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「42紙」(しにがみ)  作者: kiseki-ryu


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第25話「祈りの先に」前編

『42紙(しにがみ)』

第25話「祈りの先に」前編

一 交通安全

「あなた、これ。忘れてるわよ」

玄関で靴を履いていた野々村和彦は、妻の由美に呼び止められた。

振り返ると、由美が小さな袋を手にしていた。

「ん? 何だ?」

「交通安全のお守り。昨日、車の中から出して、テーブルに置いたままだったでしょう?」

「ああ、そうだったか」

和彦は照れくさそうに笑い、お守りを受け取った。

「もう、しっかりしてよ。トラックの運転手なんだから」

「分かってるって」

「分かってる人は、忘れ物なんかしません」

由美は、少しだけ頬を膨らませた。

和彦は、お守りを作業着の胸ポケットにしまった。

「よし。これで今日も安全運転だ」

「お守りだけじゃ駄目よ。ちゃんと気をつけて運転してね」

「はいはい。由美さんの仰せのとおりに」

「もう!」

二人は顔を見合わせて笑った。

それは、どこにでもある夫婦の朝だった。

特別な約束も、胸に刻むような言葉もない。

いつもと同じ朝。

いつもと同じ見送り。

「じゃあ、行ってくるよ」

「いってらっしゃい。気をつけてね」

由美は玄関先で、和彦の背中を見送った。

和彦は軽く手を上げ、トラックへと向かった。

胸ポケットには、小さなお守りが入っていた。

二 避けられなかったもの

仕事を終えた和彦は、トラックを走らせていた。

夕暮れの道路。

前方には、黒い高級スポーツカーが走っている。

「すごい車だなぁ……」

和彦は、思わずつぶやいた。

車好きの和彦にとって、あのスポーツカーは憧れだった。

もちろん、自分が買えるような車ではない。

それでも、あんな車を一度くらい運転してみたいと思うことはあった。

和彦は前方を見つめながら、ハンドルを握り直した。

そのときだった。

道路脇から、小さな子どもが飛び出してきた。

「危ないっ!」

スポーツカーが急ハンドルを切った。

タイヤが激しく鳴き、車体が大きく揺れる。

子どもは、間一髪で車を避けた。

スポーツカーは、どうにか事故を免れた。

しかし、その直後ろを走っていた和彦には、十分な時間が残されていなかった。

「うわっ!」

和彦は反射的にハンドルを切った。

車体が大きく傾く。

制御を失ったトラックが、激しく道路脇へと逸れていく。

衝撃。

破壊音。

そして、視界が暗転した。

胸ポケットから、お守りが飛び出した。

小さな袋は、壊れた車体のそばに落ちていた。

何も答えることなく。

何も変えることなく。

和彦は、その場で命を落とした。

三 残された人

夕食の支度をしていた由美のもとに、電話がかかってきた。

「はい、野々村です」

受話器の向こうから、警察官の声が聞こえた。

夫が交通事故に遭ったこと。

そして、警察官は事故の状況について説明した。

「お子さんが道路に飛び出してきて、お子さんをひかないようにハンドルを切り、事故に遭われたようです」

由美は、息をのんだ。

「幸い、ご主人がハンドルを切ったことで、お子さんはけがもなく助かりました」

「……子どもが?」

由美の声が震えた。

「はい。お子さんにけがはありませんでした」

そして、告げられた言葉。

「ご主人は、亡くなられました」

「……え?」

由美は、聞き返した。

「今、何と……?」

もう一度、同じ言葉が聞こえた。

ご主人は、亡くなられました。

由美の手から、箸が落ちた。

「そんな……。だって、今朝……」

今朝、和彦はいつもどおり出かけていった。

お守りを渡した。

気をつけてね、と声をかけた。

和彦は笑って、分かっていると答えた。

それだけだった。

何も特別なことはなかった。

だから、帰ってくると思っていた。

今日も帰ってきて、いつものように食卓につくと思っていた。

「……あなた?」

由美は、受話器を握ったまま、その場に座り込んだ。

「ねえ……。あなた……」

返事はなかった。

由美の目から、涙がこぼれた。

夫の無事を願った。

毎日、無事に帰ってくることを願っていた。

交通安全のお守りも、その願いの一つだった。

それなのに。

どうして。

その問いに答えてくれる人は、どこにもいなかった。

四 二枚の白い紙

和彦が目を開けると、そこには白い空間が広がっていた。

壁も、天井も、床もない。

ただ、どこまでも白い。

「……ここは?」

和彦は、自分の身体を見下ろした。

怪我はない。

痛みもない。

けれど、事故の瞬間だけは、はっきりと覚えていた。

「俺……事故に遭ったんだよな?」

目の前に、一人の人物が立っていた。

42紙だった。

「はい」

「……そうか」

和彦は、しばらく黙っていた。

そして、突然、顔を上げた。

「あの子は……」

42紙は、静かに答えた。

「助かりました」

和彦は、目を閉じた。

「……良かった」

小さな声だった。

自分が死んだことを、まだ十分に理解できていなかったのかもしれない。

それでも、あの子が助かった。

その事実に、和彦は安堵していた。

やがて、和彦は自分の胸元に手をやった。

「……あれ?」

いつもお守りを入れていた場所。

そこには、何もなかった。

和彦は、しばらく自分の胸元を見つめていた。

「俺、交通安全のお守りを持ってたんだよ」

42紙は答えなかった。

「女房が持たせてくれてさ。今朝も、忘れたのをわざわざ渡してくれたんだ」

和彦は、困ったように笑った。

「それなのに……事故に遭っちまった」

白い空間に、和彦の声が静かに響いた。

「お守りを持ってたら、事故に遭わないってわけじゃないんだな」

「そうですね」

42紙は、それ以上何も言わなかった。

和彦は、しばらく黙っていた。

「……そうか」

その言葉に、怒りがあったのか。

悲しみがあったのか。

それとも、ただ事実を受け止めようとしていたのか。

和彦自身にも、分からなかった。

やがて、目の前に二枚の白い紙が現れた。

どちらも、何も書かれていない。

「一枚を選んでください」

和彦は、二枚の紙を見つめた。

「……選ぶ?」

「はい」

「選んだら、どうなるんだ?」

42紙は答えた。

「あなたの死が、4か2か。それが分かります」

和彦は眉を寄せた。

「4と2?」

「4は、幸福な死。2は、不幸な死です」

和彦は、二枚の紙を交互に見た。

「……幸福な死に、不幸な死か」

「はい」

「それは、生きてきた人間が、いい人だったか悪い人だったかってことか?」

「違います」

42紙の答えは短かった。

「善いことをした人間が4を選ぶわけでも、悪いことをした人間が2を選ぶわけでもありません」

和彦は、42紙を見つめた。

「……神が決めるのか?」

「神はいません」

和彦は、しばらく黙っていた。

「じゃあ、誰が?」

「あなたが選びます」

和彦は、しばらく黙っていた。

二枚の紙には、何も書かれていない。

どちらを選んでも、同じように見えた。

「……変な話だな」

和彦は苦笑した。

「自分の死が幸福だったか、不幸だったか。それを自分で選ぶなんてな」

42紙は、何も答えなかった。

和彦は、右側の紙に手を伸ばした。

一枚を引き抜く。

紙には、何も書かれていなかった。

「……白紙か」

和彦が見つめていると、紙の中央に、ゆっくりと数字が浮かび上がった。

4。

和彦は、その数字を見つめた。

「……4、か」

42紙は、黙っていた。

和彦は、紙を握りしめることもなく、ただ静かに見つめていた。

やがて、その身体が白い空間に溶けるように消えていった。

残された空間には、何もなかった。

五 祈りの行方

透は、静かに座っていた。

目の前には、42紙がいる。

透は、しばらく黙っていた。

やがて、口を開いた。

「……交通安全のお守りを持っていても、死ぬんだな」

「はい」

「祈っても、助からないことがある」

透は、視線を落とした。

「それでも、人は祈る」

42紙は答えなかった。

透は、続けた。

「大切な人に生きていてほしい。無事に帰ってきてほしい。事故に遭わないでほしい……。そう願うことが、間違っているとは思わない」

透の声が、わずかに揺れた。

「でも、願ったところで、救われない命がある」

42紙は、透を見ていた。

「……神はいないんだな」

透は、42紙の顔を見つめた。

「神はいません」

42紙は、淡々と答えた。

透は、目を閉じた。

「……そうか」

短い沈黙が流れた。

「じゃあ、祈りって何なんだろうな」

42紙は、すぐには答えなかった。

透は、誰かに答えを求めるように42紙を見た。

しかし、42紙は人生の意味を説くことも、祈りの価値を決めることもしなかった。

透は、小さく息を吐いた。

「……俺には、まだ分からない」

紗季のことが、胸の奥に浮かんだ。

助かってほしかった。

生きていてほしかった。

それでも、紗季は死んだ。

どれだけ願っても、どれだけ生きてほしいと思っても、透には紗季を取り戻すことができない。

そして、今も42紙を許すことはできなかった。

しばらく沈黙が続いた。

透は、顔を上げた。

「……あの人は、4を選んだんだな」

「はい」

「お守りを持っていたのに、事故で死んだ。それでも、4だった」

「はい」

透は、しばらく黙っていた。

「……幸福な死って、何なんだろうな」

42紙は答えなかった。

透も、それ以上は問い詰めなかった。

まだ、分からない。

分からないまま、考え続けるしかなかった。

――第二十五話・前編・完――



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