第21話「失ってから気づくもの」
『42紙』
第21話 失ってから気づくもの
一 閉ざされた部屋
部屋のカーテンは、昼間でも閉じられていた。
机の上には、飲みかけのペットボトルと、食べ終えたカップ麺の容器が積み重なっている。床には脱ぎ捨てられた服。壁際には、何日も開けていない段ボール箱が置かれていた。
パソコンの画面には、いくつもの動画が並んでいた。
社会が悪い。
会社が悪い。
政治が悪い。
自分が認められないのは、周りの人間が間違っているからだ。
そんな言葉が、次々と流れていく。
二十八歳の息子は、画面を見つめながら、何度もうなずいた。
大学は卒業した。
しかし、就職しても長く続かなかった。
職場の人間関係が気に入らない。
上司の言い方が気に入らない。
自分の能力を正しく評価してくれない。
そう言って仕事を辞めてから、何年も経っていた。
友人と呼べる人間もいない。
外に出ることも少なくなり、今では家族以外と話す機会さえほとんどなかった。
それでも、本人は自分が間違っているとは思っていなかった。
インターネットに書かれていることは正しい。
自分と同じ意見の人間が、これだけいる。
ならば、間違っているのは自分ではない。
そう考えていた。
「ご飯、できたわよ」
部屋の外から、母親の声がした。
息子は画面から目を離さなかった。
「聞こえてる?」
「うるさいな。今、忙しいんだよ」
「もう冷めちゃうから、先に食べておこうと思って」
「だから、うるさいって言ってるだろ!」
壁を叩く音がした。
母親は、扉の前で黙った。
しばらくして、足音が遠ざかっていった。
息子は再び画面に目を戻した。
何事もなかったかのように、動画の再生を続けた。
食卓には、息子の好きなおかずが並んでいた。
母親は一人で箸を動かした。
息子が小さかった頃は、食事のたびに学校であったことを話してくれた。
今日は誰と遊んだ。
先生に褒められた。
明日は何をして遊ぼう。
そんな話を、母親はいつも楽しみに聞いていた。
いつからだろう。
息子の声を聞くたびに、体がこわばるようになったのは。
いつからだろう。
扉の向こうの機嫌を、うかがうようになったのは。
母親は、冷めていく味噌汁を見つめた。
それでも、明日になれば少しは変わるかもしれない。
そう思いたかった。
二 母親という人
翌朝。
母親は、洗濯物を畳んでいた。
息子の服も、下着も、タオルも、ほかの洗濯物と一緒に畳んでいく。
部屋から出てきた息子は、畳まれた服を見て言った。
「これ、まだ洗ってないの?」
「昨日、洗っておいたわよ」
「なんか臭いんだけど」
母親は服を手に取り、確かめた。
「そんなことないと思うけど……」
「思うじゃなくて、ちゃんとやれよ」
息子は服を床に投げた。
母親は何も言わず、それを拾った。
「俺がこんな生活になったのも、結局、家の環境が悪かったからだよな」
「……どういうこと?」
「子供の頃から、何も教えてくれなかったじゃん。社会で生きていく方法とか、人間関係とかさ」
「お父さんも私も、あなたにはできるだけのことをしてきたつもりよ」
「そういうところだよ!」
息子は声を荒らげた。
「自分たちはちゃんとやってきたって思ってる。だから俺が悪いことになるんだろ!」
母親は言葉を失った。
息子の人生を、すべて自分の責任だと思ったことはない。
けれど、何かしてあげられたのではないかと考えた夜は、数え切れないほどあった。
仕事を辞めたときも、家に閉じこもるようになったときも、母親は息子を責めるより先に、心配した。
どこか具合が悪いのではないか。
心に何か問題を抱えているのではないか。
専門の人に相談したほうがいいのではないか。
何度も考えた。
しかし、息子に話を切り出せば、怒鳴られた。
病気扱いするな。
俺をおかしい人間にするな。
余計なことをするな。
そう言われるたびに、母親は口を閉ざした。
本当に何か助けが必要なのかもしれない。
けれど、何が必要なのか分からない。
息子の怒りが、何から生まれているのかも分からない。
ただ、ひとつだけ分かっていた。
自分は、この子を怖いと思うようになっていた。
その事実を認めることが、母親にはつらかった。
息子がまだ幼かった頃。
熱を出して眠る息子の額に、濡らしたタオルを置いた。
夜中に何度も目を覚まし、呼吸を確かめた。
初めて一人で歩いた日には、手を叩いて喜んだ。
あの子が、こんなふうになるなんて。
母親は、床に落ちた服をもう一度畳んだ。
そして、息子の部屋の前に置いた。
扉の向こうからは、動画の音が聞こえていた。
三 壊れていく日常
その日、息子は朝から機嫌が悪かった。
インターネットの接続が、何度も途切れていたからだ。
「おい、ネットが繋がらないんだけど!」
母親は台所から顔を出した。
「え? さっきまでは普通だったけど……」
「何とかしろよ!」
「私、そういうの分からないから。少し待ってみたら?」
「何でお前は何もできないんだよ!」
息子は机を叩いた。
マウスが床に落ちた。
母親は慌てて部屋に入った。
「そんなに怒らなくても……」
「お前に何が分かるんだよ!」
息子は立ち上がった。
「俺がどんな思いで毎日過ごしてると思ってるんだ!」
「分かろうとはしているわ。だから……」
「分かろうとしてる? 何も分かってないだろ!」
息子が母親の肩を押した。
母親の背中が壁にぶつかった。
一瞬、息が止まった。
「……痛い」
母親が小さく言った。
息子は、それを聞いても謝らなかった。
「お前が余計なことを言うからだろ!」
母親は壁に手をつき、体を起こした。
目の前にいる息子の顔を見た。
怒りに満ちた顔だった。
そこにいるのは、自分が育ててきた息子だった。
それなのに、母親は怖かった。
「もう、やめて……」
「何だよ、その顔」
息子が近づいてきた。
「俺が悪いって言いたいのか?」
「違うの。私は……」
「だったら黙ってろよ!」
息子は、近くにあった椅子を蹴った。
椅子が倒れ、床に大きな音が響いた。
母親は目を閉じた。
怒らせないようにしよう。
余計なことを言わないようにしよう。
そうすれば、いつか落ち着いてくれるかもしれない。
そう思って、ずっと耐えてきた。
けれど、息子の怒りは、母親が黙っていても、何かを差し出しても、なくならなかった。
息子は自分の思いどおりにならないたび、誰かのせいにした。
母親は、そのたびに謝った。
自分が悪くなくても。
何を謝ればいいのか分からなくても。
そうしていれば、少しでも早く怒りが収まると思ったからだ。
しかし、その日も息子は言った。
「全部、お前のせいだ!」
母親は、返事をしなかった。
ただ、壁に背をつけたまま、息子を見つめていた。
息子は舌打ちをして、部屋を出ていった。
扉が乱暴に閉まった。
静かになった部屋で、母親はしばらく動けなかった。
やがて、ゆっくりと立ち上がった。
台所へ戻る。
夕食の支度をしなければならなかった。
包丁を手に取ったとき、母親の手が震えた。
刃先に、天井の明かりが映っていた。
母親は包丁を見つめた。
何を考えていたのか、自分でも分からなかった。
ただ、もう限界だった。
四 取り返しのつかないこと
夕食の時間になっても、息子は部屋から出てこなかった。
母親は食卓に料理を並べた。
しばらく待ってから、息子を呼びに行った。
「ご飯、できたわよ」
返事はなかった。
「今日は、あなたの好きなものを作ったから……」
「いらない!」
扉の向こうから声が飛んできた。
母親は目を伏せた。
「少しだけでも食べない?」
「うるさい!」
「ずっと部屋にいると、体にもよくないから……」
「出ていけよ!」
母親は、扉の前で立ち尽くした。
「お願いだから、普通に話してちょうだい」
その言葉に、息子が扉を開けた。
「普通に?」
息子は笑った。
「お前が俺をこんなふうにしたんだろ!」
母親は、何も言えなかった。
「俺の人生をめちゃくちゃにしておいて、今さら母親面するなよ!」
「私は……あなたのことを……」
「黙れ!」
息子が母親の腕をつかんだ。
強く引かれ、母親の体がよろめいた。
「離して……」
「お前はいつもそうだ! 自分のことしか考えてない!」
母親は息子の手を振りほどこうとした。
息子がさらに腕に力を込めた。
その瞬間、母親の中で、何かが切れた。
長い間、押し込めてきた恐怖。
誰にも言えなかった苦しみ。
いつまで続くのか分からない毎日。
もう、どうしたらいいのか分からなかった。
母親の視線が、台所へ向いた。
そこには、先ほどまで使っていた包丁があった。
母親は、それを手に取った。
息子が何かを言った。
けれど、その言葉は母親の耳に入らなかった。
次の瞬間。
刃が、息子の体に向かった。
息子の表情が変わった。
母親は、手にしたものを見た。
赤い色が、目に入った。
息子が床に崩れ落ちた。
包丁が、母親の手から滑り落ちた。
カラン、と乾いた音がした。
「……え?」
母親は、その場に立ち尽くした。
息子は動かなかった。
「ねえ……?」
母親は膝をついた。
「ねえ、起きて……」
返事はなかった。
「お願い……お願いだから……」
母親は息子の肩を揺すった。
何度も名前を呼んだ。
けれど、息子は目を開けなかった。
母親は震える手で電話をつかんだ。
救急車を呼んだ。
警察にも連絡した。
何を話したのか、よく覚えていなかった。
ただ、自分が息子を刺したことだけは、はっきりと伝えた。
電話を切ったあと、母親は息子のそばに座り込んだ。
床に広がる赤い色を見つめた。
「ごめんね……」
何度も、そう言った。
「ごめんね……」
息子は、もう答えなかった。
五 遅すぎた言葉
救急車と警察が到着した。
息子は運ばれていった。
母親は、警察官の問いかけに、静かに答えた。
逃げようとはしなかった。
言い訳もしなかった。
「私が、やりました」
それだけを繰り返した。
手錠をかけられ、家を出る。
玄関を通るとき、母親は一度だけ振り返った。
廊下の向こうに、息子の部屋が見えた。
扉は開いたままだった。
机の上には、パソコンがあった。
画面には、まだ動画が表示されていた。
その横には、飲みかけのペットボトル。
床には、母親が畳んで置いた服が落ちていた。
母親は、何かを言おうとした。
けれど、言葉が出なかった。
警察官に促され、家を出た。
扉が閉まった。
その音は、いつも息子が部屋の扉を閉める音と、よく似ていた。
母親は、もう一度振り返ろうとした。
しかし、足は止まらなかった。
これから何が起きるのか。
どれほどの時間をかけて償わなければならないのか。
母親には分からなかった。
ただ、ひとつだけ分かっていた。
もう、息子のために夕食を作ることはない。
洗濯物を畳むこともない。
扉の向こうから怒鳴り声が聞こえることもない。
あれほど苦しかった日常は、もう戻ってこない。
そして、自分が望んでいた未来も、戻ってこない。
母親は、うつむいた。
涙が頬を伝った。
「ごめんね……」
その言葉は、誰にも届かなかった。
六 白い空間
息子は、白い空間に立っていた。
壁も、天井も、床も、境目が分からない。
そこには、二枚の白い紙が置かれていた。
少し離れた場所に、見知らぬ男が立っている。
普段着の男だった。
片手には、コンビニの袋を持っていた。
息子は、周囲を見回した。
「……ここ、どこだよ?」
男は答えた。
「分かりません」
「分からないって、何だよ。お前、誰なんだよ?」
「42紙です」
息子は眉をひそめた。
「死んだってことか?」
「はい」
息子は、しばらく黙った。
自分が死んだ。
その言葉が、うまく頭に入ってこなかった。
「……母親は?」
42紙は、息子を見た。
「分かりません」
「俺を刺したんだぞ。あいつは、どうなるんだよ?」
「分かりません」
「ふざけんなよ……」
息子は声を荒らげた。
「俺は殺されたんだぞ!」
42紙は、何も言わなかった。
息子は男をにらみつけた。
何か答えろ。
何か言え。
自分が正しいと、認めろ。
いつもそうしてきた。
自分の思いどおりにならないときは、相手が間違っているのだと思ってきた。
しかし、目の前の男は、何も言わなかった。
怒鳴っても、責めても、何も変わらなかった。
息子は視線を落とした。
頭の中に、母親の姿が浮かんだ。
食卓に並ぶ料理。
畳まれた服。
部屋の前に置かれた食事。
何度も呼びに来た声。
自分が怒鳴るたびに、小さくなる母親の背中。
それでも翌朝には、何事もなかったように食事を作っていた。
洗濯をしていた。
自分のことを心配していた。
息子は、唇をかんだ。
母親が、自分を大切にしていたことは知っていた。
知っていたはずだった。
ただ、それを当たり前だと思っていた。
母親は自分のために何かをするものだと思っていた。
自分の機嫌をうかがうのも、怒鳴られて黙るのも、全部、当然のことだと思っていた。
母親にも、疲れる日があったはずだ。
悲しい日も、怖い日もあったはずだ。
自分の言葉に傷ついたことも、何度もあったはずだ。
それなのに、自分は一度でも、母親の気持ちを考えただろうか。
息子は、顔を上げた。
「……あいつ、いつも飯を作ってたんだ」
42紙は黙っていた。
「洗濯も、掃除も……全部、あいつがやってた」
息子は、笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「俺、ありがとうって……言ったこと、あったかな」
答えはなかった。
「……ごめんって、言えばよかった」
声が震えた。
「一回くらい……ちゃんと話せばよかったんだ」
母親に、言いたいことがあった。
怒っていたこと。
苦しかったこと。
自分が何もできないことを、認めたくなかったこと。
けれど、それを伝える代わりに、すべてを母親のせいにした。
母親が悪い。
社会が悪い。
周りが悪い。
そう言い続けていれば、自分が何をしているのか、考えずに済んだからだ。
息子は両手で顔を覆った。
「……俺、何やってたんだろうな」
42紙は、静かに立っていた。
息子は、しばらくして顔を上げた。
「なあ。俺、もう一度、母親に会えるのか?」
「分かりません」
息子は目を閉じた。
その答えを聞いても、怒ることはできなかった。
分からないものは、分からない。
自分が望む答えを、誰かが必ずくれるわけではない。
そんな当たり前のことを、息子は死んでから知った。
42紙は、二枚の白い紙を指した。
「選んでください」
息子は、紙を見つめた。
「……何だよ、これ」
「あなたが選ぶ紙です」
「選んだら、どうなるんだ?」
「4か2が出ます」
「4と2……?」
42紙は、淡々と説明した。
「4は、幸福な死です。2は、不幸な死です」
息子は眉をひそめた。
「幸福な死って、何だよ。死んだら終わりだろ」
「そうです」
「じゃあ、何が幸福なんだよ」
42紙は、少しだけ間を置いた。
「死に方です」
息子は黙った。
「生きてきた人生の幸福や不幸を決めるものではありません」
42紙は続けた。
「善い人だから4になるわけではありません。悪い人だから2になるわけでもありません」
息子は、二枚の紙を見た。
「……じゃあ、俺が2を引いたら?」
「あなたの死に方が、不幸だったということです」
息子の表情が、わずかに変わった。
「母親に殺されたからか?」
「はい」
「……俺が悪いことをしたからじゃないんだな?」
「そうです」
息子は、何も言わなかった。
自分がしてきたことは、消えない。
母親を傷つけたことも、怒鳴ったことも、すべてを誰かのせいにしてきたことも。
けれど、それが理由で死に方を決められたわけではない。
誰かが自分を裁いたわけでもない。
目の前にあるのは、ただ二枚の紙だった。
「……母親は、どうなるんだ」
「分かりません」
また、その答えだった。
息子は、ゆっくりと息を吐いた。
母親に謝りたかった。
ありがとうと伝えたかった。
もう一度、話がしたかった。
しかし、その願いが叶うのかどうか、誰にも分からない。
息子は、片方の紙に手を伸ばした。
紙を持ち上げる。
そこには、数字が浮かび上がっていた。
2。
息子は、その数字を見つめた。
何も言わなかった。
42紙も、何も言わなかった。
――突然、世界が暗くなった。
白い空間が、一瞬にして消えた。
音も、光も、すべてが途切れた。
そして。
カチャン。
七 残された人
薄暗い部屋。
硬い椅子。
冷たい壁。
母親は、机の前に座っていた。
目の前には、警察官がいた。
「もう一度、確認します。あなたが息子さんを刺した、ということで間違いありませんか」
母親は、うなずいた。
「はい」
「何か、言いたいことはありますか」
母親は口を開いた。
けれど、すぐには言葉が出てこなかった。
息子の顔が浮かんだ。
怒っている顔。
笑っている顔。
小さな手で、自分の指を握っていた頃の顔。
どれも、同じ息子だった。
「……あの子は、私の息子です」
母親は、ようやく言った。
「ずっと、私の息子でした」
警察官は、黙って聞いていた。
「苦しかったんです」
母親の声がかすれた。
「怖かった。でも……あの子が変わってくれるんじゃないかって、ずっと思っていました」
母親は両手を握りしめた。
「いつか、普通に話せる日が来るんじゃないかって」
涙が落ちた。
「なのに、私は……」
その先は、言えなかった。
息子を失った悲しみがある。
息子から受けてきた苦しみもある。
そして、自分が息子の命を奪ったという事実がある。
どれかひとつだけを選んで、ほかをなかったことにはできなかった。
母親は、うつむいた。
「……私が、殺しました」
それ以上、何も言わなかった。
やがて、母親は部屋を出た。
廊下の先に、扉があった。
その扉の向こうで、何が待っているのか。
母親には、まだ分からなかった。
ただ、自分がしたことから逃げることはできない。
そのことだけは、分かっていた。
***
家には、誰もいなかった。
食卓は片づけられていた。
息子の部屋には、パソコンが残っていた。
床に落ちていた服も、机の上のペットボトルも、そのままだった。
母親が畳んだ服は、椅子の上に置かれていた。
誰も、それを着ることはなかった。
誰も、食事を呼びに来ることはなかった。
誰も、扉の向こうから返事をすることはなかった。
そこにあった日常は、静かに途切れていた。
息子は、母親を失ってから気づいた。
母親がそばにいることは、当たり前ではなかった。
母親もまた、息子を失ってから気づいた。
あの子と過ごした日々は、苦しいことばかりではなかった。
けれど、もう一度やり直すことはできない。
伝えたかった言葉は、相手に届かない。
謝りたかった言葉も、ありがとうという言葉も。
二人の間に残ったものは、後悔だけではなかった。
確かに存在した時間。
一緒に食べた食事。
交わした言葉。
小さな手を握った日。
そのすべてが、失われたあとも、なかったことにはならなかった。
ただ、それをもう一度、二人で確かめることはできなかった。
失ってから気づくもの。
それは、いつもそばにあったものだった。
そして、気づいたときには、もう戻らないものだった。
八 当たり前ではなかったもの
透は、部屋の中で一人、座っていた。
窓の外は静かだった。
時計の針が、時を刻んでいる。
透は、その音を聞きながら、しばらく動かなかった。
あの母親は、息子を愛していたのだろうか。
愛していたからこそ、最後まで変わることを願っていたのだろうか。
それとも、愛情だけでは説明できない何かが、二人の間に積み重なっていたのだろうか。
透には、分からなかった。
ただ、息子が母親の愛情を当たり前だと思っていたことは、分かった。
食事を作ってくれること。
服を洗ってくれること。
自分を心配してくれること。
いつもそこにいること。
それらは、最初から与えられているものではなかった。
誰かが、時間を使っていた。
誰かが、心を砕いていた。
誰かが、言葉にできない思いを抱えながら、そこにいた。
透は、目を閉じた。
紗季の顔が浮かんだ。
二人で話した、あの日。
来週の土曜日なら休めそうだと伝えたとき、紗季は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、海に行くか?」
そう聞いた自分に、紗季は、何を着ていこうかと楽しそうに話していた。
あの約束は、特別なものではなかった。
少なくとも、そのときの透には、そう思えた。
次の土曜日が来る。
その日になれば、二人で海へ行く。
それだけのことだった。
当たり前に続くと思っていた。
透は、ゆっくりと目を開けた。
もう、その日は来ない。
海へ行くこともできない。
紗季が何を着てくるのか、見ることもできない。
あの日の続きを、二人で過ごすことはできない。
「……紗季」
名前を呼んでも、返事はなかった。
透は、膝の上で手を握りしめた。
紗季を大切に思っていなかったわけではない。
一緒に過ごす時間が、どうでもよかったわけでもない。
それでも、これからも続くと思っていた日常は、突然、途切れた。
透は、そのことを何度も考えてきた。
それなのに、今になって、別のことが胸に浮かんだ。
あの何気ない約束も。
紗季が笑った顔も。
次に会えると思っていたことも。
どれも、当たり前ではなかったのだ。
透は、顔を伏せた。
しばらくして、部屋の隅から声がした。
「何を考えているんですか」
42紙だった。
いつからそこにいたのか、透には分からなかった。
「……別に」
「そうですか」
透は顔を上げた。
42紙は、コンビニの袋を持って立っていた。
いつもと変わらない姿だった。
その変わらなさが、透には腹立たしかった。
「……お前は、何も変わらないんだな」
「何がですか」
「全部だよ」
透は、42紙をにらんだ。
「人が死んでも、お前はいつもと同じ顔をしてる」
42紙は答えなかった。
「……あの母親は、息子を愛していたんだろうな」
透は、ぽつりと言った。
42紙は、すぐには答えなかった。
「それでも、殺した」
「はい」
「愛していたら、そんなことはしないんじゃないのか」
42紙は、短く答えた。
「そうとは限りません」
透は、42紙をにらんだ。
「……お前は、何でも分かっているような顔をするな」
「していません」
「そういうところが気に入らないんだよ」
「そうですか」
いつもと同じだった。
42紙は言い返さない。
自分の正しさを証明しようともしない。
透の怒りを受け止めようとしているのか、それとも、ただ何もできないだけなのか。
透には分からなかった。
「……親と子って、何なんだろうな」
口にしてから、透自身が少し驚いた。
42紙は、黙っていた。
「親だから、何でも我慢しなきゃいけないのか」
透は続けた。
「子供だから、何をしても許されるのか」
答えはなかった。
「愛していたら、何をしてもいいわけじゃない。……でも、愛していても、間違えることはあるんだな」
42紙は、透を見ていた。
透は、苦い顔をした。
「……こんなこと、分かったところで、何にもならないけどな」
「そうですね」
透は顔を上げた。
「お前、少しは否定しろよ」
「何をですか」
「……もういい」
透は、深く息を吐いた。
親と子のことを考えていたはずだった。
しかし、考えれば考えるほど、別の人の顔が浮かんでくる。
紗季だった。
紗季は、自分のことを大切にしてくれた。
一緒にいる時間を楽しんでくれた。
次の約束を、当たり前のように楽しみにしてくれた。
透も、紗季を大切に思っていた。
だからこそ、失った。
何も悪くなかった。
何も間違っていなかった。
それでも、死んだ。
透は、42紙を見た。
「……紗季は、何も悪くなかった」
42紙は、答えなかった。
「それでも、死んだ」
沈黙が落ちた。
「……どうしてなんだよ」
42紙は、いつものように答えた。
「分かりません」
透は、目を閉じた。
何度聞いても、同じ答えだった。
納得できるはずがなかった。
紗季が死ななければならなかった理由など、どこにも見つからない。
誰かに説明してもらったところで、受け入れられるとも思えなかった。
それでも、透は気づき始めていた。
答えがないことと、紗季が大切な人だったことは、別の問題なのだと。
紗季の死に意味を与えられなくても、紗季と過ごした時間まで消えるわけではないのだと。
透は、ゆっくりと目を開けた。
「……俺は、まだお前を許してないからな」
42紙は、透を見た。
「はい」
「これからも、許せるかどうか分からない」
「分かりました」
透は、少しだけ眉をひそめた。
「……分かりました、じゃないだろ」
「では、何と言えばいいですか」
透は言葉に詰まった。
やがて、顔を背けた。
「……知らないよ」
42紙は、それ以上、何も言わなかった。
二人の間に、沈黙が戻った。
何も解決していない。
透は42紙を許していない。
紗季の死を受け入れたわけでもない。
ただ、透の中には、新しい問いが残っていた。
人は、誰かを大切に思っていても、いつも正しく振る舞えるわけではない。
誰かに愛されていても、その愛情を理解できないことがある。
そして、失ってから気づくことがある。
気づいたからといって、すべてをやり直せるわけではない。
透は、もう一度、紗季のことを思い出した。
海へ行くはずだった土曜日。
二人で過ごすはずだった時間。
その未来は、もう戻ってこない。
それでも、紗季と出会ったことまで、なかったことにはならない。
透は、まだ、その意味をうまく言葉にできなかった。
ただ、考え続けていた。
42紙は、コンビニの袋を持ち直した。
透は、その姿を見ていた。
二人の間にある距離は、変わらない。
それでも、部屋の中には、先ほどまでとは少し違う沈黙が流れていた。
時計の針が静かに時を刻み、2時24分を指していた。
透は、その音を聞いていた。
そして、何も言わなかった。
――第二十一話・完――




