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「42紙」(しにがみ)  作者: kiseki-ryu


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第22話「救えなかった命」

『42紙(しにがみ)』

第22話「救えなかった命」

一 命と向き合う人

午前二時を過ぎた病院は、昼間とは違う顔をしていた。

廊下の照明は落とされ、ナースステーションから聞こえる声も小さい。

病室の扉が一つ開いた。

「先生、まだ帰っていなかったんですか」

病室の扉が一つ開いた。

「先生、まだ帰っていなかったんですか」

看護師に声をかけられ、佐伯誠一は手元のカルテから顔を上げた。

「もう少しだけ確認したら帰るよ」

「それ、昨日も聞きました」

「昨日の続きだからね」

看護師は呆れたように笑った。

佐伯も小さく笑い、カルテを閉じた。

医師になって三十年以上が経っていた。

若い頃は、目の前の患者を救うことだけを考えていた。

知識を身につけ、技術を磨き、少しでも早く異常を見つける。自分の判断が遅れれば、その分だけ患者の命が危険にさらされる。

だから、休むことにも慣れなかった。

救急車の音を聞けば、反射的に時計を見る。

病院からの電話が鳴れば、食事の途中でも席を立つ。

家族との約束を変更したことも、一度や二度ではなかった。

妻の誕生日に帰れなかった年がある。

娘の学校行事に間に合わなかったこともある。

娘が幼かった頃、一度だけ言われたことがあった。

「お父さんって、病院の人なの?」

冗談のつもりだったのかもしれない。

けれど、その言葉を佐伯は長く覚えていた。

それでも、医師を辞めようとは思わなかった。

彼がいなければ助からなかった命が、確かにあったからだ。

退院の日、歩いて病院を出ていく患者。

何度も頭を下げる家族。

治療を終えたあと、久しぶりに旅行へ行くと笑った人。

そういう姿を見るたびに、佐伯は思った。

この仕事を選んでよかった、と。

だが、すべての患者が病院を出ていけるわけではなかった。

検査を重ねても原因が分からない。

治療を続けても、病状が悪化していく。

手を尽くした末に、家族へ説明しなければならない日もあった。

何が起きたのか。

何ができたのか。

そして、何ができなかったのか。

佐伯は、そうした問いから逃げなかった。

自分の判断を振り返り、必要ならば学び直した。

同じことを繰り返さないために、できることはすべてやった。

それでも、救えなかった命は残った。

忘れようとして忘れられるものではなかった。

かといって、忘れずにいることが、亡くなった人を取り戻すことにもならなかった。

佐伯は、その事実を誰よりもよく知っていた。

だからといって、救うことを諦めたことはなかった。

次の患者が運ばれてくれば、また手を尽くす。

それが、彼の仕事だった。

そして、いつからか。

佐伯は、神という存在を信じなくなっていた。

神に祈ったことがなかったわけではない。

むしろ、医師になってからのほうが、祈ることは多かった。

どうか、この人だけは。

どうか、間に合ってくれ。

どうか、家族のもとへ帰してやってほしい。

声に出さず、心の中で何度も願った。

けれど、願いが叶うとは限らなかった。

助かると信じた患者が亡くなり、助からないかもしれないと思った患者が回復する。

その違いを、神の意志だと考えたことはなかった。

人間の身体には、まだ分からないことがある。

医療にも限界がある。

そして、命には、自分の思い通りにならない現実がある。

佐伯は、それを知っていた。

それでも。

願わずにはいられない瞬間が、確かにあった。

その矛盾を、彼は誰にも話さなかった。

二 自分の病名

異変に気づいたのは、春の終わりだった。

疲れが抜けない。

食欲が落ちた。

階段を上っただけで、以前より息が切れる。

忙しい日々のせいだろうと考えていた。

医師という仕事は、患者の小さな変化には敏感でも、自分自身のこととなると、後回しにしてしまうことがある。

佐伯も例外ではなかった。

検査を受けたのは、同僚から強く勧められたからだった。

結果が出るまでの数日間、彼は普段どおりに働いた。


患者を診察し、治療方針を相談し、若い医師の質問に答えた。

検査結果を聞く日も、いつもと同じように白衣を着ていた。

診察室で向かい合った医師は、慎重に言葉を選んだ。

癌だった。

すでに進行しており、手術による根治は難しい。

治療によって進行を抑えられる可能性はある。

しかし、残された時間は長くないと考えられた。

余命についての説明を受けながら、佐伯は必要なことを一つずつ確認した。

治療の選択肢。

予想される経過。

身体に起こり得る変化。

説明の内容は理解できた。

分からない言葉はなかった。

質問もできた。

最後に、佐伯は静かに尋ねた。

「先生ご自身の経験から見て、どう考えますか」

相手の医師は、少しだけ目を伏せた。

それから、正直に答えた。

佐伯はうなずいた。

礼を言い、診察室を出た。

廊下を歩く足取りは、いつもと変わらなかった。

けれど、エレベーターの扉に映った自分の顔を見たとき、彼は初めて、自分が患者になったことを実感した。

これから先のことは、もう自分だけでは決められない。

知識があるからといって、病気の進行を自由に止められるわけではない。

これまで何度も患者に説明してきたことだった。

今度は、自分が説明を受ける側になった。

その日の夜、佐伯は妻に話した。

妻は最後まで黙って聞いていた。

話が終わっても、すぐには何も言わなかった。

やがて、テーブルの上に置かれた佐伯の手に、自分の手を重ねた。

「これから、どうするの?」

佐伯は答えた。

「できる治療は受けるよ。でも、残された時間を全部、病院の中だけで過ごしたくはない」

妻はうなずいた。

「分かった」

それだけだった。

泣き崩れることも、奇跡を信じようと言うこともなかった。

二人は、長い時間を一緒に過ごしてきた。

言葉にしなくても伝わることがある。

けれど、伝えなければ分からないこともある。

その夜、二人は久しぶりに、これからの暮らしについてゆっくり話した。

佐伯は、仕事を離れる準備を始めた。

患者を担当から外れ、後輩たちに引き継いだ。

最後の勤務の日、若い医師が言った。

「先生から教わったこと、忘れません」

佐伯は首を横に振った。

「忘れてもいいよ。患者さんを診るときに、思い出してくれれば」

相手は、少し困ったように笑った。

佐伯も笑った。

病院を去るとき、彼は何度も振り返らなかった。

自分がいなくなっても、病院は動き続ける。

次の患者が来て、次の医師が診察する。

命を救おうとする人間は、これからもそこにいる。

それでよかった。

三 祈りの行き先

病気が進むにつれ、佐伯は自分の身体が変わっていくのを感じた。

以前なら難なくできたことに、時間がかかるようになった。

食事の量が減り、長く歩くことも難しくなった。

医師として知っている知識が、時には助けになり、時には余計なことまで考えさせた。

この症状は、病状のどの段階で現れるのか。

今の痛みは、これからどう変化するのか。

自分の身体について、先のことまで想像できてしまう。

けれど、実際にそのときを迎えてみなければ、分からないこともあった。

ある日の夕方、娘が訪ねてきた。

仕事を終えてから来たらしく、少し疲れた顔をしていた。

「お父さん、何か食べたいものある?」

佐伯は考えた。

「そうだな。昔、うちでよく作っていたカレーが食べたい」

娘は笑った。

「お父さん、あれ、いつも辛すぎるって言ってたじゃない」

「だから、今度は辛くしないでくれ」

「分かった。今度ね」

娘は帰る前に、何度も振り返った。

佐伯は、その背中を見送りながら思った。

こんな会話を、あと何回できるだろう。

数えようとした自分に気づき、やめた。

残された時間を数え始めたら、今日という日まで、終わりへ向かう数字に見えてしまう。

彼は、まだ今日を生きていた。

夜、妻が隣に座った。

テレビはついていたが、二人とも画面を見ていなかった。

「怖い?」

妻が尋ねた。

佐伯は、少し考えた。

「怖くないと言ったら、嘘になるな」

「そうよね」

「でも、死ぬことより、君たちに何を残せるのかを考えてしまう」

妻は彼の顔を見た。

「何かを残さなきゃいけないの?」

佐伯は答えられなかった。

医師として、彼は多くの人の死を見てきた。

亡くなった人が残したものは、財産や言葉だけではなかった。

誰かに教えたこと。

一緒に笑ったこと。

何気なく交わした約束。

その人がいたことで変わった、別の誰かの人生。

そうしたものが、本人のいなくなったあとにも残ることがあった。

けれど、それを知っていても、自分の死を前にすれば、何かを確かめたくなる。

自分が生きたことに、意味があったのか。

救えなかった命を、どう受け止めればいいのか。

答えを知っているはずの自分が、今は答えを持っていなかった。

「……神様って、いると思うか」

佐伯が尋ねた。

妻は、すぐには答えなかった。

「あなたは、どう思っているの?」

「いないと思っているよ」

佐伯は窓の外を見た。

「医者になってから、何度も祈った。助かってほしいと思った。どうか間に合ってくれ、と」

「うん」

「でも、祈ったから助かったのかどうかなんて、分からない。助からなかった人もいる」

妻は黙って聞いていた。

「神がいるとしたら、どうしてあの人が死んで、別の人が助かるのか。何か理由があるのか。そう考えたこともあった」

佐伯は、手の甲を見つめた。

「けれど、理由があると考えたところで、亡くなった人が帰ってくるわけじゃない」

「そうね」

「……それでも、祈ってしまうんだ」

彼は、苦笑した。

「いないと思っている相手に、何を頼んでいるんだろうな」

妻は、重ねた手に少し力を込めた。

「何かにお願いしたくなることくらい、あるわよ」

佐伯は妻を見た。

「本当にそこにいるかどうかとは、別の話なのかもしれないわね」

その言葉を聞き、佐伯はしばらく考えていた。

人間は、どうにもならない現実に直面したとき、何かにすがりたくなる。

自分の力では届かないところに、誰かがいてほしいと思う。

失われる命を、止めてくれる何かが。

苦しんでいる人を、見捨てない何かが。

自分がいなくなったあとも、大切な人を守ってくれる何かが。

そう願う気持ちは、医学では説明できなかった。

いや、説明する必要があるものでもないのかもしれない。

人は、何もできないと知っているからこそ、願うことがある。

願ったからといって、現実が変わるとは限らない。

それでも、願わずにはいられない。

佐伯は、窓の外へ目を戻した。

神がいるとは思わなかった。

けれど、かつて祈った自分を、愚かだったとも思わなかった。

四 白い場所

死が訪れたのは、それからしばらく後のことだった。

佐伯は、自宅の寝室で横になっていた。

窓の外では、風に揺れた木の葉が、壁に淡い影を落としていた。

痛みを和らげるための治療を受けながら、彼は家族と過ごしていた。

妻はベッドのそばの椅子に座り、読みかけの本を開いていた。

娘も来ていた。

二人は、夕食に何を作るかという話をしていた。

「お父さんが食べたいって言っていたカレー、今度作るね」

娘が言った。

佐伯は、目を開けた。

「今度か」

「うん。今度」

彼は、かすかに笑った。

その言葉の先に、何があるのか。

娘も妻も、きっと分かっていた。

それでも、二人は話を続けた。

いつもの買い物のこと。

近所で見かけた犬のこと。

以前、家族で出かけた場所のこと。

佐伯は、その声を聞いていた。

会話の内容は、特別なものではなかった。

誰かを救った日の話でも、医師としての功績でもなかった。

ただ、家族がそこにいた。

妻が本を閉じ、娘の話に相づちを打った。

娘が笑い、妻も笑った。

その笑い声を聞きながら、佐伯は思った。

自分は、こういう時間を何度も後回しにしてきた。

けれど、失敗だったと決めつけることもできない。

病院で過ごした時間も、家族と過ごした時間も、どちらも自分の人生だった。

その一方を消して、もう一方だけを正解にすることはできなかった。

やがて、呼吸が少しずつ浅くなった。

妻が本を置いた。

娘がベッドのそばへ来た。

佐伯は、二人の顔を見た。

何か言おうとしたが、言葉はうまく出てこなかった。

妻が彼の手を握った。

娘も、その手に触れた。

佐伯は、ほんのわずかに指を動かした。

二人の手の温かさを感じながら、彼は静かに目を閉じた。

それが、最後だった。

妻は、しばらく彼の手を握っていた。

娘は父親の顔を見つめていた。

泣き声が上がるまでには、少し時間がかかった。

誰も、彼が亡くなったことを喜んではいなかった。

けれど、彼のそばには、大切な人たちがいた。

佐伯は、家族に囲まれて、その生涯を終えた。

――その瞬間。

妻の手の温もりも、娘の声も、風に揺れる木の葉の音も、すべてが遠のいた。

次の瞬間、何も聞こえなくなった。

光も、風の気配も、家族の声もない。

佐伯が目を開けると、そこには白い空間が広がっていた。

壁も、床も、天井も、どこまで続いているのか分からない。

自分が立っているのか、座っているのかさえ、はっきりしなかった。

そこに、42紙がいた。

ごく普通の服を着て、こちらを見ていた。

「……ここは?」

42紙は答えた。

「分かりません」

佐伯は眉をひそめた。

「君にも分からないのか」

「はい」

妙な返事だった。

けれど、相手はふざけているようには見えなかった。

佐伯は、自分の身体を確かめた。

痛みがない。

息苦しさもない。

さっきまで感じていた、身体の重さもなかった。

「私は、死んだのか」

「はい」

佐伯は、ゆっくりとうなずいた。

医師として何度も説明してきた言葉が、今は自分に向けられていた。

死んだ。

それだけだった。

「君は、何者なんだ」

「42紙です」

「……42紙?」

「はい」

佐伯は、その名前を繰り返さなかった。

少し考えてから、尋ねた。

「ここには、神様はいるのか」

「いません」

返事は早かった。

「天国は?」

「ありません」

「地獄は?」

「ありません」

佐伯は、42紙を見つめた。

「生まれ変わりも、ないのか」

「ありません」

佐伯は、目を伏せた。

そうだろうと思った。

自分が信じていなかったものが、目の前で否定されたからといって、驚きはなかった。

ただ、何かを確かめたかったのかもしれない。

「……私は、何度も神に祈ったよ」

42紙は黙っていた。

「医師になってから、何度もだ。助けたい人がいた。助かってほしい人がいた。どうにもならないと分かっていても、何かが変わってほしかった」

「はい」

「けれど、神はいないんだな」

「いません」

佐伯は、少しだけ笑った。

「そうか」

その顔には、怒りも、驚きもなかった。

長い時間をかけて考えてきたことを、最後にもう一度確かめただけのようだった。

「……それでも、人は祈るんだろうな」

42紙は答えなかった。

「何かにすがりたいんだ。自分にはどうにもできないことがあるから。誰かを救いたいのに、救えないことがあるから」

佐伯は、白い空間を見渡した。

「神がいると信じていたわけじゃない。いてほしいと思ったんだろう」

しばらく、沈黙が続いた。

「君には、そういう気持ちは分からないか」

「分かりません」

佐伯はうなずいた。

「そうだろうな」

それ以上、問い詰めなかった。

42紙は、そばにある小さな台を指した。

そこには、二枚の白い紙が置かれていた。

「どちらかを選んでください」

「これは?」

「選んでください」

佐伯は、二枚の紙を見た。

何のために選ぶのか。

選んだ先に何があるのか。

尋ねたいことはあった。

けれど、42紙が、それ以上のことを知っているとは思えなかった。

佐伯は、右側の紙を手に取った。

紙の表面に、数字が浮かび上がる。

4。

佐伯は、その数字を見つめた。

「……これは、何を意味するんだ」

42紙は答えた。

「4は、幸福な死。2は、不幸な死です」

佐伯は、数字から目を離さなかった。

「……死に方を示す数字なのか」

「はい」

「生きてきたことの評価ではない?」

「違います」

佐伯は、ゆっくりと息を吐いた。

「善いことをしたから4になるわけでも、悪いことをしたから2になるわけでもないんだな」

「そうです」

「何かの報酬でも、罰でもない」

「はい」

佐伯は、手の中の紙を見つめた。

医師として救ってきた命の数を数えられたわけではない。

救えなかった人々のことを許されたわけでもない。

自分の人生に点数がつけられたわけでもなかった。

ただ、死に方を示す数字が、そこに現れた。

「……そうか」

それだけを口にした。

何かの報酬だとは思わなかった。

救ってきた命の数を数えられたわけでも、救えなかった人々のことを許されたわけでもない。

ただ、自分の死が、そういう形で訪れた。

佐伯は紙を置いた。

「ありがとう」

誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からなかった。

42紙は何も言わなかった。

――突然、世界が暗くなった。

白い空間が、一瞬にして消えた。

音も、光も、すべてが途切れた。

そして。

佐伯のいた寝室に、夕方の光が戻ってきた。

妻は、ベッドのそばに座っていた。

娘は、父親の手を握っていた。

佐伯は、もう目を開けなかった。

妻が娘の肩を抱いた。

娘は父親の手を離さず、静かに泣いていた。

窓の外では、風が木の葉を揺らしていた。

誰かが彼の死を祝福したわけではない。

何かが彼の病気を治したわけでもない。

彼は、家族と過ごした時間の中で、最期を迎えた。

それだけだった。

けれど、その時間は、確かに彼の人生の一部だった。

五 神はいない

透の部屋には、時計の音だけが響いていた。

42紙は、いつものように椅子に座っていた。

足元にはコンビニの袋が置かれている。

透は、しばらく黙っていた。

医師の人生を聞き終えても、すぐに何かを言う気にはなれなかった。

やがて、透が口を開いた。

「……あの医師も、神はいないと思っていたんだな」

「はい」

「それでも、神に祈った」

「はい」

透は眉を寄せた。

「おかしな話だよな。いないと思っている相手に、祈るんだから」

42紙は答えなかった。

「でも……分かる気もする」

透は視線を落とした。

「どうにもならないとき、誰かに助けてほしいと思う。自分には何もできないと分かっていても、何かが変わってほしいって願う」

言葉が途切れた。

「……紗季のときも、そうだった」

42紙は動かなかった。

透は、両手を握りしめた。

「病院に運ばれたときには、もう息がなかった。それでも、医師たちは必死に助けようとしてくれたんだ」

声が、少しかすれた。

「俺は、それを知ってる。何もしてくれなかったわけじゃない。助けようとしてくれたんだ」

透は、うつむいた。

「だから、誰かが悪かったって言いたいわけじゃない。あの人たちだって、紗季を助けたかったはずなんだ」

42紙は何も言わなかった。

「……それでも、助からなかった」

「はい」

透は、ゆっくりとうなずいた。

分かっていた。

医師たちが何をしようとしたのか。

どれほど必死に命をつなごうとしたのか。

それでも、紗季は戻ってこなかった。

頭では分かっている。

けれど、理解することと、受け入れることは違った。

透は何度も、その違いの前に立ち尽くしてきた。

紗季が死んだという事実を、少しずつ受け入れようとしている自分はいた。

もう、あの日の前には戻れない。

紗季が帰ってくることもない。

それを、頭では分かっていた。

けれど。

透には、どうしても受け入れられないことがあった。

紗季が、2を引いたということだった。

生きてきたことの評価ではない。

善い人間だから4になるわけでも、悪い人間だから2になるわけでもない。

42紙の説明は、理解していた。

紗季は何も悪いことをしていない。

誰かを傷つけたわけでもない。

誰かの人生を踏みにじったわけでもない。

それでも、紗季は不幸な死を迎えた。

あまりにも突然に。

あまりにも理不尽に。

透は、紗季が2を引いたことを、誰かの罪だとは思っていなかった。

紗季の生き方が悪かったからだとも思っていない。

それでも、納得できなかった。

せめて、最期くらいは。

せめて、苦しまずに。

せめて、怖い思いをせずに。

穏やかな気持ちのまま、死んでほしかった。

紗季には、幸福な死を迎えてほしかった。

そんな願いが、今さらどうにもならないことは分かっている。

4と2は、生きてきたことへの報酬でも罰でもない。

それでも、紗季が2を引いたという事実だけは、透の中でどうしても動かなかった。

「神様がいるなら、どうして助けてくれないんだって……そう思うこともある」

42紙は、透を見ていた。

「でも、本当は、最初からそんな存在はいないんだよな」

「いません」

透は小さく息を吐いた。

「神様がいると思いたかったんだろうな、人間は」

自分に言い聞かせるような声だった。

「どうにもならないことに、何か意味があってほしいから。誰かが見ていてくれると思いたいから。願えば、ほんの少しでも何かが変わるかもしれないって……」

そこで、透は口を閉じた。

自分も同じだった。

紗季が死んだとき、何かを願わずにはいられなかった。

もう一度、会いたい。

もう一度、声を聞きたい。

あの日のことが、なかったことになってほしい。

そんなことが起こらないと分かっていても、願うことをやめられなかった。

「……俺だって、そうだったのかもしれない」

42紙は黙っていた。

「神様なんていない。天国も、地獄も、生まれ変わりもない」

一つずつ、確かめるように口にした。

「お前は、最初からそう言っていたんだよな」

「はい」

「なのに、俺は……どこかで、何かを期待していたのかもしれない」

透は目を閉じた。

「紗季が戻ってくる理由を。あの死が、なかったことになる理由を」

返事はなかった。

しばらくして、透は目を開けた。

「……そんなもの、ないんだな」

「分かりません」

透は、42紙を見た。

「いや。今のは、お前に聞いたんじゃない」

少しだけ、声が落ち着いていた。

「俺が、自分で分かったことだ」

42紙は何も言わなかった。

透も、それ以上は続けなかった。

神はいない。

それは、42紙から何度も聞かされてきたことだった。

けれど今、透は初めて、その言葉を自分の中で考えていた。

神がいないからといって、願ったことまで消えるわけではない。

祈ったことが、愚かなことになるわけでもない。

何かを信じたくなるほど、苦しいことがある。

何かにすがりたいほど、救いたい人がいる。

それでも、現実は変わらないことがある。

医師は、神がいないと思いながら祈った。

透も、神はいないと知りながら、紗季が戻ってくることを願っていた。

その二つの気持ちが、透の中で重なった。

「……なあ、42紙」

「はい」

「お前は、神がいないことを、最初から知っていたんだよな」

「はい」

「でも、人間がどうして祈るのかは、分からない」

「分かりません」

透は、少しだけ笑った。

笑ったというより、張りつめていたものが、ほんのわずかに緩んだようだった。

「そうか」

彼は、42紙の足元にあるコンビニの袋を見た。

「……今日は、何を買ってきたんだ?」

42紙は袋に目を向けた。

「おにぎりです」

「そうか」

透は、それ以上尋ねなかった。

以前なら、42紙の言葉に腹を立てていたかもしれない。

何も分からないと答える、その態度に。

けれど今は、分からないことを、分からないまま置いておくこともできるような気がした。

それは、42紙を許したということではない。

紗季の死を受け入れたということでもない。

ただ、答えがないことと、何も考えられないことは違うのだと、少しだけ分かった気がした。

透は、椅子の背にもたれた。

42紙は袋からおにぎりを取り出していた。

二人の間に、静かな時間が流れた。

透は、ふと時計を見た。

針は、2時24分を指していた。

さっきまで考えていたことが、頭の中で少しずつ形を変えていた。

救えなかった命。

それでも救おうとした人間。

いないと知りながら祈る人間。

そして、答えを持たない42紙。

ばらばらだったものが、ほんの少しだけつながった気がした。

まだ、すべてが分かったわけではない。

紗季の死に、納得できたわけでもない。

それでも。

透は、もう一度、時計に目を向けた。

針が、ほんのわずかに進んでいた。

時計の針は、2時25分を指していた。

――第二十二話・完――

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