第28話「答えのない世界」
『42紙』
第28話「答えのない世界」
透の部屋。
壁の時計が、静かに時を刻んでいた。
2:31。
透は椅子に座り、何をするでもなく、窓の外を眺めていた。
最近、考えることが増えた。
いや、以前から考えていたのかもしれない。
ただ、考えないようにしていただけなのかもしれなかった。
人は、何のために生きるのだろう。
何を信じ、何を支えにして、明日を迎えるのだろう。
そして、死んだあとには、何が残るのだろう。
「……難しい顔してますね」
声がした。
振り向くと、42紙が立っていた。
片手には、いつものコンビニ袋。
「お前、いつからいたんだよ」
「少し前からです」
「声くらいかけろよ」
「考え事をしているようでしたので」
「……見てたのか?」
「はい」
「趣味悪いな」
「そうですか」
42紙は、いつものように淡々と答えた。
透は小さく息を吐いた。
「……まあ、いいけど」
42紙がコンビニ袋からおにぎりを取り出した。
その姿を見て、透は呆れたように笑った。
「またおにぎりか」
「はい」
「本当に好きだな」
「そうですね」
「いや、否定しろよ」
「なぜですか」
透は、思わず笑った。
ほんの少しだけ、部屋の空気が和らいだ。
けれど、その笑いも長くは続かなかった。
透は、再び窓の外へ目を向けた。
「……なあ、42紙」
「はい」
「お前、神はいないって言ったよな」
「はい」
「天国も地獄も、生まれ変わりもない」
42紙は、黙っていた。
「……だったらさ」
透は言葉を探した。
「人は、何を信じて生きてるんだろうな」
42紙は、すぐには答えなかった。
「神様が見ていてくれるとか、死んだら天国で会えるとか……そういうことを信じて、つらいことを乗り越える人もいるんだろ?」
「そうですね」
「でも、それがないんだとしたら……」
透は、そこで言葉を切った。
自分が何を聞きたいのか、うまく整理できなかった。
神がいない。
天国も地獄もない。
生まれ変わりもない。
それは、誰かに罰を与える存在も、死んだあとに救ってくれる場所も、もう一度やり直せる人生もないということだった。
少なくとも、この世界には。
それでも、人は生きている。
明日のことを考え、誰かを愛し、誰かのために働き、時には自分のことさえ後回しにして、誰かを守ろうとする。
なぜなのだろう。
報われる保証などないのに。
死んだあとに、何かが待っているわけでもないのに。
「……変だよな」
「何がですか」
「いや……人間ってさ」
透は、膝の上で両手を組んだ。
「自分がいつ死ぬかも分からないのに、ずっと先のことまで考えて生きてるんだよな」
42紙は黙っていた。
「家族のために働いたり、誰かのために何かを残そうとしたり。自分がいなくなったあとのことまで考えてさ」
透は、ふと、ある男の顔を思い出した。
長い年月、病院の設備を守り続けた榊原修司。
自分が積み重ねてきた仕事が、次の世代へ受け継がれていたと知ったとき、修司は穏やかな表情を浮かべていた。
自分の人生が、誰かにつながっていた。
それが、修司にとっての喜びだったのだろう。
けれど、その先に何があるのか。
自分がいなくなったあと、何が残るのか。
修司自身が、それをすべて見届けられるわけではない。
それでも、彼は仕事を続けてきた。
誰かに褒められるためだけではなく、明日も病院が動き、誰かの命が守られるように。
「……自分が死んだあとにも、何かが残るって思えるからなのかな」
透がつぶやいた。
42紙は、おにぎりを持ったまま答えた。
「どうでしょう」
「分からないか」
「はい」
透は苦笑した。
「お前は本当に、何でも分からないんだな」
「分からないことは、分かりませんので」
「……まあ、そうだよな」
42紙は、神ではない。
人間の生きる意味を知っているわけでもない。
死んだ人間がどこへ行くのか、何を感じるのか、すべてを知っているわけでもない。
ただ、亡くなった人の前に立ち、二枚の白い紙を差し出す。
そして、選ばれた紙に現れた数字を見届ける。
4か、2か。
その人がどんな人間だったか。
誰を愛し、誰に傷つけられ、何を成し遂げたのか。
そうしたことすべてが、たった一つの数字に置き換えられるわけではない。
透は、それを知っていた。
4を引いた人が、人生のすべてに満足していたとは限らない。
2を引いた人が、不幸な人生しか送ってこなかったわけでもない。
死の瞬間の幸福と不幸。
それは、その人が生きてきた時間すべてを評価するものではなかった。
「……なあ、42紙」
「はい」
「お前が見送ってきた人たちはさ」
透は、少しだけ視線を落とした。
「みんな、何かを抱えてたよな」
「そうですね」
「後悔してる人もいた。誰かに会いたがってる人もいた。まだ生きていたかった人だっていた」
九歳の少年が、プリンを好きだと話していたこと。
両親と一緒に海へ行きたかったという、小さな願い。
病気と向き合いながら、最後まで医師として生きた男。
救えなかった命を胸に抱えていた人。
交通安全のお守りを大切にしていた男。
そして、誰にも言えなかった思いを抱えたまま、母との再会を果たせなかった千鶴。
それぞれの人生は違っていた。
願いも、後悔も、愛する人も違っていた。
けれど、彼らはみんな、生きていた。
何かを願い、何かを大切にし、何かを失いながら。
そして、最後の瞬間を迎えた。
透は、ゆっくりと顔を上げた。
「……あの人たちは、何のために生きてたんだろうな」
42紙は答えなかった。
「いや、別に、無駄だったとか言いたいわけじゃないんだ」
透は、自分の言葉を確かめるように続けた。
「誰かのために頑張ったことも、誰かを愛したことも、ちゃんと意味があったと思う。少なくとも、俺はそう思いたい」
言いながら、透は自分の中にある矛盾に気づいていた。
意味があってほしい。
そう願っているだけなのかもしれない。
本当に意味があったと、誰が証明できるのだろう。
神はいない。
死んだあとに、その人生を振り返り、正しかったと認めてくれる存在もいない。
どれだけ愛しても、どれだけ努力しても、すべてが報われるわけではない。
それでも、意味がなかったとは思いたくなかった。
「……難しいな」
透がつぶやいた。
「そうですね」
「お前、今のは否定しないんだな」
「難しいことだと思いますので」
「……そっか」
透は、少しだけ笑った。
その笑顔は、すぐに消えた。
頭の中に、紗季の顔が浮かんだからだ。
紗季。
何度考えても、答えの出ない存在。
どうして、紗季が死ななければならなかったのか。
なぜ、自分は紗季を失わなければならなかったのか。
もし神がいるのなら、聞いてみたかった。
なぜ、あの人だったのか。
なぜ、あのときだったのか。
けれど、神はいない。
誰かが決めた運命だったわけでもない。
紗季の死に、何か特別な意味が用意されていたわけでもないのかもしれない。
ただ、紗季は死んだ。
そして、透は生き残った。
その事実だけが、今も変わらず残っている。
「……なあ」
透の声が、少しだけ低くなった。
「もしさ」
「はい」
「誰かが死んで、その人のことを覚えてる人間も、いつか全員いなくなったら……その人が生きてたことって、どうなるんだろうな」
42紙は黙っていた。
透は続けた。
「誰も覚えてない。誰も名前を呼ばない。誰も、その人が何をして、誰を愛して、どんなことで笑ってたのか知らない」
そこで、透は言葉を止めた。
「……それでも、その人が生きてた時間は、あったんだよな」
42紙は、静かに答えた。
「はい」
透は、42紙を見た。
「……そうだよな」
それだけの答えだった。
けれど、透はその言葉を、すぐには手放せなかった。
誰かが覚えているから、人生に意味があるのだろうか。
誰かの役に立ったから、意味があるのだろうか。
愛する人がいたから。
仕事をやり遂げたから。
誰かを幸せにできたから。
そうしたものがなければ、人の人生には意味がないのだろうか。
透には、分からなかった。
分からないまま、考え続けていた。
「……俺はさ」
透は、静かに口を開いた。
「紗季が生きてたことを、無駄だったなんて思いたくない」
42紙は何も言わなかった。
「でも……紗季が死んだことに意味があったなんて、簡単に言いたくもないんだ」
透は、両手を強く握った。
「そんなことを言ったら、紗季が死ななきゃいけなかった理由まで、認めることになる気がするから」
自分でも、ずっと整理できずにいた気持ちだった。
紗季と過ごした時間は、大切だった。
その時間があったことを、後悔したことなどない。
けれど、紗季を失った悲しみまで、何かのために必要だったとは思えなかった。
悲しみを乗り越えた先に、何かが待っている。
そんな約束もない。
ただ、悲しい。
今でも、会いたい。
その気持ちは、簡単には変わらない。
「……おかしいかな、俺」
42紙は、首を振ることも、うなずくこともしなかった。
ただ、短く答えた。
「いいえ」
透は、目を伏せた。
「……そっか」
しばらく、二人の間に沈黙が流れた。
42紙は、コンビニ袋に手を入れた。
「……何だよ」
透が顔を上げた。
「おにぎりです」
「見れば分かるよ」
「食べますか」
「……いらない」
「そうですか」
42紙は、おにぎりを取り出した。
透は、その様子を見て、小さく息を吐いた。
「お前って、本当に変わらないな」
「そうですね」
「……それがいいのか、悪いのか、分からないけど」
42紙は、何も答えなかった。
透は、壁の時計に目を向けた。
2:31。
いつもと同じ時刻。
いつもと同じ部屋。
いつもと同じ42紙。
けれど、透の中には、以前にはなかった問いが残っていた。
神もいない。
天国も地獄もない。
生まれ変わりもない。
死んだあとに、何が待っているのか。
誰にも、確かなことは分からない。
それでも、人は生きる。
誰かを愛し、誰かのために悩み、誰かを失って泣く。
その行いに、最初から決められた意味などないのかもしれない。
それでも、意味がないと決めつけることもできなかった。
透は、自分の胸に手を当てた。
紗季と過ごした時間は、確かにあった。
紗季を失った悲しみも、今ここにある。
それを、何かのために必要だったことにしなくてもいい。
悲しみを美しいものに変えなくてもいい。
ただ、そこにあったものとして、抱えて生きていくことはできるのだろうか。
「……なあ、42紙」
「はい」
「俺、まだ分からないことだらけだ」
「そうですか」
「ああ」
透は、小さく笑った。
「でも、分からないまま考えてても、いいのかもしれないな」
42紙は、少しだけ間を置いた。
「そうですね」
透は、再び時計を見た。
そのときだった。
ほんのわずかな違和感を覚えた。
時計の針が、さっき見た位置とは違っている。
透は目を細めた。
2:35。
「……あれ?」
「どうしました」
「いや……時計、こんな時間だったか?」
42紙は壁の時計を見た。
「そうですね」
「……そうか」
透は首をかしげたが、それ以上気に留めなかった。
時計が壊れたのかもしれない。
そう思っただけだった。
42紙も、それ以上は何も言わなかった。
透は椅子から立ち上がり、窓の外を眺めた。
いつもと変わらない景色。
いつもと変わらない世界。
けれど、その世界には、神もいない。
死んだあとに救ってくれる場所も、もう一度やり直せる人生もない。
それでも、明日になれば、人は目を覚ます。
誰かを思い、誰かのために働き、時には間違え、後悔しながら、それでも生きていく。
なぜなのか。
透には、まだ分からなかった。
答えを見つけたわけでもない。
悲しみが消えたわけでもない。
ただ、考え続けていた。
人は、何のために生きるのだろう。
何を支えにして、明日を迎えるのだろう。
そして、自分は。
透は、まだ知らなかった。
時計の針が、これまでとは違う速さで進み始めていることを。
その針が刻んでいる時間が、自分に残された時間でもあることを。
壁の時計は、2:35を指していた。
そして、静かな部屋に、時計の音だけが響いていた。
――第二十八話「答えのない世界」・完――




