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「42紙」(しにがみ)  作者: kiseki-ryu


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第27話「最後まで言えなかった言葉」

『42紙(しにがみ)』

第27話「最後まで言えなかった言葉」


一 母の娘


千鶴がまだ幼かった頃。


朝、目を覚ますと、台所から包丁の音が聞こえてきた。


トントン、トントン。


味噌汁の湯気が、台所の窓を白く曇らせている。


「千鶴、起きたの?」


母が振り返った。


「うん……」


寝ぼけた顔の千鶴を見て、母は笑った。


「もうすぐご飯だから、顔を洗っておいで」


千鶴は、母の背中に抱きついた。


「お母さん、今日のおかず、なあに?」


「千鶴の好きな卵焼きよ」


「やった!」


母は笑いながら、千鶴の頭を撫でた。


「そんなに喜んでくれるなら、毎日作ってあげなくちゃね」


千鶴にとって、それは当たり前の毎日だった。


熱を出せば、母は夜通し額に手を当ててくれた。


転んで膝を擦りむけば、誰よりも心配してくれた。


運動会の日には、朝早くから弁当を作り、千鶴の走る姿を見て、誰よりも大きな声で応援した。


千鶴が一等賞になれなかった日も、母は変わらなかった。


「頑張ったね」


そう言って、千鶴を抱きしめてくれた。


「でも、お母さん。私、ビリだったよ」


「そうね」


「悔しくないの?」


「千鶴が一生懸命走ったことを、お母さんは知っているもの」


母はそう言って笑った。


千鶴は、その言葉の意味を深く考えたことなどなかった。


ただ、お母さんが大好きだった。


母と一緒にいることが、当たり前で、幸せだった。


やがて千鶴は成長し、小学校を卒業し、中学生になった。


友達とのことで悩んだ日も、勉強がうまくいかなかった日も、母は千鶴の話を聞いた。


時には叱られることもあった。


千鶴が嘘をつけば、母は悲しそうな顔をした。


「千鶴。お母さんはね、あなたに立派な人間になってほしいわけじゃないの」


「じゃあ、何?」


「自分のことも、人のことも、大切にできる人になってほしいの」


千鶴は、そのときはよくわからず、返事もしなかった。


ただ、母に叱られたあとも、夕食には千鶴の好きなおかずが並んでいた。


翌朝になれば、いつもと同じように母が起こしに来た。


母の愛情は、特別な言葉で伝えられるものではなかった。


毎日の暮らしの中に、当たり前のようにあった。


高校生になると、千鶴は少しずつ母に反抗するようになった。


門限を過ぎて帰宅した日には、母が玄関で待っていた。


「何時だと思っているの!」


「わかってるよ!」


「心配したのよ!」


「子供じゃないんだから!」


千鶴は、母の横をすり抜けて自分の部屋に入った。


母は追いかけてこなかった。


しばらくして、部屋の前に食事が置かれた。


千鶴はそれを見つめた。


本当は、心配してくれていることがわかっていた。


けれど、素直に謝ることができなかった。


翌朝には、母がいつものように声をかけてきた。


「千鶴、朝ご飯よ」


「……うん」


それだけで、二人の間のわだかまりは消えた。


千鶴は、そんな日々がいつまでも続くと思っていた。


母は、自分の母親なのだから。


自分は、この人の娘なのだから。


その当たり前が、いつか大きく揺らぐことになるなど、考えもしなかった。


---


二 親戚の集まり


千鶴が二十歳になった頃。


親戚が集まる機会があった。


久しぶりに会う人も多く、居間は賑やかな声に包まれていた。


千鶴は、母のそばでお茶を運んでいた。


「千鶴ちゃんも、もう二十歳かあ」


親戚の一人が、懐かしそうに言った。


「本当に大きくなったねえ」


「ありがとうございます」


千鶴が笑顔で頭を下げると、別の親戚が顔を覗き込んだ。


「千鶴ちゃんは、本当のお母さんにそっくりね」


千鶴の手が止まった。


「……え?」


親戚は、何気ない口調で続けた。


「目元なんて、あの人によく似ているもの。生きていたら、きっと喜んだでしょうね」


その場の空気が、わずかに変わった。


親戚は、そこで初めて自分の言葉に気づいたようだった。


「あ……」


母が、持っていた湯飲みを置いた。


「その話は……」


「え? ああ、ごめんなさい。私、つい……」


親戚は慌てて口を閉じた。


けれど、千鶴の耳には、もう何も入ってこなかった。


本当のお母さん。


その言葉だけが、頭の中で繰り返されていた。


千鶴は、母を見た。


母は、目を伏せていた。


「お母さん……」


声が震えた。


「今の話、どういうこと?」


母はすぐには答えなかった。


千鶴は、もう一度尋ねた。


「私の、本当のお母さんって……何?」


母の顔から、血の気が引いていった。


「千鶴……」


「どういうことなの?」


親戚たちは、誰も口を開かなかった。


やがて母は、千鶴の手を取った。


「……こっちへ来て」


二人は別の部屋へ移った。


扉が閉まる。


千鶴は、母の顔を見つめた。


「私、誰の子なの?」


母は唇を噛んだ。


そして、長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。


「……千鶴を産んだのは、私のお兄さんのお嫁さんなの」


千鶴は、意味を理解できなかった。


「……え?」


「千鶴のお父さんは、私の実のお兄さんだったのよ。千鶴が生まれる前に、亡くなってしまったけれど……」


母の声は震えていた。


「お母さんは……」


千鶴は、目の前の女性を見つめた。


「私を産んだ人じゃ、ないの?」


母は、目に涙を浮かべた。


「……そうよ」


千鶴は、一歩後ずさった。


「じゃあ……今まで、ずっと……」


言葉が続かなかった。


母は千鶴の手を握ろうとした。


「ごめんね。いつか話さなければいけないと思っていたの。でも、あなたを失うのが怖くて……」


「どうして?」


千鶴の声が大きくなった。


「どうして、今まで黙っていたの!」


「千鶴……」


「私だけ知らなかったの? みんな知っていたの?」


母は答えられなかった。


千鶴の目から、涙がこぼれた。


「私、ずっと……お母さんの子だと思っていたのに」


母は、泣きながら首を振った。


「千鶴は、私の大切な娘よ」


「そんなこと、今さら言わないで!」


母の手が止まった。


千鶴は、その場から逃げるように部屋を出た。


母は、追いかけることができなかった。


自分が守り続けてきた娘を、傷つけてしまった。


その事実に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。


---


三 最後の喧嘩


その夜、千鶴は母と向き合った。


親戚たちは帰り、家の中は静まり返っていた。


母は、何度も言葉を探していた。


「千鶴。お母さんの話を聞いて」


「何を聞けばいいの?」


「あなたを育ててきたことに、嘘はないの」


「じゃあ、どうして隠したの!」


千鶴は叫んだ。


「どうして、私だけ知らなかったの!」


「……ごめんね」


「ごめんって言えば済むの?」


母は何も言えなかった。


千鶴の目には、涙が溜まっていた。


「私が本当のことを知ったら、どうなると思ったの?」


「……怖かったの」


母の声は、かすれていた。


「あなたが私のことを、お母さんだと思ってくれなくなるのが……怖かったの」


千鶴は、唇を噛んだ。


「だったら、最初から話してくれればよかったじゃない!」


母は、ただ泣いていた。


千鶴は、その涙を見ても、もう何も受け止めることができなかった。


「もういい!」


自分の部屋へ行き、荷物をまとめた。


母が慌てて追いかけてきた。


「千鶴、どこへ行くの!」


「出ていく!」


「待って。お願いだから、話をさせて」


「もう話すことなんかない!」


千鶴は玄関へ向かった。


母が後ろから声をかけた。


「千鶴!」


千鶴は振り返らなかった。


本当は、母に引き止めてほしかった。


もう一度、抱きしめてほしかった。


今までと同じように、自分の名前を呼んでほしかった。


けれど、そんな自分の気持ちを認めることができなかった。


玄関の扉が閉まった。


母は、その場に立ち尽くした。


娘の足音が遠ざかっていく。


追いかければよかったのかもしれない。


もう一度、謝ればよかったのかもしれない。


それでも母は、動けなかった。


娘が自分を憎んでいるのだと思うと、これ以上傷つけることが怖かった。


千鶴もまた、歩きながら泣いていた。


母のことが嫌いになったわけではなかった。


それなのに、帰ることができなかった。


「お母さんが悪いんだから……」


そうつぶやきながら、千鶴は歩き続けた。


自分から謝るなんて、できなかった。


母が謝ってくれれば、きっと許せる。


そう思っていた。


そのときの千鶴には、まだわからなかった。


母もまた、同じように、娘からの言葉を待っていたことを。


---


四 離れて暮らす母と娘


年月が流れた。


千鶴は仕事をし、やがて結婚した。


自分の家庭を持ち、毎日の暮らしに追われるようになった。


子育てを経験したとき、千鶴は初めて、母がしてくれたことの大きさを知った。


夜中に子供が熱を出せば、心配で眠れなかった。


食事を残せば、体調が悪いのではないかと気になった。


子供が転んで泣けば、胸が痛んだ。


そして、子供が笑えば、自分まで嬉しくなった。


そんな日々の中で、千鶴はふと、母のことを思い出すようになった。


自分が熱を出した夜、母はずっとそばにいてくれた。


自分が失敗した日も、母は責めるだけではなく、最後には味方でいてくれた。


何も言わなくても、母は自分の好きなものを覚えていた。


自分が当たり前だと思っていたことは、当たり前ではなかったのだ。


千鶴は、台所で立ち止まった。


子供のために作った卵焼きを見つめていた。


「……お母さん」


小さく、つぶやいた。


会いたかった。


声が聞きたかった。


謝りたかった。


けれど、電話をかけることができなかった。


受話器を手に取っても、番号を押せなかった。


もし、母が電話に出たら。


何と言えばいいのだろう。


「ごめんなさい」と言えばいい。


それだけのことだった。


けれど、何年も連絡を取っていない相手に、最初の一言を伝えることは、千鶴にはどうしてもできなかった。


母もまた、千鶴のことを考えていた。


娘は元気にしているだろうか。


ちゃんと食べているだろうか。


困ったことはないだろうか。


結婚したと聞いたときには、嬉しかった。


幸せに暮らしていてほしいと、心から願った。


本当は、会いたかった。


声を聞きたかった。


けれど、電話をかける勇気がなかった。


今さら連絡したら、千鶴を困らせるのではないか。


自分のことを、まだ許せないでいるのではないか。


そう考えると、受話器を置くしかなかった。


二人は、互いを思っていた。


それでも、連絡を取らなかった。


千鶴は、母が自分を心配していることを知らなかった。


母は、千鶴が何度も電話をかけようとしていたことを知らなかった。


二人の間には、何年もの時間が流れていった。


その時間の中で、母の愛情が消えたわけではなかった。


千鶴の愛情が消えたわけでもなかった。


ただ、言葉にできなかった。


意地があった。


恐れがあった。


今さら謝ることへの、どうしようもない恥ずかしさがあった。


そして、二人とも、いつかまた会えると思っていた。


---


五 母の死


ある日、千鶴のもとへ連絡が入った。


母が亡くなったという知らせだった。


千鶴は、電話を握ったまま動けなくなった。


「……え?」


相手の声が、遠くに聞こえた。


母が亡くなった。


もう会えない。


もう声を聞くこともできない。


千鶴は、椅子に座り込んだ。


頭の中に、幼い頃の母の顔が浮かんだ。


卵焼きを作ってくれた母。


熱を出した自分の額に手を当ててくれた母。


運動会で、大きな声を出して応援してくれた母。


そして、最後に見た、泣いている母の顔。


「……お母さん」


千鶴は、両手で顔を覆った。


会いたかった。


ずっと、会いたかった。


謝りたかった。


ありがとうと、伝えたかった。


どうして、あのとき家を出てしまったのだろう。


どうして、一度も電話をかけなかったのだろう。


どうして、たった一言が言えなかったのだろう。


葬儀の日。


千鶴は、会場の近くまで行った。


中から、人の声が聞こえていた。


母を見送りに来た人たちがいる。


その中に、自分も入ればいい。


母の顔を見て、最後に謝ればいい。


もう、意地を張る必要などなかった。


母は、もう怒らない。


千鶴を責めることもない。


それなのに、足が動かなかった。


扉の向こうにいる母に、どうしても会いに行けなかった。


千鶴は、立ち尽くした。


やがて、会場から人が出てきた。


千鶴は顔を伏せた。


誰にも気づかれないように、その場を離れた。


帰り道、何度も振り返った。


それでも、戻ることはできなかった。


母に会う最後の機会を、自分の手で失ってしまった。


家に帰ると、千鶴は一人で泣いた。


「ごめんなさい……」


誰もいない部屋で、何度も繰り返した。


「お母さん、ごめんなさい……」


その声を聞く人は、もういなかった。


---


六 母と同じ年齢になった日


それから、さらに年月が流れた。


千鶴は年を重ね、七十六歳になった。


鏡に映る自分の顔には、深い皺が刻まれていた。


髪は白くなり、若い頃のようには体も動かなくなった。


ある日、千鶴は古いアルバムを開いた。


そこには、幼い自分と母が写っていた。


母は笑っていた。


千鶴を抱きしめ、嬉しそうにこちらを見ていた。


写真の中の母は、千鶴が知っている母のままだった。


千鶴は、写真を指でなぞった。


「……お母さん」


声が震えた。


「私、今ならわかるよ」


母が、どんな気持ちで自分を育ててくれたのか。


どれだけ心配してくれたのか。


どれだけ愛してくれたのか。


自分が子供を育てて初めて、その大きさを知った。


母は、自分を産んだ人ではなかった。


けれど、毎日食事を作り、心配し、叱り、励まし、愛してくれた。


血がつながっているかどうかなど、母にとっては関係なかったのかもしれない。


母は、千鶴を自分の娘として愛していた。


その愛情に、嘘はなかった。


「私……何をしていたんだろうね」


千鶴は、写真を胸に抱いた。


「お母さんは、ずっと私のお母さんだったのに……」


涙が頬を伝った。


あのとき、母の話を聞いていれば。


あのとき、自分から謝っていれば。


たった一度でも、電話をかけていれば。


母に、ありがとうと伝えられたかもしれない。


もう一度、抱きしめてもらえたかもしれない。


けれど、もう遅かった。


どれほど願っても、時間は戻らなかった。


千鶴は、写真を見つめ続けた。


「お母さん……会いたいよ」


その夜、千鶴は一人で過ごしていた。


窓の外では、冷たい風が吹いていた。


千鶴は立ち上がろうとした。


その瞬間、胸に強い痛みが走った。


「……あっ」


息が苦しい。


足に力が入らない。


千鶴は、壁に手をつこうとした。


けれど、手は届かなかった。


身体が崩れ落ちる。


床に倒れた千鶴は、動けなくなった。


目の前には、母の写真があった。


手を伸ばす。


あと少し。


けれど、指先は届かなかった。


「……お母さん」


声にならない声が漏れた。


千鶴の意識が、少しずつ遠のいていく。


最後に見えたのは、写真の中で笑っている母の顔だった。


千鶴は、その日、誰にも看取られることなく亡くなった。


---


七 白い空間


気がつくと、千鶴は白い空間に立っていた。


床も、壁も、天井も、白かった。


どこまでも続いているように見える。


千鶴は、自分の手を見つめた。


身体に痛みはなかった。


先ほどまで苦しかった胸も、今は何ともない。


「……ここは?」


そのとき、目の前に一人の男が現れた。


黒いローブを着ているわけでもない。


大きな鎌を持っているわけでもない。


どこにでもいそうな、普通の人間に見えた。


男は、千鶴に向かって軽く頭を下げた。


「どーも、42紙です。えぇ、死神です」


千鶴は、目を丸くした。


「……死神?」


「はい」


「私、死んだの?」


「はい」


あまりにも淡々とした返事だった。


千鶴は、しばらく言葉を失った。


「……そう」


母に会えないまま、自分も死んだ。


そう思うと、胸の奥が痛んだ。


42紙は、二枚の白い紙を差し出した。


「こちらから、一枚選んでください」


千鶴は、紙を見つめた。


どちらも真っ白だった。


「これは……何なの?」


「選んだ紙に、あなたの死についての答えが出ます」


「答え?」


「はい」


千鶴は、二枚の紙を交互に見た。


「どちらを選んでも同じなの?」


「違います」


「何が違うの?」


42紙は、短く答えた。


「4と2です」


千鶴は眉を寄せた。


「それだけ?」


「はい」


「……よくわからないわね」


「よく言われます」


千鶴は、思わず42紙を見た。


「あなた、本当に死神なの?」


「えぇ。そこは間違いありません」


千鶴は、少しだけ笑いそうになった。


こんなときに、何を言っているのだろう。


けれど、その妙に普通なやり取りが、かえって不思議だった。


千鶴は、改めて二枚の紙を見つめた。


「4と2って、何なの?」


42紙は説明した。


「4は、幸福な死。2は、不幸な死です」


千鶴の顔が曇った。


「……私の人生が、幸せだったかどうかを決めるの?」


「違います」


42紙は、静かに答えた。


「生きていた間の善悪で決まるものでもありません」


「じゃあ、何で?」


「死を迎えたときのことです」


千鶴は黙った。


自分の死を、今さら決める。


そんなことがあるのだろうか。


「神様が決めるの?」


「神はいません」


「……天国は?」


「ありません」


「地獄は?」


「ありません」


千鶴は、42紙を見つめた。


「生まれ変わりも?」


「ありません」


「……そう」


千鶴は、長い沈黙のあと、尋ねた。


「じゃあ、死んだら、どうなるの?」


42紙は答えた。


「わかりません」


千鶴は、思わず顔を上げた。


「あなた、死神でしょう?」


「はい」


「それなのに、わからないの?」


「わかりません」


千鶴は、何も言えなかった。


この男は、知っていることだけを答えているのだろう。


それ以上、問い詰めても答えは返ってこない。


千鶴は、二枚の紙を見つめた。


どちらも、何も書かれていない。


まるで、自分の人生のようだった。


本当は、もっと早く気づきたかった。


母の愛情が、どれほど深かったのか。


血がつながっているかどうかなど、愛することの前では、何の意味もなかったのかもしれない。


けれど、自分は気づくのが遅すぎた。


母に会いたい。


謝りたい。


ありがとうと伝えたい。


それなのに、もう何もできない。


千鶴は、ゆっくりと手を伸ばした。


そして、一枚の紙を選んだ。


紙に、数字が浮かび上がる。


2。


千鶴は、その数字を見つめた。


42紙は、静かに言った。


「それが、あなたの選んだ紙です」


---


八 最後まで言えなかった言葉


千鶴が倒れた部屋。


冷たい床の上に、千鶴の身体が横たわっていた。


手を伸ばした先には、母の写真があった。


千鶴は、写真を見つめていた。


目は閉じられないままだった。


もう、声を出すことはできない。


もう、手を伸ばすこともできない。


それでも、母の写真だけは、目の前にあった。


千鶴は、最後まで母のことを考えていた。


幼い頃、母が自分を抱きしめてくれたこと。


転んだとき、駆け寄ってきてくれたこと。


熱を出した夜、ずっとそばにいてくれたこと。


自分が家を出たあの日も、母は本当は引き止めたかったのだろう。


それでも、追いかけることができなかった。


母も、きっと苦しんでいた。


千鶴は、今になって、その気持ちがわかった。


母は、千鶴を愛していた。


自分を産んでいなくても。


血がつながっていなくても。


毎日、心から愛情を注いでくれた。


その愛情は、本物だった。


千鶴は、何度も母に謝ろうと思った。


何度も電話をかけようと思った。


何度も、会いに行こうと思った。


それなのに、できなかった。


意地を張った。


傷ついた自分を守ろうとした。


母が先に謝るべきだと思った。


そのうちに、いつか会えると思っていた。


けれど、その「いつか」は来なかった。


千鶴の目の前には、母の写真があった。


写真の中の母は、あの日と同じように笑っていた。


千鶴は、何日も発見されないまま、手の届かない母の写真をずっと見続けていた。


誰もいない部屋。


誰も気づかない時間。


千鶴の人生は、静かに終わっていた。


そして、もう二度と、母に言葉を届けることはできなかった。


「ごめんなさい」


「ありがとう」


「お母さん、大好きだよ」


どれほど願っても、その言葉が届くことはなかった。


千鶴は、ようやく理解した。


血のつながりがなくても、心から愛情を注ぎ続ければ、その愛は本物になる。


母が自分に注いでくれた愛情は、間違いなく本物だった。


それに気づくのが、遅すぎた。


千鶴は、心の底から後悔した。


母に会いたかった。


もう一度、あの声を聞きたかった。


そして、最後に一度だけでいいから、伝えたかった。


「お母さん……ありがとう」


その言葉は、誰にも届かなかった。


---


九 透の部屋


時計の針が、静かに時を刻んでいた。


透は、椅子に座ったまま、しばらく黙っていた。


千鶴の人生が、頭から離れなかった。


母に愛されていた。


その愛情は、嘘ではなかった。


それなのに、千鶴は最後まで、母に謝ることができなかった。


透は、ゆっくりと顔を上げた。


「……42紙」


「はい」


「血のつながりって、そんなに大切なのかな」


42紙は、透を見た。


「何がですか」


「親子のことだよ」


透は、言葉を探した。


「自分を産んでくれた人が、本当の親なのかな」


42紙は、すぐには答えなかった。


透は続けた。


「もちろん、血がつながっていることには意味があると思う。でも……それだけなのかな」


42紙は黙っていた。


「千鶴さんのお母さんは、自分で産んだわけじゃない。それでも、千鶴さんを育てた。毎日ご飯を作って、心配して、叱って、喜んで……」


透は、手を握りしめた。


「それって、親じゃないのかな」


「……さあ」


「さあ、って……」


透は42紙を見た。


「おまえ、こういうときくらい、もう少し何か言えないの?」


「何を言えばいいんですか」


「いや、そこは考えてよ」


「難しいですね」


「……死神って、ずいぶん不便なんだな」


「初めて言われました」


透は、小さく息を吐いた。


ほんの少しだけ、笑いそうになった。


けれど、すぐに表情が戻った。


「……真面目な話なんだ」


「はい」


透は、目を伏せた。


「血のつながりがなくても、惜しみなく愛情を注ぎ続けたなら、その愛は本物になるんじゃないのかな」


42紙は、透を見つめていた。


透は続けた。


「最初から本当の親子だったかどうかじゃなくて……一緒に過ごした時間の中で、相手を大切にして、心から愛してきた。その積み重ねが、本当の親子になっていくことだってあるんじゃないのかな」


部屋に、沈黙が落ちた。


時計の針が進んだ。


42紙は、しばらくしてから口を開いた。


「そうかもしれません」


透は、顔を上げた。


「……そうかもしれない、か」


「はい」


「なんだか、すっきりしない答えだな」


「私は、何でも知っているわけではありませんので」


透は、苦笑した。


「それは知ってるよ」


再び、沈黙が訪れた。


透は、千鶴の人生を思い返していた。


母は、千鶴を愛していた。


千鶴も、母を愛していた。


それなのに、二人は最後まで、互いの気持ちを伝えることができなかった。


愛していなかったから、離れたのではない。


愛していたのに、素直になれなかった。


透は、ぽつりと言った。


「……謝れなかったからって、愛していなかったことにはならないんだよな」


42紙は答えなかった。


透は続けた。


「ありがとうって言えなかったからって、感謝していなかったわけでもない」


42紙は、静かに透を見ていた。


「でもさ……」


透の声が、少しだけ震えた。


「言わなかった言葉は、相手には届かないんだよな」


42紙は、短く答えた。


「はい」


透は、目を閉じた。


千鶴は、母に会いたかった。


謝りたかった。


ありがとうと伝えたかった。


けれど、その願いは叶わなかった。


透は、自分の手を見つめた。


「……人間って、どうしてこうなんだろうな」


42紙は答えなかった。


「大切な人がいるのに、素直になれない。会いたいのに、会いに行けない。謝りたいのに、謝れない」


透は、苦しそうに笑った。


「本当に、面倒くさい生き物だよ」


「そうですね」


「そこは否定してくれないんだ」


「事実ですから」


「……少しは気を遣ってくれよ」


「すみません」


42紙の声は、いつもと変わらなかった。


透は、小さく笑った。


そして、その笑顔は、すぐに消えた。


「……紗季も」


42紙は、黙っていた。


透は、ゆっくりと顔を上げた。


「俺は、紗季のことを……本当に愛していたのかな」


その問いは、部屋の中に静かに落ちた。


42紙は答えなかった。


透は、窓の外を見つめた。


「一緒に過ごした時間は、嘘じゃない。俺が紗季を大切に思っていたことも、嘘じゃない」


言葉を区切る。


「でも……それだけで、十分だったのかな」


42紙は、透を見つめていた。


「もっと何かできたんじゃないか。もっと、守れたんじゃないか。もっと……」


透の声が途切れた。


紗季の笑顔が、脳裏に浮かんだ。


もう、触れることはできない。


声を聞くこともできない。


それでも、紗季と過ごした時間は、透の中に残っていた。


「……俺は、まだ許せていないんだ」


42紙は、静かに答えた。


「はい」


透は、42紙を見た。


「お前のことも」


「はい」


「……自分のことも」


42紙は、何も言わなかった。


透は、ゆっくりと息を吐いた。


千鶴の人生を見て、改めて思った。


愛情は、血のつながりだけで決まるものではない。


心から誰かを大切に思い、その人のために何かをしようとする。


その積み重ねが、愛になっていくのかもしれない。


けれど、愛しているだけでは、伝わらないこともある。


謝ること。


感謝を伝えること。


会いに行くこと。


たった一つの行動が、二人の未来を変えることもある。


そして、その機会は、いつまでも残されているとは限らない。


透は、時計を見た。


秒針が、静かに進んでいた。


「……42紙」


「はい」


「もし、伝えたい言葉があるなら……伝えられるうちに伝えたほうがいいんだろうな」


42紙は、少しだけ間を置いた。


「そう思います」


透は、目を閉じた。


紗季のことを思った。


千鶴の母のことを思った。


そして、言えなかった言葉を抱えたまま生きる人たちのことを思った。


時計の針は、止まらない。


過ぎた時間も、戻らない。


それでも、今この瞬間に伝えられる言葉があるのなら。


透は、静かに顔を上げた。


「……俺は、忘れないよ」


誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。


紗季に向けた言葉だったのか。


千鶴に向けた言葉だったのか。


それとも、自分自身に言い聞かせた言葉だったのか。


42紙は、何も尋ねなかった。


ただ、そこに立っていた。


透は、もう一度、時計を見た。


時計の針は今までの一分刻みに進まずに、2:31を差していた。


今までと違う時の刻みに透は気づかずにいた。


そしてその音だけが、静かな部屋に響いていた。


最後まで言えなかった言葉。


それは、千鶴だけのものではなかったのかもしれない。


---


――第二十七話「最後まで言えなかった言葉」・完――




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