。
結人も、小さな寝息を立てていた。
直人は、二人の顔を見つめた。
「……ごめんな」
声に出したつもりはなかった。
誰に向けた言葉だったのか、直人にも分からなかった。
美和と結人に対してなのか。
亡くなった真紀と莉子に対してなのか。
それとも、自分自身に対してなのか。
直人には、もう分からなくなっていた。
5 置いていった離婚届
直人は、家を出ることを考えるようになった。
自分がいなくなれば、少なくとも美和と結人は、世間から距離を置けるかもしれない。
自分と一緒にいる限り、二人まで非難され続けるかもしれない。
直人は、美和に相談しなかった。
相談すれば、きっと引き止められる。
一緒に乗り越えようと言ってくれるかもしれない。
それでも直人は、自分の考えを変えられなかった。
自分が家族を苦しめている。
その思いから、逃げられなかった。
ある朝、直人は離婚届を置いた。
必要な荷物だけを持ち、家を出た。
美和と結人の寝顔を見てから、玄関の扉を静かに閉めた。
「……ごめん」
直人は、小さくつぶやいた。
自分がいなくなれば、二人は少しでも幸せになれる。
そう信じようとした。
しかし、それは直人が一人で決めたことだった。
残された美和は、離婚届を見つけた。
夫が自分達を守ろうとしていたのかもしれない。
そう考えることはできた。
それでも、美和は離婚届を提出しなかった。
直人が帰ってくると信じていた。
いつか、苦しみから抜け出して、帰ってきてくれる。
そのときには、何も責めずに迎えよう。
美和は、そう思っていた。
だが、その願いが直人に届くことはなかった。
6 名前のない暮らし
家を出た直人は、仕事を辞めた。
初めのうちは、どこかで働き直そうとも考えた。
だが、世間の目が怖かった。
自分の名前を知られたくない。
過去を知られたくない。
誰かに事故のことを尋ねられたら、何と答えればいいのか分からない。
直人は、人との関わりを避けるようになった。
やがて、蓄えもなくなった。
住む場所を失い、公園や駅の周辺で夜を過ごすようになった。
食事を取れない日もあった。
雨の日には、濡れた衣服のまま朝を迎えた。
寒さに震えながら、ベンチで眠ることもあった。
人々は、直人を見て通り過ぎた。
目を合わせない人もいた。
迷惑そうに顔をしかめる人もいた。
時には、心ない言葉を投げかけられることもあった。
直人は、何も言い返さなかった。
自分には、そうされても仕方がないのかもしれない。
そんな気持ちさえ、心のどこかにあった。
しかし、どれだけ生活が苦しくなっても、真紀と莉子のことを忘れることはできなかった。
自分と同じように、家族と暮らしていたかもしれない母親。
まだ何も知らず、これから世界を知っていくはずだった赤ん坊。
二人は、もういない。
直人が何を考えても、何を願っても、その事実は変わらなかった。
ある夜、直人は公園のベンチに座り、夜空を見上げた。
家を出てから、どれほどの日が過ぎただろう。
美和は、今どうしているのだろう。
結人は、大きくなっただろうか。
もう、自分の顔を覚えていないかもしれない。
そう考えると、胸が痛んだ。
帰りたいと思うことはあった。
美和に会いたいと思うこともあった。
結人を、もう一度抱きしめたいと思うこともあった。
それでも、直人は帰れなかった。
自分が帰ることで、また家族を苦しめてしまうのではないか。
そんな思いが、足を止めていた。
直人は、自分の人生がどこへ向かっているのか、分からなくなっていた。
ただ、明日も生きる。
それだけを繰り返していた。
7 少年達
その日も、直人は公園にいた。
夕方になり、数人の少年達がやってきた。
彼らは、仲間内で誰が一番強いかを競うような話をしていた。
「お前、口だけじゃねえの」
「じゃあ、やってみろよ」
笑い声が響いた。
少年達にとって、殴り合いは強さを見せつけるための遊びだった。
相手が痛みを感じていることよりも、仲間にどう見られるかの方が大切だった。
そのうちの一人が、ベンチに座っている直人に気づいた。
「なあ、あいつでよくね?」
少年達の視線が、直人に集まった。
直人は、顔を上げた。
「……何か用か」
「ちょっと付き合ってよ」
少年の一人が笑いながら近づいてきた。
直人は立ち上がろうとした。
その瞬間、胸を突き飛ばされた。
直人の身体が、地面に倒れた。
「おい、立てよ」
少年達の笑い声が聞こえた。
直人は、何が起きているのか分からなかった。
「やめてくれ……」
小さな声で言った。
しかし、少年達は止まらなかった。
一人が、直人を殴った。
次の少年が前に出た。
仲間内で決めたように、一人ずつ交代していく。
一人が一分間。
その時間が終わると、次の少年が代わる。
彼らにとっては、誰が一番強いのかを確かめるための、ふざけた遊びだった。
だが、地面に倒れた直人にとっては違った。
殴られるたびに、身体に痛みが走る。
蹴られるたびに、息が詰まる。
起き上がろうとしても、身体が思うように動かなかった。
「もう……やめてくれ……」
直人は、何度も訴えた。
しかし、少年達は笑っていた。
「まだ一分経ってねえぞ」
「次、俺な」
誰も、直人の言葉を真剣に聞こうとはしなかった。
一人が殴り終えると、別の少年が前に出る。
その繰り返しだった。
直人は、意識が遠のいていくのを感じた。
なぜ、自分はこんな目に遭っているのだろう。
何をしたというのだろう。
頭の中に、いくつもの思いが浮かんでは消えていった。
美和。
結人。
もう一度、会いたかった。
もう一度、家に帰りたかった。
それでも、直人の身体は動かなかった。
少年達の声が、遠くなっていく。
やがて、直人は何も感じなくなった。
最後に何を思ったのか、誰にも分からない。
少年達は、直人が動かなくなったことに気づいていた。
しかし、死んだとは思わなかった。
「もういいだろ」
誰かが言った。
少年達は、その場を離れていった。
公園には、直人だけが残された。
家族を守ろうとして家を出た男。
亡くなった二人の命を考え続けた男。
帰る場所を失い、それでも生き続けてきた男。
その人生は、誰にも知られないまま終わった。
――第三十話・前編 完――




