第29話「運を引く」
『42紙』
第29話「運を引く」
人の人生は、何で決まるのだろう。
努力か。
才能か。
それとも、運か。
村瀬健一、五十五歳。
特別な才能があるわけでもなく、大きな夢を叶えたわけでもない。
毎朝、決まった時間に起きて仕事へ行く。
嫌なことがあっても、簡単には仕事を辞めない。
欲しいものがあっても、値段を見て諦める。
外食はなるべく控え、服は着られるうちは買い替えない。
贅沢をしなかったのは、金に困っていたからだけではない。
自分のために金を使うことに、どこか後ろめたさがあった。
「まあ、俺なんてこんなもんだろ」
健一は、何かを諦めるたびにそう言った。
頑張れば、少しは報われる。
そう信じていなかったわけではない。
ただ、頑張ったからといって、必ず報われるわけではないことも知っていた。
職場では、健一より仕事のできる人間がいた。
自分より要領のいい人間もいた。
同じように努力しているのに、先に出世する人間もいた。
運よく上司に気に入られた者。
たまたま大きな仕事を任された者。
反対に、どれだけ真面目に働いても、なかなか評価されない者。
健一は、そのどちらも見てきた。
ある日、同僚と酒を飲んでいたとき、そんな話になった。
「結局さ、人生って何で決まるんだろうな」
同僚が、酔った顔で笑った。
「努力1、才能2、運7って言うじゃないか」
「なんだよ、それ」
「努力も才能も大事だけど、最後は運がものを言うってことだろ」
「タイミングがぴったりあった時に強運が訪れて人生が変わるらしいぞ」
「人生って…運を引くタイミングで決まるのかもなぁー」
健一は、グラスの中の酒を見つめた。
努力が一割。
才能が二割。
運が七割。
ずいぶん乱暴な話だと思った。
努力をしている人間からすれば、納得できないだろう。
才能のある人間だって、努力をしているかもしれない。
それでも、運がなければ何も始まらないことがある。
生まれた環境。
出会った人。
たまたま訪れた機会。
自分ではどうにもできないことが、人生を大きく変えてしまう。
「じゃあ、運が悪かったら終わりかよ」
健一が言うと、同僚は肩をすくめた。
「そういうことじゃないだろ。運が来たときに、どうするかもあるんじゃないか」
健一は笑った。
「そんな都合よく運なんか来ないよ」
その言葉は、半分は冗談だった。
けれど、もう半分は本音だった。
自分の人生に、何かをひっくり返すような幸運が訪れる。
そんなことを、本気で信じてはいなかった。
少なくとも、その日までは。
*
ある休日。
健一は、いつものように買い物を済ませて帰宅した。
財布の中身を確認し、レシートを整理する。
いつもと変わらない一日。
いつもと変わらない生活。
そのとき、ふと思い出した。
少し前に買った宝くじが、引き出しに入ったままだった。
買った理由に、大したものはない。
売り場の前を通りかかり、なんとなく目に留まった。
当たるはずがないと思いながら、数枚だけ買った。
それだけだった。
健一は引き出しを開け、宝くじを取り出した。
番号を確かめる。
一度、目を離した。
もう一度、確かめた。
「……え?」
数字が合っていた。
何度見ても、同じだった。
健一はスマートフォンで当選番号を調べた。
指先が震えた。
画面と宝くじを交互に見比べる。
間違いではなかった。
高額当選だった。
「……嘘だろ」
声が漏れた。
部屋の中には、誰もいない。
それでも健一は、誰かに聞かれてしまうような気がして、思わず周囲を見回した。
そして、もう一度、当選番号を確かめた。
間違いない。
当たっていた。
人生が変わるほどの金額だった。
健一は椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
何を考えればいいのか、分からなかった。
仕事を辞められる。
欲しかったものが買える。
老後の心配も、少しは減るだろう。
そんな考えが浮かんでは消えた。
やがて、健一は小さく笑った。
「……俺にも、こんなことがあるんだな」
その笑いは、喜びというより、信じられないという気持ちに近かった。
努力して手に入れた金ではない。
才能を認められて得た金でもない。
ただ、運がよかった。
それだけで、これほど大きなものが手に入ってしまった。
同僚の言葉が、頭をよぎった。
――努力1、才能2、運7。
ーータイミング。
健一は、宝くじをそっと机の上に置いた。
「……本当に、運ってあるんだな」
そのときの健一は、まだ知らなかった。
手に入れる運と、手に入れたものを守る運が、同じとは限らないことを。
*
高額当選をしたことは、誰にも話さないつもりだった。
けれど、長く付き合いのある知人に、少しだけ打ち明けてしまった。
金を手にしたことを、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
自慢したかったわけではない。
ただ、自分の身に起きたことが、夢ではないと確かめたかった。
最初は、些細なことだった。
生活に困っている知人に金を貸した。
「必ず返すから」
そう言われた。
健一は、返してもらえなくても仕方がないと思える範囲で金を渡したつもりだった。
その次は、別の知人だった。
事業を始めたいという。
資金さえあれば、きっとうまくいく。
そう熱心に話す姿を見て、健一は応援したくなった。
自分が働いても、簡単には手に入らなかった金だ。
だからこそ、誰かの役に立つなら使いたいと思った。
自分が幸運を手にしたのなら、その幸運を少し分けることだってできる。
そう考えた。
しかし、返済の約束は延びていった。
連絡が取れなくなった人もいた。
事業は失敗し、投資した金は戻らなかった。
困っていると聞いて助けた相手から、さらに金を頼まれたこともあった。
断ろうとすると、相手の顔が曇った。
「健一さんなら、分かってくれると思ったんだけどな」
その言葉を聞くたび、健一は自分が冷たい人間になったような気がした。
そして、また金を出してしまう。
自分が金を持っていると知られれば、何かが変わる。
それは分かっていた。
それでも、誰かに喜んでもらえることが、うれしかった。
今まで、自分のために金を使うことはほとんどなかった。
欲しいものを我慢し、食べたいものを諦めてきた。
だから、誰かのために使うことなら、惜しくないと思っていた。
だが、気づけば、健一の周りには金の話ばかりが残っていた。
会いたいと言ってくる人。
相談があると言ってくる人。
昔はほとんど連絡をくれなかった人まで、急に親しげに話しかけてくるようになった。
その中に、本当に健一を心配している人が何人いたのか。
今となっては、分からない。
健一は、通帳の残高を見つめた。
数字は、当選したときから大きく減っていた。
「……何やってんだ、俺」
誰に言うでもなく、つぶやいた。
助けたかった。
喜んでもらいたかった。
自分が幸運を手にしたことに、何か意味を持たせたかった。
けれど、金を渡した相手の人生を、自分が変えられるわけではなかった。
その人がどう生きるかは、その人のものだ。
頭では分かっていた。
それでも、目の前で困っている人を放っておくことができなかった。
そして、最後には、自分のことを後回しにしたまま、金を失っていた。
宝くじが当たった。
それは、間違いなく幸運だった。
だが、幸運を手にしたからといって、その後の人生まで幸運になるわけではなかった。
当たった金額は大きかった。
けれど、健一がその金で何を得て、何を失ったのか。
それを、金額だけで測ることはできなかった。
*
それからしばらくして。
健一は、ひとりで街を歩いていた。
通帳に残った金は、わずかだった。
もう、以前のように誰かを助けることはできない。
これから先の生活を考えれば、残った金も大切にしなければならなかった。
ふと、店の前で足が止まった。
高級なレストランだった。
以前から、気になっていた店だ。
何度か前を通りかかったことがある。
店の窓から見える料理は、どれもきれいで、値段も高かった。
健一は、そのたびに考えた。
「俺には、もったいないな」
そして、そのまま通り過ぎてきた。
食べてみたい料理があった。
いつか、何かの記念日に。
仕事を頑張ったご褒美に。
そんな理由をつけて、いつか行こうと思っていた。
だが、その「いつか」は、ずっと来なかった。
健一は、店の入り口を見つめた。
今、ここで金を使えば、残った金はさらに減る。
これからの生活を考えれば、賢い選択ではないかもしれない。
それでも。
「……一回くらい、いいよな」
健一は、店の扉を開けた。
案内された席に座り、メニューを開く。
値段を見て、少しだけ息をのんだ。
それでも、今日はやめようとは思わなかった。
食べたかった料理を注文した。
料理が運ばれてくるまで、健一は落ち着かなかった。
高級な店で、ひとりで食事をする。
周囲の客が気になった。
自分だけ場違いなのではないか。
そんなことを考えて、少し恥ずかしくなった。
やがて、料理が運ばれてきた。
目の前に置かれた皿を見て、健一は目を細めた。
「……すごいな」
思わず声が出た。
ゆっくりと、ひと口食べる。
口の中に広がる味を、確かめるように噛みしめた。
「……うまい」
もうひと口。
健一は、自然と笑っていた。
今まで、何をしていたのだろう。
食べたいものがあっても、我慢した。
欲しいものがあっても、諦めた。
自分のために使う金は、いつも無駄遣いのように思えた。
誰かのためなら、使えるのに。
自分のためとなると、途端に惜しくなる。
どうして、そんなふうに生きてきたのだろう。
健一は、料理を見つめた。
宝くじが当たったとき、これで人生が変わると思った。
けれど、金は失われた。
助けた人が、みんな自分を大切にしてくれるわけでもなかった。
幸運を手に入れたはずなのに、最後には、何も残らないような気がしていた。
それでも。
今、目の前にある料理は、おいしかった。
誰かのためではない。
誰かに認めてもらうためでもない。
ただ、自分が食べたかったから。
自分のために、選んだものだった。
健一は、もうひと口、料理を口に運んだ。
「……もっと早く、来ればよかったな」
その顔には、満足そうな笑みが浮かんでいた。
そのときだった。
喉に、違和感が走った。
飲み込もうとしたものが、うまく通らない。
健一は、軽く咳き込んだ。
水を飲もうとしたが、息が苦しい。
胸が詰まる。
喉を押さえ、なんとか息をしようとする。
「……っ」
声が出なかった。
店員が異変に気づき、駆け寄ってくる。
周囲の客も、何事かと顔を上げた。
健一は、助けを求めようとした。
だが、うまく息ができない。
視界が揺れた。
苦しい。
体が、思うように動かない。
それでも、健一の顔には、笑みが残っていた。
目の前には、食べかけの料理がある。
ずっと、食べてみたかったもの。
ずっと、自分には贅沢だと思っていたもの。
ようやく、自分のために選んだもの。
おいしかった。
本当に、おいしかった。
もっと食べたかった。
もう少し、ゆっくり味わいたかった。
けれど、その思いが、後悔だけに変わることはなかった。
健一の意識が、遠のいていく。
最後まで、その顔には、満ち足りた笑みが浮かんでいた。
そして、村瀬健一は息を引き取った。
*
白い空間。
健一は、ゆっくりと周囲を見回した。
何もない。
床も、壁も、天井も、はっきりとは見えない。
ただ、白い。
目の前に、ひとりの男が立っていた。
「どーも、42紙です。えぇ、死神です」
健一は、男の顔を見た。
「……死神?」
「はい」
「俺、死んだのか?」
「そうですね」
あまりにも淡々とした返事だった。
健一は、言葉を失った。
しばらくして、自分の手を見た。
さっきまで、レストランにいたはずだ。
食べたい料理を食べていた。
それなのに、今は何もない白い場所に立っている。
「……そうか。俺、死んだのか」
42紙は、何も言わなかった。
健一は、しばらくうつむいていた。
もっと生きたかった。
まだ、やりたいことがあった。
そう思わないわけではなかった。
けれど、最後に浮かんだのは、金を失ったことへの悔しさでも、誰かに裏切られた怒りでもなかった。
あの料理の味だった。
健一は、小さく息を吐いた。
「……最後に、食べておいてよかったな」
42紙は、健一を見ていた。
やがて、健一の前に、白い紙が二枚差し出された。
どちらにも、何も書かれていない。
「どちらか一枚を、引いてください」
「……引く?」
「はい」
「何が違うんだ?」
「どちらかを引くと数字が浮かび上がります」
「4か2です」
健一は、紙を見つめた。
「4と2?」
「4と2は、死に方です」
42紙の声は、変わらなかった。
「4は、幸せな死に方。2は、不幸せな死に方です」
健一は、眉を寄せた。
「……それは、人生が幸せだったかどうかってことか?」
「違います」
42紙は、短く答えた。
「生きている間の評価ではありません」
「じゃあ、何で決まるんだ?」
「死に方です」
それ以上、42紙は説明しなかった。
健一は、二枚の紙を見つめた。
どちらも、ただの白い紙に見える。
これまでの人生を考えれば、運がよかったことも、悪かったこともあった。
宝くじが当たった。
それは、運がよかった。
だが、その金を失った。
それもまた、自分の人生の一部だった。
では、自分の死はどうなのだろう。
健一は、あのレストランを思い出した。
ようやく、自分のために選んだ料理。
誰かに喜んでもらうためでもなく、誰かに認められるためでもなく。
ただ、自分が食べたかったもの。
「……こっちだな」
健一は、一枚の紙を引いた。
紙の上に、数字が浮かび上がる。
4
健一は、その数字を見つめた。
「……4か」
「はい」
42紙は、それだけ答えた。
健一は、少しだけ笑った。
「そうか」
その顔には、驚きよりも、静かな納得があった。
そして目の前の空間の視界がゆっくり薄く消えていった。
*
レストランでは、店員たちが懸命に対応していた。
救急車が呼ばれ、健一は搬送された。
だが、命は助からなかった。
テーブルの上には、食べかけの料理が残っていた。
健一は、最後まで笑みを浮かべていた。
苦しさの中でも、彼の顔には、満ち足りたような表情が残っていた。
宝くじに当たったからではない。
大金を手に入れたからでもない。
人に金を与えたからでも、金を失ったからでもない。
最後の瞬間、健一は、自分が本当に望んでいたものを味わっていた。
自分で選び、浮かび上がった…
4
それだけが、彼の死に方を決めていた。
*
透の部屋。
机に向かっていた透は、手を止めた。
健一の人生が、頭から離れなかった。
努力しても、報われないことがある。
才能があっても、機会に恵まれないことがある。
そして、何の前触れもなく、運が舞い込むこともある。
宝くじが当たったことだけを見れば、健一は幸運な人間だった。
だが、その後の人生まで、幸運だったとは言い切れない。
金を失い、人に裏切られ、自分のために何かをすることさえ、長い間ためらっていた。
それでも、最後に食べた料理を思い出すと、透は不思議な気持ちになった。
あれだけの金を手にしたのに、健一が最後に幸せを感じたのは、ほんの一皿の料理だった。
「……努力1、才能2、運7、か」
透は、ぽつりとつぶやいた。
その言葉を、もう一度、頭の中で繰り返す。
努力が一割。
才能が二割。
運が七割。
数字だけを見れば、努力の価値は小さく思える。
けれど、健一が過ごしてきた日々は、決して小さなものではなかった。
毎日働いたこと。
欲しいものを我慢してきたこと。
人を助けようとしたこと。
自分のことを後回しにしてきたこと。
そのどれもが、宝くじの当選によって突然生まれたわけではない。
運が人生を大きく変えることはある。
だが、運だけで、その人がどんな人間なのかまで決まるわけではない。
健一は、運を手にした。
けれど、その運をどう使うかは、健一自身が決めていた。
誰かを助けようとしたことも。
金を失ってしまったことも。
最後に、自分のために料理を注文したことも。
全部が、健一の人生だった。
透は、机の上に視線を落とした。
自分の人生は、どうなのだろう。
努力すれば、何かが変わるのだろうか。
頑張れば、失ったものを取り戻せるのだろうか。
どれだけ願っても、どうにもならないことがある。
どれだけ大切に思っても、届かないことがある。
紗季のことを考えると、今でも胸の奥が痛んだ。
あのとき、違う選択をしていたら。
もっと何かができていたら。
そんなことを考えずにはいられない。
けれど、過去を何度振り返っても、起きたことは変わらない。
透は、ゆっくりと息を吐いた。
「……運が悪かった、で済ませていいのかな」
背後から、声がした。
「分かりません」
42紙だった。
いつものように、コンビニの袋を手に提げている。
透は振り返った。
「……いたのか」
「はい」
「いつから?」
「少し前からです」
「声くらいかけろよ」
「必要でしたか?」
透は、返事に詰まった。
42紙は、コンビニの袋からおにぎりを取り出した。
包みを開ける。
透は、その手元を見た。
「……また、おにぎりか」
「はい」
「お前、よく飽きないな」
「飽きるものなんですか?」
「いや、知らないけど……」
42紙は、おにぎりをひと口食べた。
透は、思わず小さく笑った。
ほんの一瞬だった。
けれど、その笑みはすぐに消えた。
「なあ、42紙」
「はい」
「運って、何なんだろうな」
42紙は、すぐには答えなかった。
おにぎりを持ったまま、透を見ている。
「宝くじに当たるのも運だろ。生まれた環境も、誰と出会うかも……自分じゃ決められないことが、たくさんある」
透は、言葉を探しながら続けた。
「でも、運がよかったから幸せになるとは限らない。運が悪かったから、不幸になるとも限らない」
「そうですね」
「……じゃあ、何で人生は、こんなに違うんだろうな」
42紙は、少しだけ首を傾けた。
「人それぞれだからではないでしょうか」
「……答えになってないだろ」
「そうですか」
透は、ため息をついた。
けれど、42紙に正解を教えてほしかったわけではないのかもしれない。
誰かに答えを出してもらえば、納得できる。
そんな簡単なことではないと、透自身が分かっていた。
「……健一さんは、運がよかったのかな」
42紙は、おにぎりを食べ終えた。
「宝くじには、当たりましたね」
「そういうことを聞いてるんじゃない」
「はい」
短い沈黙が流れた。
透は、視線を落とした。
「……あの人、もっと自分のために生きてもよかったんじゃないかな」
言ってから、透は口を閉じた。
それは、健一に向けた言葉だった。
けれど同時に、自分自身にも向けていたような気がした。
誰かのために何かをすること。
大切な人を守りたいと思うこと。
それは、決して悪いことではない。
ただ、そのために自分の気持ちを押し殺し続けていたら。
自分が本当に望んでいることさえ、分からなくなってしまうのかもしれない。
健一は、最後に自分のために料理を選んだ。
たった一度だったのかもしれない。
それでも、その一度を、心から喜んでいた。
透は、静かに目を閉じた。
紗季のことを思い出す。
あの頃の自分は、何を望んでいたのだろう。
何を伝えたかったのだろう。
今になって考えても、答えは簡単には見つからない。
失ったものは、戻らない。
それでも、失ったものを思い続けることと、これからを生きることは、両立できるのかもしれない。
まだ、うまく言葉にはできなかった。
「……俺も、少しは自分のことを考えたほうがいいのかな」
42紙は、透を見た。
「そうですね」
それだけだった。
慰めるわけでもない。
励ますわけでもない。
透の考えを否定するわけでもない。
ただ、そう答えた。
透は、少しだけ笑った。
「……お前って、本当に余計なことを言わないよな」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
42紙は、空になったおにぎりの包みをコンビニの袋に入れた。
透は、その様子を見て、また小さく笑った。
「……人生の答えを聞いてるのに、おにぎり食ってるし」
「食事中でしたので」
「いや、知ってるけどさ」
透は、窓の外に目を向けた。
運がよければ、人生は変わるのかもしれない。
努力が報われる日もあるのかもしれない。
けれど、どれだけ努力しても、どうにもならないこともある。
それでも、自分にできることまで、運のせいにしてしまいたくはなかった。
何が起こるかは、分からない。
誰と出会うかも。
何を失うかも。
どんな未来が待っているかも。
それでも、自分が何を大切にするのか。
何を選ぶのか。
その答えまで、運に任せてしまう必要はないのかもしれない。
透は、もう一度、健一のことを思った。
努力1。
才能2。
運7。
その数字が、本当に正しいのかどうかは分からない。
けれど、人生には、自分では選べないものがたくさんある。
だからこそ。
自分に与えられたものを、どう受け取るのか。
そして、限られた時間の中で、何を大切にするのか。
それくらいは、自分で考えてもいいのだろう。
透は、ゆっくりと顔を上げた。
「……なあ、42紙」
「はい」
「おにぎり、もう一個ある?」
42紙は、コンビニの袋を見た。
「あります」
「……一個くれよ」
「食べるんですか?」
「悪いかよ」
「いいえ」
42紙は、袋からおにぎりを取り出した。
透は、それを受け取った。
包みを開けながら、ふと思った。
こんな何でもない時間も、いつか失われる。
だからといって、失うことを恐れて、何もしないままでいるのも違うのだろう。
今はまだ、分からないことばかりだ。
それでも。
ほんの少しだけ、自分のこれからを考えてみようと思った。
透は、おにぎりをひと口食べた。
「……普通だな」
42紙が透を見た。
「そうですか」
「いや、うまいけど」
42紙は、何も言わなかった。
透は、もうひと口食べた。
そして、静かに笑った。
人生は、努力だけでは決まらない。
才能だけでも、運だけでもない。
それでも、人は、そのとき手にしたものを抱えて、生きていく。
たとえ、それが思い描いたものとは違っていたとしても。
ーー第二十九話「運を引く」・完ーー




