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「42紙」(しにがみ)  作者: kiseki-ryu


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第26話「誰の記憶にも残らない仕事」

『42紙(しにがみ)』

第26話「誰の記憶にも残らない仕事」


一 名前のない仕事


午前四時三十分。


まだ夜の色が残る病院の廊下を、一人の男が歩いていた。


手には懐中電灯と工具箱。

腰には、使い込まれた鍵束がぶら下がっている。


男の名前は、榊原修司(さかきばら・しゅうじ)。六十七歳。


この病院で、設備管理の仕事を三十一年間続けてきた。


廊下の照明が切れていないか。

空調の音に異常はないか。

給湯設備は正常に動いているか。


普段、誰も気に留めないような場所を見回り、問題があれば修理する。

それが修司の仕事だった。


「……よし」


天井の照明を見上げ、点検表に印をつける。


廊下の奥から、看護師が歩いてきた。


「榊原さん、おはようございます」

「ああ、おはようございます」

「いつも早いですね」

「まあ、仕事ですから」


看護師は軽く頭を下げ、患者の病室へ向かった。

修司も、再び歩き始めた。


特別な会話ではなかった。


誰かに褒められることも、感謝されることもほとんどない。

設備が正常に動いていれば、修司の仕事は誰の目にも映らなかった。


反対に、故障が起きれば、すぐに連絡が入る。


「空調が効かないんですが」

「照明が点かなくなりました」

「お湯が出ません」


そんな声が届くたび、修司は工具を持って現場へ向かった。


直せば、相手は安心する。


「ありがとうございました」


そう言われることもある。

しかし、その言葉が修司自身の記憶に残ることは少なかった。


翌日には、また別の故障が起きる。

修理を終えれば、次の点検が待っている。


仕事とは、そういうものだった。


修司は、誰かに自分の仕事を理解してほしいと、強く願っていたわけではない。

ただ、長い年月が過ぎるうちに、ときどき考えるようになっていた。


自分は、何を残してきたのだろう。


病院には、医師がいる。

看護師がいる。

患者の命を救うために働く人たちがいる。


修司の仕事は、その人たちが働く場所を整えることだった。


自分がいなくても、誰かが代わりにやる。

自分が直した照明も、いつか別の人が交換する。

自分が調整した空調も、何年かすれば新しい機械に変わる。


何もかも、いつかはなくなる。


そう考えると、三十一年間という時間が、ひどく短く思えることがあった。


その日、修司は地下の機械室で、古い送水ポンプの点検をしていた。


運転音が、いつもよりわずかに高い。

耳を澄ませ、振動を確かめる。


異常の原因を探るため、修司は点検記録を取り出した。

以前にも似た症状があった。

そのときの記録を読み返し、部品の摩耗が進んでいる可能性に気づいた。


すぐに上司へ報告した。


「交換したほうがいいと思います」

「今すぐ必要なのか?」

「今すぐ止まるとは言い切れません。ただ、このまま使い続けるのは危ないです」


上司は記録を確認した。


「分かった。業者に見積もりを取ろう」


修司は頷いた。


自分の仕事は、壊れたものを直すだけではない。

壊れる前に気づくことも、仕事のうちだった。


数日後、ポンプの部品は交換された。

病院の業務が止まることはなかった。

患者が困ることもなかった。

医師も看護師も、いつもどおり仕事を続けた。


修司は交換後の数値を確認し、点検表に記録した。


「……これで大丈夫だ」


誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。


それで十分だと思っていた。


その一方で、修司は自分の人生について、同じようには思えなかった。


仕事なら、故障がなくても結果が分かる。

照明が点く。

水が出る。

機械が動く。


けれど、自分の人生が誰かの役に立っていたのかどうかは、確かめようがなかった。


修司には、妻も子供もいなかった。


若い頃、結婚を考えた女性はいた。

しかし、父親の介護が必要になり、結婚の話は自然と遠のいた。

父親を見送った頃には、相手の女性は別の人と家庭を築いていた。


修司は、それを恨んではいなかった。

自分で選んだことだった。


仕事を続け、給料を受け取り、休みの日には安い定食を食べ、古い映画を観る。

そんな暮らしに不満がなかったわけではないが、誰かに迷惑をかけることもなかった。


いつしか、独りで過ごす時間にも慣れていた。


それでも、病院の職員たちが家族の話をしていると、ほんの少しだけ羨ましくなることがあった。


休日に子供と出かける話。

孫が生まれた話。

夫婦で旅行へ行った話。


修司は会話に加わらず、手元の書類を整理していた。


自分には、自分の暮らしがある。

そう思うことにしていた。


ある日の夕方、修司が病院の裏口で工具を片づけていると、小さな女の子が母親と一緒に通りかかった。


女の子は、修司の腰にぶら下がった鍵束を見つめた。


「おじさん、それ何?」


修司は鍵束を持ち上げた。


「鍵だよ」

「いっぱいあるね」

「そうだな。おじさんにも、どこの鍵だか分からなくなることがある」


女の子は不思議そうに首を傾げた。

母親が申し訳なさそうに頭を下げる。


「すみません」

「いやいや」


修司は笑った。


女の子は母親に手を引かれ、病院の中へ戻っていった。


その小さな後ろ姿を見送りながら、修司は思った。


自分が子供を持っていたら、どんな父親になっていたのだろう。


そんな想像をしたのは、久しぶりだった。

けれど、すぐに工具箱を閉じた。


考えたところで、過去は変わらない。


修司は鍵束を腰に戻し、仕事へ戻った。


誰も知らない仕事。

誰も気に留めない時間。


それでも翌朝になれば、病院は動き始める。


修司は、その繰り返しの中で生きてきた。

そして、いつの間にか、自分自身のことまで、誰にも気に留められない存在のように感じるようになっていた。



二 最後の勤務


修司が病院を退職したのは、六十五歳の誕生日を迎えた春だった。


長年使っていた工具箱を片づけ、机の引き出しを空にした。

同僚たちが、小さな花束を用意してくれていた。


「榊原さん、長い間ありがとうございました」

「お世話になりました」


修司は、少し照れくさそうに頭を下げた。


「こちらこそ。皆さんには、いろいろ助けてもらいました」


本当は、もっと言いたいことがあった。


初めてこの病院に来た日のこと。

何も分からず、先輩に怒られながら覚えた仕事。

夜中に故障が起き、朝まで修理を続けたこと。

大きな台風の日、停電に備えて何時間も設備を確認したこと。


数えきれないほどの出来事があった。


しかし、どれも特別な思い出として語るには、あまりにも日常の一部だった。


修司は結局、短い挨拶だけをして病院を後にした。


正門を出ると、春の風が吹いていた。

振り返る。

建物の窓から、白いカーテンが見えた。


この場所で、何万人もの人が治療を受け、退院し、あるいは最期を迎えてきた。


修司は、そのすべてを知っていたわけではない。

ただ、患者が入れ替わっても、季節が変わっても、病院の設備を動かし続けるために働いてきた。


「……お世話になりました」


小さく頭を下げ、歩き出した。


退職してからの生活は、思っていたより静かだった。


朝、目を覚ます。

食事をする。

散歩に出る。

テレビを観る。

夕方になれば、簡単な料理を作る。


翌日も、その次の日も、大きな変化はなかった。


初めのうちは、仕事から解放されたことが嬉しかった。


もう夜中に呼び出されることもない。

休日に予定を気にする必要もない。

好きな時間に眠り、好きな時間に起きられる。


それなのに、数か月もすると、修司は落ち着かなくなった。


朝になると、決まった時間に目が覚める。

時計を見て、以前なら病院へ向かっていた時間だと思い出す。


何かをしなければならない気がする。

しかし、何もすることがない。


修司は近所を歩くようになった。

公園のベンチに座り、行き交う人を眺めた。


子供を連れた父親。

買い物袋を提げた老夫婦。

犬を散歩させる人。


誰もが、それぞれの時間を生きていた。

自分だけが、社会から少しずつ離れていくような気がした。


ある日、修司は久しぶりに病院の近くを通った。


正門の横に、新しい案内板が設置されていた。

設備管理の担当者も、見知らぬ若い職員に変わっている。


修司は足を止めた。


若い職員が、同僚と話しながら機械室のほうへ歩いていく。

その姿を見て、修司は胸の奥が少しだけざわついた。


自分が三十一年かけて覚えたことも、今は別の人が覚えている。

自分が毎朝確認していた場所も、別の人が確認している。


当然のことだった。

分かっていた。


それなのに、実際に目にすると、何かを失ったような気がした。


「……当たり前だよな」


修司は自分に言い聞かせた。


いつまでも、自分の場所であるはずがない。

誰かが仕事を引き継ぎ、病院はこれからも動いていく。


それでいいのだ。

それでいいはずだった。


その夜、修司は自宅で夕食を済ませたあと、古いアルバムを取り出した。


若い頃の写真。

両親との写真。

職場の同僚たちと写った写真。


どれも、ずいぶん昔のものだった。


修司は一枚ずつ眺めた。

写真の中の自分は、今よりもずっと若かった。

髪は黒く、背筋も伸びている。


その頃は、まだ先の人生が長く続くと思っていた。


いつか家庭を持つかもしれない。

仕事で大きな成果を上げるかもしれない。

誰かに、自分の人生を誇れる日が来るかもしれない。


しかし、気がつけば六十七歳になっていた。


アルバムを閉じ、修司は部屋の中を見回した。


何も変わらない部屋。

何年も使っている食器。

壁に掛けられた時計。

静かな夜。


「……俺、何をやってきたんだろうな」


口にしてから、修司は苦笑した。


答えなど、誰かが教えてくれるものではない。

自分で納得するしかない。


そう思いながらも、その答えを見つけることはできなかった。


退職から二年が過ぎた冬。


修司は、朝食を食べたあと、いつものように新聞を取りに玄関へ向かった。


扉を開けたところで、急に胸が苦しくなった。


息を吸おうとしても、うまく吸えない。

修司は壁に手をついた。

床が傾いたように感じた。


何かを言おうとしたが、声にならなかった。


その場に崩れ落ちる。

手から新聞が滑り、床に広がった。


それが、修司の最後だった。


誰かに看取られることはなかった。

救急隊が到着したとき、修司はすでに亡くなっていた。


部屋には、食べ終えた茶碗と湯呑みが置かれていた。

テーブルの上には、退職した病院から届いた年賀状が一枚。

そこには、かつての同僚たちの名前が並んでいた。


修司が亡くなったことを、病院が知ったのは数日後だった。


元同僚が新聞のお悔やみ欄を見つけ、連絡してきたのだ。


「榊原さん、亡くなったそうです」


知らせを聞いた職員たちは、しばらく言葉を失った。


「そうか……」

「長い間、お世話になったな」


それぞれが、修司のことを思い出した。


しかし、仕事は止まらなかった。

その日の点検も、修理も、いつもどおりに行われた。


病院の照明は点き、空調は動き、水は流れた。


修司がいなくなったあとも、病院の日常は続いていた。



三 白い空間から


修司は、目の前の白い景色を見つめていた。


どこまでも白い。

床も、壁も、天井もない。

自分が立っているのかどうかさえ、はっきりとは分からなかった。


「……ここは」


呟いた声が、どこにも届かず消えていく。


「……俺は、死んだのか」


「はい」


背後から、声がした。


修司が振り返る。

そこには、一人の男が立っていた。


普通の服を着た、普通の男。

片手には、コンビニの袋を持っている。


「……誰だ?」

「42紙です」

「……42紙?」

「えぇ。死神です」


修司は男の顔をじっと見た。


「……死神?」

「はい」

「……あんたが?」

「そうです」


修司は、もう一度、男を見た。

どう見ても、死神には見えない。


「……鎌は?」

「ありません」

「……じゃあ、あの世に連れていくとか、そういう……」

「そういうのじゃないです」


42紙は、いつもの調子で答えた。


修司は困惑したまま、周囲を見回した。


「……ここは、どこなんだ?」

「白い空間です」

「いや、それは見れば分かるよ」

「そうですか」

「そうですか、じゃなくて……」


修司は言葉を止めた。

何を聞けばいいのか、自分でも分からなかった。


ついさっきまで、自宅にいたはずだった。


胸が苦しくなった。

息をしようとしても、うまくできなかった。

誰かを呼ぼうとした。

けれど、声にならなかった。


そこから先の記憶が、途切れている。


修司は自分の胸に手を当てた。

苦しさは、もうなかった。


「……本当に、死んだんだな」

「はい」


42紙は、否定しなかった。


修司は、うつむいた。


「……そうか」


長い沈黙が流れた。


やがて、42紙がコンビニの袋を持ち直した。


「一枚、選んでください」


42紙は、二枚の白い紙を取り出した。

修司の前に差し出す。

どちらも、何も書かれていない。


「……何だ、これは」

「二枚の紙です」

「それは分かるよ」


修司は、少し困ったように笑った。


「……俺は今、死んだんだろ?」

「はい」

「それで、紙を選べって?」

「そうです」


修司は二枚の紙を見比べた。


「……何のために?」


42紙は、二枚の紙を見つめた。


「一枚は、4」


修司は顔を上げた。


「4……?」

「もう一枚は、2です」

「……4と2」

「はい」


修司は、しばらく考えていた。


「……それで、何が違うんだ?」


42紙は答えた。


「4を選べば、幸福な死」


少し間を置いて。


「2を選べば、不幸な死です」


修司の表情が変わった。


「……幸福な死?」

「はい」

「不幸な死?」

「はい」


修司は、二枚の紙を見つめたまま動かなかった。


「……待ってくれ」

「はい?」

「俺は、もう死んでるんだろ?」

「そうです」

「だったら、今さら何を選ぶんだ?」


42紙は、修司を見た。


「最後の瞬間です」

「……最後の瞬間?」

「その人が、死ぬ瞬間に何を感じるのか」


42紙は淡々と説明した。


「4は、その瞬間に幸福を感じる死」

「……」

「2は、その瞬間に不幸を感じる死です」


修司は顔を上げた。


「……じゃあ、4を選べば、天国に行けるのか?」

「いいえ」


返事は早かった。


「天国はありません」

「……」

「地獄もありません」


修司は黙った。


42紙は続けた。


「生まれ変わりもありません」

「……じゃあ、死んだ人間は、どうなるんだ?」

「分かりません」


修司は眉をひそめた。


「……あんた、死神なんだろ?」

「はい」

「なのに、分からないのか?」

「死神だからって、何でも知っているわけじゃないですよ」


42紙は、少しだけ笑った。


「俺が知っているのは、人間が死ぬ瞬間までです」


修司は、何も言わなかった。


「……じゃあ」


しばらくして、修司が口を開いた。


「4と2は、誰が決めるんだ?」

「分かりません」

「……何だって?」

「俺にも分かりません」


42紙は、二枚の紙を差し出したままだった。


「どちらが4で、どちらが2なのか。選ぶ前には分かりません」

「……あんたにも?」

「はい」


修司は、ゆっくりと息を吐いた。


「……ずいぶん、変な話だな」

「そうですね」

「死神なのに、分からないことだらけじゃないか」

「そうかもしれません」


42紙は否定しなかった。


修司は、もう一度、二枚の紙を見た。


「……なあ」

「はい」

「俺の人生が、幸福だったか、不幸だったか。それを決めるんじゃないんだな?」


42紙は静かに答えた。


「人生の評価ではありません」

「……」

「4を選んだから、立派な人間だったということでもありません」

「……」

「2を選んだから、悪い人間だったということでもありません」


修司は、42紙を見つめた。


「……じゃあ、何なんだ」

「死ぬ瞬間です」


42紙は、それ以上を飾らなかった。


修司は、長い間、黙っていた。


自分の人生を思い返してみる。


病院で働いた三十一年。

誰かに感謝されたこともあった。

何も言われなかった日もあった。


設備の異常に気づき、事故になる前に修理したこともある。

誰も気づかないまま、一日が終わったこともある。


定年を迎えたとき、職場の人間から挨拶をされた。

それでも、退職した翌日から、病院はいつもどおり動いていた。


自分がいなくても、世の中は進んでいく。


それは、分かっていた。

分かっていたはずだった。


「……俺は」


修司は、ぽつりと呟いた。


「誰かの役に立てていたのかな」


42紙は答えなかった。


修司は、二枚の紙を見つめた。


「……いや」


自分で言って、自分で首を振った。


「今、聞くことじゃないな」


42紙は何も言わなかった。


「……どっちを選ぶかは、俺が決めるんだろ?」

「はい」

「……あんたは、選んでくれないんだな」

「選べません」

「どうして?」

「あなたの人生だからです」


修司は、静かに目を閉じた。


誰にも見られなかった仕事。

誰にも気づかれなかった小さな気遣い。


それらを思い出しても、胸を張れるような何かが浮かぶわけではなかった。


それでも。

自分が働いていた時間を、なかったことにはしたくなかった。


修司は目を開けた。


「……分かった」


ゆっくりと手を伸ばす。

そして、一枚の紙を選んだ。


裏返す。


そこには――


4


と記されていた。


修司は、数字を見つめた。


「……4、か」


42紙が答えた。


「4です」


修司は、しばらく何も言わなかった。


「……幸福な死、だったな」

「はい」

「……俺が?」

「はい」


修司は、困ったように笑った。


「……そうか」


自分の人生を振り返ってみても、誇れるようなことがすぐに浮かぶわけではなかった。


三十一年間、病院の設備を点検し、故障が起きないように気を配ってきた。

小さな異常を見つければ、原因を調べた。

誰にも気づかれないうちに直したことも、何度もあった。


けれど、何も起きなければ、誰も気にしない。


設備が動いているのは当たり前。

問題が起きないのも当たり前。


修司がどれだけ気を配っていたのかを、わざわざ知ろうとする人間はほとんどいなかった。


定年を迎えた日も、挨拶を交わして職場を去った。

翌日からも、病院はいつもどおり動いていた。


自分がいなくても、何も変わらない。

そう思っていた。


「……俺は、たいした人間じゃなかったよ」


修司は、ぽつりと言った。


42紙は答えなかった。


「誰かに褒められたわけでもない。名前が知られたわけでもない」


修司は、自分の手を見つめた。


「……ただ、毎日、仕事をしてきただけだ」


白い空間に、静けさが戻った。


やがて、修司は顔を上げた。


「……でもな」


42紙が、修司を見る。


「仕事をしている間は、手を抜きたくなかったんだ」


修司は、少し照れたように笑った。


「自分が見落としたせいで、誰かが困るのは嫌だった。それだけだったんだよ」


42紙は、何も言わなかった。


修司は二枚の紙を見つめた。

そのうち一枚は、もう数字が明らかになっている。


自分が何をしてきたのか。

誰に認められたのか。

誰に忘れられたのか。


そんなことを、今さら誰かに証明する必要はないのかもしれない。


「……そうか」


修司は、小さく頷いた。


「……俺は、俺なりに、ちゃんとやってきたんだな」


その言葉には、悔しさも、誇らしさもあった。

そして、ほんの少しの安堵があった。


白い空間の向こうに、かすかな景色が浮かび始めた。



四 誰も知らない仕事


病院の設備管理室。


朝の光が、窓から差し込んでいた。


新しく配属された若い職員が、棚の中を探していた。


「……あれ、どこだろう」


設備の点検方法を調べようとしていたが、資料が見つからない。


棚を一つずつ確認していると、奥のほうに、使い込まれた一冊のノートが置かれているのに気づいた。


表紙は少し色あせ、端が擦り切れていた。


「……何だ、これ」


ノートを取り出し、開いてみる。


最初のページには、設備の点検について書かれていた。


ただの手順書ではなかった。


どこを確認するのか。

なぜ、そこを確認する必要があるのか。

小さな異常を見つけたとき、何に注意するのか。

故障が起きる前に、どんな変化に気づくべきなのか。


一つ一つ、丁寧な文字で記されていた。


専門用語には簡単な説明が添えられ、初めて仕事をする人にも分かるように書かれている。


ページをめくるたびに、新しい知識が現れた。


失敗しやすい箇所。

見落としやすい異常。

先輩から教わったこと。

長年の経験で気づいたこと。


そこには、仕事のイロハが詰まっていた。


新人は、いつの間にか椅子に座り、夢中で読み進めていた。


「……すごい」


思わず声が漏れた。


誰かに教えてもらわなければ分からないことが、そこには分かりやすく書かれている。


どうして、こんなノートが棚の奥にしまわれていたのだろう。


新人は最後のページをめくった。


そこには、短く名前が記されていた。


榊原修司。


新人は、その名前をじっと見つめた。


「……榊原さん、か」


そのとき、先輩職員が部屋に入ってきた。


「何を読んでるんだ?」


新人はノートを見せた。


「これ、すごいですね。仕事のことが、全部、丁寧に書いてあるんです」


先輩はノートを受け取り、表紙を見た。


「ああ……榊原さんのノートか」

「知ってるんですか?」

「昔、ここで働いていた人だよ。俺も直接は知らないけど、名前は聞いたことがある」


新人は、もう一度ノートを見た。


「……こんなに詳しく書いてくれていたんですね」

「そうだな」


先輩は、少し懐かしそうにノートを閉じた。


「昔の人が、どんな仕事をしていたのかは、こういうものに残っているんだな」


新人は、しばらく考えていた。


そして、ノートを開き直した。


自分のノートを机に置く。

榊原の書いた内容を、一つずつ、自分のノートに書き写し始めた。


ただ写すだけではない。

分からない言葉には印をつけ、覚えておきたいところには線を引いた。


次に同じ仕事をするとき、自分の力でできるように。

いつか後輩ができたとき、自分もきちんと教えられるように。


新人は、一文字ずつ丁寧に書き写していった。


榊原修司が長い年月をかけて身につけた知識が、今、一人の若者に受け継がれていた。


誰かが大きな声で称賛したわけではない。

表彰されたわけでもない。


ただ、一冊のノートを通して、仕事が受け継がれていた。

そして、ノートの最後に記された名前も、そこに残っていた。


修司は、その光景を見つめていた。


新人がページをめくる。

立ち止まって考える。

そして、自分のノートに書き写す。


その姿を見ながら、修司は、ゆっくりと目を見開いた。


「……ああ」

声が漏れた。

「……そうか」


新人は、まだ知らない。


そのノートを書いた人間が、どんな思いで仕事をしていたのか。

誰にも認められず、何度も同じ点検を繰り返してきたこと。

小さな異常を見逃さないよう、毎日、目を凝らしてきたこと。

仕事を終えても、頭の片隅で設備のことを考えていたこと。


そして、自分がいなくなった後、こんなふうに誰かがノートを開いてくれることも。


修司は、新人が書き写している自分の言葉を見つめた。


その文字は、確かに自分が書いたものだった。


何年も前に、自分の手で書いた文字。

もう誰も読まないと思っていた文字。


けれど、今。

その文字を、一人の若者が大切そうに書き写している。


修司の目に、静かな光が宿った。


「……俺は」


言葉が、途中で止まった。


もう一度、口を開く。


「俺は、何も残せなかったと思っていた……」


新人は、ページをめくった。


修司は、その姿を見つめた。


「……でも」


声が震えた。


「……ちゃんと、残せてたんだなぁ」


誰かに褒められたからではない。

誰かに認めてもらえたからでもない。


自分が積み重ねてきたものが、今、確かに誰かの手に渡っている。


それを、自分の目で見ることができた。


修司は、静かに笑った。


「……俺が生きてきた証を」


その言葉を口にしたとき、胸の奥にあった何かが、ゆっくりとほどけていった。


自分の人生は、誰にも知られずに終わるのだと思っていた。

自分がいなくなれば、仕事も、記録も、思い出も、いつか消えてしまうのだと思っていた。


けれど、すべてが消えてしまったわけではなかった。


自分が書いた言葉が残っていた。

自分が覚えた知識が残っていた。

そして、それを受け取ってくれる人間がいた。


修司は、新人の姿を見つめながら、もう一度、呟いた。


「……よかった」


それは、誰かに聞かせるための言葉ではなかった。

長い間、自分自身にも言えなかった言葉だった。


「……本当に、よかった」


修司の顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。


そのとき、景色が変わった。


修司は、もう一度、病院の廊下に立っていた。


朝の光が窓から差し込んでいる。

遠くから、車椅子の音が聞こえた。

看護師が患者に声をかけている。

医師が書類を手に歩いていく。


いつもと変わらない病院の朝だった。


修司は、自分の手を見た。


工具箱はない。

腰の鍵束もない。


それでも、目の前の光景には見覚えがあった。


ここで働いていた。

何度も歩いた廊下だった。


修司は、機械室へ向かった。


扉を開けると、若い職員が点検記録を確認していた。


修司がかつて使っていた机。

見慣れた配管。

聞き慣れた機械の音。


若い職員は、記録用紙をめくっていた。


「……あれ?」


一枚の記録に目を止める。


そこには、修司の名前が書かれていた。


古い送水ポンプの異常を発見した日。

交換を提案した日。

交換後の数値を確認した日。


若い職員は記録を読み、機械の状態を確かめた。


「なるほど……」


そのまま別の点検へ移ろうとしたが、ふと、記録の端に書かれた短いメモが目に入った。


――小さな異常でも、見逃さないこと。


若い職員は、少し考えてから、その言葉を手帳に書き写した。


「……そうだよな」


誰に言うでもなく、呟いた。


修司は、その様子を見ていた。


若い職員は、すぐに別の仕事へ向かった。


特別なことは起きなかった。


誰かが修司の功績を称えたわけではない。

病院中に名前が知られたわけでもない。


ただ、一枚の記録に名前が残り、そこに書かれた言葉が、次の人の手に渡った。


修司は、機械室を見回した。


自分が直した機械は、いずれ交換されるだろう。

自分の記録も、いつか処分されるかもしれない。


それでも、今はここにある。


自分が仕事をしていた時間が、確かにここに残っていた。


修司は、ゆっくりと歩き出した。


廊下を進むと、病室の前で母親と小さな女の子が話していた。


女の子は、修司が以前、鍵束を見せた子だった。


「あのおじさん、どこにいるの?」


母親は少し考えた。


「もう、ここでは働いていないのよ」

「そっか……」


女の子は、少し寂しそうな顔をした。


「また、鍵を見せてほしかったな」


母親は、女の子の頭を優しく撫でた。


修司は立ち止まった。


たった一度、言葉を交わしただけだった。

自分のことなど、忘れてしまってもおかしくない。


それなのに、あの子は覚えていた。


修司は、何かを言おうとした。

しかし、声は出なかった。


手を伸ばしても、触れることはできない。

ここにいる自分は、もう彼らの暮らす世界には存在しないのだ。


修司は、女の子を見つめた。


「……覚えていてくれたのか」


その言葉は、誰にも届かなかった。


女の子は母親と一緒に病室へ入っていった。


修司は、しばらくその扉を見つめていた。


自分の人生を思い返したとき、彼は何も残せなかったと思っていた。


大きな仕事を成し遂げたわけでもない。

誰かの人生を変えたわけでもない。


けれど、すべてが何もなかったわけではなかった。


誰かが使う水。

誰かが歩く廊下。

誰かが眠る病室。


その日常が続くように、修司は仕事をしてきた。


その仕事を、誰も知らなくても。


誰も知らないことと、何もなかったことは、同じではなかった。


修司は、ゆっくりと目を閉じた。


そして、病院の景色は静かに遠ざかっていった。



五 最後の幸福


白い空間に、修司の姿が戻っていた。


42紙は、何も言わずに修司を見ていた。


修司は、しばらく黙っていた。


先ほどまで見ていた光景が、まだ目の奥に残っている。


一冊のノート。

自分の書いた文字。

若い職員が、その言葉を一つずつ書き写していく姿。

そして、自分を覚えていてくれた小さな女の子。


修司は、ゆっくりと42紙に顔を向けた。


「……なあ」

「はい」

「俺の仕事は、誰にも知られないまま終わったと思っていた」


42紙は答えなかった。


「俺がいなくなっても、病院は動いている。俺の代わりに仕事をする人間もいる」


修司は、少しだけ笑った。


「それは、当たり前のことなんだよな」


「そうですね」


「でも……」


修司は、自分の手を見つめた。


「俺がやってきたことまで、何もなかったわけじゃなかったんだな」


42紙は、修司を見ていた。


「……はい」


それだけだった。


修司は、目を伏せた。


長い間、自分の人生に何が残ったのか、分からなかった。


誰かに褒められたわけでもない。

大勢の人間に名前を覚えられたわけでもない。

自分の仕事を、特別な仕事だと思ったこともなかった。


それでも、自分が積み重ねてきたものが、確かに誰かへと渡っていた。


自分がいなくなった後も、誰かがそれを使い、考え、次の誰かへと伝えていく。


それを知ることができた。


修司は、ゆっくりと息を吐いた。


「……よかった」


その顔には、もう先ほどまでの寂しさはなかった。


榊原は、もう何も恐れていなかった。


長い年月をかけて積み重ねてきた仕事。

自分が守ってきたもの。

そして、自分の知らないところで、誰かへと受け継がれていくもの。


それらを思い返しながら、榊原は静かに微笑んだ。


胸の痛みも、苦しみもない。

ただ、穏やかな温かさに包まれていた。


「……よかった」


その言葉を最後に、榊原はゆっくりと目を閉じた。


六十七年の人生を終えるその瞬間、榊原の心には、確かな幸福があった。


やがて、その姿は白い空間の中で、少しずつ薄れていく。


誰かに見送られることもなく。

誰かに気づかれることもなく。


榊原修司は、静かに白の中へと消えていった。



六 透と42紙


42紙は、手にしていたコンビニの袋を持ち直した。


その少し離れた場所に、透が立っていた。


しばらく、何も言わなかった。


やがて、透が口を開いた。


「……あの人」

42紙が顔を向ける。

「はい」

「最後は、幸せだったんだな」

「そうですね」

「……誰にも知られない仕事を、ずっと続けていたんだ」


42紙は答えなかった。


「誰かに褒められるためでもない。自分の名前を残すためでもない」


透は、少しだけ視線を落とした。


「それでも、あの人がいなかったら、困っていた人がいたんだろうな」


「そうかもしれませんね」


透は眉を寄せた。


「……そうかもしれない、か」

「俺には、分かりませんから」


42紙は淡々と言った。


透は、小さく息を吐いた。


「……お前は、本当に何でも分からないんだな」

「そうですね」

「死神なのに」

「死神ですから」

「いや、そこは関係ないだろ」


透と42紙は、少しだけ笑った。


そこには、もう何もなかった。


「……なあ、42紙」

「はい」

「人間ってさ」


透は言葉を探した。


「自分が生きていた意味を、最後まで分からないまま死ぬこともあるんだな」


42紙は、すぐには答えなかった。


短い沈黙が流れた。


「……あるでしょうね」


透は、唇を結んだ。


「……それって、寂しいことだよな」

「そうですね」


42紙の返事は、短かった。


透は、何かを言いかけて、やめた。


自分にも、分からないことがあった。


自分が何のために生きているのか。

何をすれば、誰かを救えたことになるのか。

何を残せば、自分の人生に意味があったと言えるのか。


答えは、まだ見つからない。


それでも。


透は、静かに顔を上げた。


「……でも、あの人は最後に知ることができたんだな」

「はい」

「自分が残したものが、誰かに届いていたって」

「そうですね」


透は、ゆっくりと頷いた。


「……よかったな」


その言葉は、静かに消えていった。


42紙は、透を見ていた。


何も言わない。

慰めることもしない。

答えを教えることもしない。


透は、そんな42紙を横目で見た。


「……お前は、どう思う?」

「何がですか?」

「人間が生きた意味だよ」


42紙は、少し考えるように黙った。


そして、静かに答えた。


「……俺には、分かりません」


透は、苦笑した。


「だろうな」


42紙は、否定しなかった。


そこには、何も残っていない。


けれど、修司が残したノートは、今も誰かの手の中にある。


修司が書いた言葉は、若い職員の中で生き始めている。


そして、その若い職員がいつか誰かに仕事を教えるとき、修司の知識は、また別の誰かへと渡っていくのかもしれない。


透は、小さく呟いた。


「……何も残せなかった、なんて」


透は少しだけ微笑んだ。


42紙は、黙っていた。


透は、ゆっくりと目を閉じた。

そして、もう一度、目を開けた。


「……簡単には言えないな」


42紙は、何も答えなかった。


しばらく沈黙が続いた後、透が口をひらいた。


「……帰るか」

「そうですね」

二人は、街を歩き出した。

42紙は、いつものようにコンビニ袋を手に提げていた。

透は、その袋に目をやった。

「……なあ、42紙」

「はい」

「お前、いつもそれ持ってるよな」

「そうですね」

「いや、そうですねって……」

透は思わず笑った。

42紙は、いつもと変わらない様子で歩いていた。

その姿を見て、透は小さく分からないくらいでクスッと笑った。


やがて二人の姿が街に溶け込むように消えて行った。


――第二十六話「誰の記憶にも残らない仕事」・完――




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