第23話「約束の海」
『42紙』
第二十三話「約束の海」
休日。
透は、自分の部屋でスマートフォンを見つめていた。
画面には、紗季とのメッセージが残っている。
《今日の弁当、おいしかったよ。おすすめありがとう》
《よかったです! またおすすめしますね》
《明日も会えますか?》
《もちろん。また明日》
透は、画面を閉じなかった。
何度も読んだ言葉だった。
それでも、もう一度読み返す。
短い文章の中に、紗季の声が聞こえるような気がした。
きっと、あのときも笑いながらメッセージを打っていたのだろう。
返事が来るのを待っていた時間。
何気ない話を続けた夜。
次に会う日を楽しみにしていた気持ち。
そんなものまで、画面の向こうに残っている気がした。
透は、親指で画面をゆっくりとスクロールした。
少し前のやり取りも残っていた。
新しいお菓子を見つけたというメッセージ。
自分が好きそうだと思った、と紗季が送ってきた写真。
何となくで決めるなよ、と返した自分の言葉。
あのころは、そんな小さなやり取りが楽しかった。
特別なことを話していたわけではない。
ただ、今日あったことを伝え、相手の返事を待つ。
それだけで、一日が少しだけ違って見えた。
透は画面を見つめたまま、指を止めた。
明日も会える。
あのときは、本当にそう思っていた。
そして、来週には二人で海へ行くはずだった。
透は、目を伏せた。
紗季との約束を、まだ覚えている。
忘れるはずがなかった。
*
初めて海の話をしたのは、休日に二人で歩いていたときだった。
その日は、特別な予定を立てていたわけではなかった。
会って、少し歩いて、気になった店を眺める。
そんな何気ない時間だった。
歩いている途中、小さな公園を見つけた。
紗季が足を止めた。
二人はベンチに座り、仕事のことや、子供のころに好きだったもの、いつか行ってみたい場所について話していた。
紗季は、行ってみたい場所を考えるように、少しだけ空を見上げた。
そのとき、紗季が言った。
「私、海を見に行きたいです」
「海?」
「はい。ゆっくり海を眺めて、おいしいものを食べて、帰ってくるんです」
「それなら日帰りでも行けそうだな」
「本当ですか?」
「うん。休みが合えば」
「じゃあ、いつか行きましょうね」
「……ああ。約束」
「約束です」
紗季は笑った。
透は、その笑顔を見ていた。
海へ行く。
ただそれだけの約束だった。
遠くへ旅行するわけでもない。
特別な準備が必要なわけでもない。
休みが合った日に出かけて、海を眺めて、おいしいものを食べて帰ってくる。
それだけでよかった。
いつか。
その言葉に、期限はなかった。
来月でもいい。
季節が変わってからでもいい。
二人には、まだ時間があると思っていた。
だから、その約束をしたとき、透は何も疑わなかった。
いつかは来る。
そう思っていた。
*
それから、しばらくたったある日の夜。
二人は夕食を終え、駅へ向かって歩いていた。
食事をしている間も、二人はいつものように話していた。
仕事の話をしたり、食べたものの感想を言い合ったり。
帰り道も、特別な話題があったわけではなかった。
その途中で、紗季が尋ねた。
「次の休み、いつですか?」
「来週の土曜なら休めそうだよ」
「本当ですか? 私も休みです」
「じゃあ、海に行くか?」
「いいんですか?」
「前から約束してただろ」
「はい。覚えててくれたんですね」
「そりゃ覚えてるよ」
紗季はうれしそうに笑った。
その笑顔を見て、透も少し笑った。
二人の間では、約束がひとつ、具体的な予定に変わった。
来週の土曜日。
それなら、もうすぐだった。
「何を着ていこうかな」
「まだ一週間あるぞ」
「一週間しかないです」
「そういうものか?」
「そういうものです」
透は笑った。
「俺も、何か考えておくよ」
「楽しみにしてますね」
紗季は、本当に楽しみにしているようだった。
海へ行ったら、何を食べよう。
どんな景色が見られるだろう。
そんなことを、もう考えているのかもしれなかった。
透は、紗季が楽しそうに話すのを聞いていた。
来週の土曜日。
その日が来るのが、自分も少し楽しみになっていた。
駅へ向かう途中、紗季が透の手を取った。
「透さん」
「ん?」
「これからも、ずっと一緒にいたいです」
透は足を止めた。
突然の言葉に、すぐには返事ができなかった。
紗季は、少し恥ずかしそうに笑った。
「……なんて、急に言ったら困りますよね」
「いや」
透は、紗季の手を握り返した。
「俺も、そう思ってる」
紗季の顔が明るくなった。
「本当ですか?」
「うん」
「……よかった」
二人は手をつないで歩いた。
透は、握った手の温かさを感じていた。
これからも、ずっと。
その言葉が、特別なものに聞こえた。
けれど、特別だからといって、遠い未来の話だとは思わなかった。
明日も会う。
来週は海へ行く。
その先にも、二人で過ごす日々が続いていく。
そんな毎日の延長にある言葉だと思っていた。
駅に着くと、紗季は改札の前で振り返った。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
「おやすみなさい、透さん」
「おやすみ、紗季」
紗季が改札の向こうへ消えていく。
透は、その姿を見送った。
来週の土曜日。
二人で海へ行く。
その約束を、透は覚えていた。
*
透は、スマートフォンをポケットにしまった。
部屋の中は静かだった。
窓の外から、遠くを走る車の音が聞こえる。
いつもと変わらない休日。
けれど、今日は少し違っていた。
紗季と約束した海へ行こうと思った。
二人で行くはずだった場所。
紗季が見たいと言っていた海。
透は立ち上がった。
出かける準備をしながら、ふと手が止まった。
紗季が海へ行くために、何を着ていこうかと話していたことを思い出した。
一週間しかない、と言っていた。
あのときは、そんなに急がなくてもいいだろうと思っていた。
今なら、その気持ちが少し分かる気がした。
楽しみにしていたのだ。
二人で出かける、その一日を。
透は何も言わず、部屋を出た。
*
透は、いつものコンビニへ向かった。
紗季が働いていた店だった。
店内に入ると、自然とレジのほうへ目が向いた。
以前なら、紗季がそこに立っていた。
透の顔を見ると、いつものように声をかけてくれた。
今日は何にしますか。
この弁当、おいしかったですよ。
そんな何気ない会話が、もうない。
透は弁当の棚の前で足を止めた。
目に留まったのは、紗季が最後におすすめしてくれた弁当だった。
透は、それを手に取った。
あの日、紗季はこの弁当をすすめてくれた。
透は食べた感想を伝えると約束していた。
その約束は、もう果たせない。
それでも、弁当を手に取らずにはいられなかった。
会計を済ませ、店を出る。
外の空気を吸い込み、透は歩き始めた。
*
駅へ着き、電車に乗った。
窓の外を、景色が流れていく。
透は隣の空席に目を向けた。
紗季と一緒なら、今ごろ何を話していただろう。
海に着いたら、まず何をするのか。
どんなものを食べるのか。
帰りは疲れて眠くなるかもしれない。
そんな話をしていたかもしれない。
考えても、答えは出なかった。
隣の席は空いたままだった。
透は窓の外へ視線を戻した。
電車が揺れる。
駅に着くたびに、人が乗り降りしていく。
いつもと変わらない景色だった。
やがて電車を降り、海へ向かって歩いた。
*
潮の匂いがした。
目の前に、海が広がった。
透は立ち止まった。
波が寄せては返している。
空は広く、海の向こうまで視界が続いていた。
紗季が見たいと言っていた海。
二人で行こうと約束した海。
透は、しばらく何も言わずに眺めていた。
紗季がここにいたら、どんな顔をしただろう。
きっと、うれしそうに笑ったのだろう。
そして、来られてよかったですね、と言ったかもしれない。
透は、ゆっくりと息を吐いた。
「……来たよ、紗季」
返事はなかった。
それでも、透はその場を離れなかった。
紗季との約束を覚えている。
だから、ここへ来た。
*
透は砂浜へ向かい、腰を下ろした。
コンビニの袋から弁当を取り出す。
紗季が最後におすすめしてくれた弁当だった。
蓋を開け、箸を手に取る。
ひと口食べた。
もう、感想を伝えることはできない。
それでも、透は食べ続けた。
しばらくして、声がした。
「お弁当ですね」
透が顔を上げると、42紙が立っていた。
いつもの私服姿で、手にはコンビニ袋を持っている。
42紙は、透の弁当を見た。
「……紗季さんのおすすめですね」
「何だ、お前も知ってたのか」
「はい」
透は少し黙ったあと、袋からもう一つの食べ物を取り出した。
「ほら。お前の分」
42紙は受け取った。
「……お弁当ではないんですね」
「クスッ。毎回、弁当だと思ってたのかよ」
「いつも、そういうわけではありませんが」
「そうかよ」
透は小さく笑った。
ほんの一瞬だった。
自分でも、なぜ笑ったのか分からなかった。
ただ、42紙の言い方が少しおかしかった。
それだけだった。
二人は並んで座った。
しばらく、会話はなかった。
波の音が続いていた。
*
「……なあ」
「はい」
「神様って、いると思うか?」
「神はいません」
透は海を見つめた。
「天国も、地獄もないのか」
「ありません」
「生まれ変わりも?」
「ありません」
透は、しばらく黙っていた。
聞いたところで、何かが変わるわけではない。
それでも、ずっと心の中に残っていた問いだった。
「もし、いるんだったらさ……どうして紗季を助けてくれなかったんだろうな」
「分かりません」
透は、小さく息を吐いた。
「……そうか」
42紙は、それ以上何も言わなかった。
透も、しばらく口を開かなかった。
答えがほしかったのかもしれない。
けれど、どんな答えを聞いても、紗季が戻ってこないことは分かっていた。
「お前は、紗季が死ぬことを知らなかったんだよな」
「はい」
「助けることも、できなかった」
「はい」
透は42紙を見た。
「俺は、まだお前を許したわけじゃないからな」
「はい」
42紙は言い返さなかった。
謝罪を重ねることも、透の気持ちを変えようとすることもなかった。
ただ、そこにいた。
透は海へ視線を戻した。
許せるわけではない。
紗季が帰ってくるわけでもない。
それでも、今はこうして言葉を交わしていた。
*
食べ終えた透は、スマートフォンを取り出した。
紗季とのメッセージを開く。
《明日も会えますか?》
《もちろん。また明日》
透は、その文字を見つめた。
明日も会えると思っていた。
来週には海へ行けると思っていた。
これからも、ずっと一緒にいられると思っていた。
その未来は、突然なくなった。
けれど、二人が交わした約束まで、なかったことにはならない。
透はスマートフォンを閉じた。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
目の前には海が広がっている。
紗季と一緒に見ることはできなかった。
それでも、紗季が見たいと言っていた海を、自分の目で見ることができた。
透は隣の42紙へ視線を向けた。
「……行こう」
「はい」
二人は歩き始めた。
透は、まだ紗季を忘れられない。
42紙を許したわけでもない。
それでも、紗季との約束を胸に、一歩を踏み出した。
その一日は、もう二人で過ごすことはできなかった。
けれど、紗季が海を見たいと言ったことも、二人で行こうと約束したことも、透の中から消えてはいなかった。
波が寄せては返していた。
透は振り返らず、歩き続けた。
そして、海に向かって静かに声を上げた。
「約束…守ったよ、紗季!」
そのとき、時計の針が一分だけ進んだ。
時計は、二時二十五分を指していた。
*
――第二十三話・完――




