第20話「正しさの行方」
『42紙』
第20話「正しさの行方」
一 正しい対応
市役所の窓口には、朝から人が並んでいた。
書類を抱えた人。
番号札を握りしめた人。
何度も鞄の中を確かめている人。
三浦和也、四十八歳。
市役所に勤めて二十五年になる、真面目な職員だった。
和也は窓口に座ると、いつものように書類を一枚ずつ確認していった。
「こちらの申請ですが、必要な書類が一つ足りていません」
向かいに座っていた年配の女性が、困ったように顔を上げた。
「えっ……足りないんですか」
「はい。こちらの証明書が必要になります」
女性は鞄の中を探した。
財布を出し、手帳を出し、何度も同じ場所を確かめる。
やがて、申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。何度も来るのは大変で……。今日だけ、何とかなりませんかね」
和也は、女性の手元を見た。
使い込まれた鞄。
少し震える指。
困り果てた表情。
ここまで来るのも、簡単ではなかったのだろう。
何とかしてあげたい。
そう思わなかったわけではない。
しかし、必要な書類がそろっていない以上、受け付けることはできなかった。
「申し訳ありません。規則で定められている書類ですので、こちらでは例外として受け付けることができません」
女性はしばらく黙っていた。
「……そうですか」
小さく答え、書類を鞄にしまった。
「では、また来ます」
「お手数をおかけします。よろしくお願いいたします」
女性は立ち上がり、ゆっくりと窓口を離れていった。
和也は、その背中を見送った。
胸の奥に、何かが残った。
自分の対応は間違っていない。
決められた規則に従い、誰に対しても同じように対応した。
それなのに、最後まで困った顔をしていた女性の姿が、頭から離れなかった。
もう少し、何か言えたのではないか。
せめて、必要な書類をそろえる方法を、もっと丁寧に説明してあげられたのではないか。
そんな考えが浮かんだ。
けれど、和也はすぐに首を振った。
次の人が待っている。
いつまでも引きずっているわけにはいかなかった。
「お待たせいたしました。次の方、どうぞ」
いつもの声で、次の番号を呼んだ。
仕事は続いていく。
正しいことをしたはずなのに、気持ちはすっきりしなかった。
その小さな引っかかりを、和也は胸の奥にしまい込んだ。
二 いつものありがとう
その日の夕方、和也はいつもより少し早く帰宅した。
玄関を開けると、台所から妻の声がした。
「おかえりなさい」
「ただいま」
食卓には、和也の好きな料理が並んでいた。
「今日はあなたの好きなものにしたの。仕事、大変だったでしょう?」
「ありがとう」
和也は上着を脱ぎ、椅子に座った。
妻は、いつものように向かい側に座った。
長年連れ添った夫婦にとって、特別なことなど何もない。
食事をしながら、今日あったことを少し話す。
テレビの音を聞きながら、明日の天気を気にする。
食べ終われば、妻が食器を片づけ、和也が風呂に入る。
いつもと変わらない夜だった。
けれど、和也は昼間のことを思い出していた。
「あのさ」
「ん?」
「今日、役所におばあさんが来てな」
妻は、手を止めて和也を見た。
「おばあさん?」
「ああ。書類が一つ足りなくて、申請を受け付けられなかったんだ」
「そうだったの」
「何度も来るのは大変だから、今日だけ何とかならないかって言われたんだが……。規則があるから、断るしかなかった」
和也は、湯飲みを両手で包んだ。
「もちろん、俺の判断が間違っていたわけじゃない。勝手に例外を認めるわけにはいかないからな」
「うん」
「でも、帰るときの顔がな……。何か、もう少しできたんじゃないかと思って」
妻は、すぐには答えなかった。
和也は続けた。
「書類が必要だって説明するだけじゃなくて、どうすればいいか、もっと丁寧に教えてあげればよかった。規則を守ることばかり考えて、相手がどんな気持ちで来たのか、ちゃんと考えられていなかったのかもしれない」
「あなたは、いつも一生懸命に仕事をしているでしょう」
妻は静かに言った。
「だからこそ、気になったんじゃない?」
和也は顔を上げた。
妻は、責めるでもなく、慰めるでもなく、いつもの顔でそこにいた。
「そう……なのかな」
「そうだと思うよ」
妻は小さく笑った。
「困っている人に、何とかしてあげたいと思ったんでしょう?」
和也は、答えられなかった。
そうだったのかもしれない。
規則を守ることが大切だと信じてきた。
誰に対しても同じように接することが、公平なのだと思ってきた。
それは今も変わらない。
ただ、正しい対応をすることと、相手の気持ちを考えることは、必ずしも同じではない。
そのことを、今日、初めて強く感じたのかもしれなかった。
「……お前は、いつもそうだな」
「え?」
「俺が何か言うと、ちゃんと聞いてくれる」
妻は少し照れたように笑った。
「夫婦なんだから、当たり前でしょう」
当たり前。
和也は、その言葉を心の中で繰り返した。
妻がそばにいてくれること。
疲れて帰れば、いつもの声で迎えてくれること。
何でもない話を聞いてくれること。
それらを、ずっと当たり前のものとして受け取ってきた。
感謝していなかったわけではない。
毎日、ありがたいと思っていた。
けれど、思っているだけでは、相手には伝わらない。
昼間のおばあさんの顔が、また浮かんだ。
困っている人に、もう少し気持ちを寄せてあげればよかった。
そう思った自分が、いちばん身近にいる妻には、どれほど気持ちを伝えてきただろう。
「……そうだな」
和也は、ゆっくりとうなずいた。
その夜、風呂から上がった和也は、食器を片づけていた妻のそばに立った。
「なあ」
「ん?」
妻が振り返った。
和也は、今度こそ言おうと思った。
長い間、そばにいてくれてありがとう。
何でもない毎日を、一緒に過ごしてくれてありがとう。
当たり前だと思っていたことが、当たり前ではなかったと、今日、少し分かった気がする。
それを、ちゃんと言葉にしたかった。
「いつも……」
そこまで言って、言葉が止まった。
妻は不思議そうに和也を見た。
「どうしたの?」
「……いや」
和也は、困ったように笑った。
「明日、話すよ」
「そう? 分かった」
妻は、深く尋ねなかった。
二人には、明日もあると思っていたから。
和也は布団に入り、目を閉じた。
妻に伝えよう。
今度こそ、心から。
明日、ちゃんと言おう。
そう思いながら、和也は眠りについた。
その眠りは、深く、静かだった。
苦しみも、痛みもなかった。
そして、和也は二度と目を覚まさなかった。
三 四
和也が次に目を開けたとき、そこには白い空間が広がっていた。
壁も、天井も、床も、境目が分からない。
ただ、白い。
「……ここは?」
和也は周囲を見回した。
自分がどこにいるのか分からなかった。
そのとき、すぐ近くに一人の人間が立っていることに気づいた。
ごく普通の服を着た、どこにでもいそうな人物だった。
和也は戸惑いながら尋ねた。
「あなたは……?」
「42紙です」
「……42紙?」
「はい」
あまりにも普通の返事だった。
和也は、自分の手を見た。
痛みはない。
息苦しさもない。
眠る前に感じていた体の疲れも、どこにもなかった。
「私は……死んだんですか」
「はい」
和也は言葉を失った。
昨夜、布団に入ったことは覚えている。
妻に、ありがとうを言おうと思った。
明日も仕事があると思った。
その明日が、来なかった。
「……そうですか」
和也は、ようやくそれだけを口にした。
42紙は、二枚の白い紙を差し出した。
「一枚は4」
和也は紙を見つめた。
「もう一枚は2です」
「4と2……?」
「4なら幸福な死。2なら不幸な死です」
和也は、二枚の紙を見比べた。
どちらも同じ白い紙だった。
「どちらが4なんですか」
「分かりません」
「あなたにも?」
「はい」
和也は少し黙った。
「……自分で選ぶんですね」
「はい」
和也は、片方の紙に手を伸ばした。
特別な理由があったわけではない。
どちらが4なのか、見分ける方法もない。
ただ、選ばなければならなかった。
指先が紙に触れた。
やがて、白い紙の上に数字が浮かび上がった。
4。
和也は、その数字をじっと見つめた。
「……4」
「幸福な死です」
42紙が告げた。
和也はゆっくりと息を吐いた。
自分が死ぬとき、苦しんだ記憶はなかった。
痛みも、恐怖もない。
ただ、眠るように意識が途切れた。
その意味では、確かに安らかな死だったのだろう。
「そうですか……」
和也は静かに答えた。
しかし、すぐに妻の顔が浮かんだ。
昨日の夕食。
何でもない会話。
自分の話を、最後まで聞いてくれた妻。
「……私は、妻に」
和也は、言葉を探した。
「ありがとうと言えなかったんです」
42紙は黙っていた。
「いつも、感謝はしていたんです。長い間、一緒にいてくれたことも、何でもない毎日を過ごせたことも……」
和也は、手の中の紙を見た。
「でも、言葉にして伝えたことは、あまりなかった」
言えばよかった。
たった一言だった。
いつもありがとう。
その一言を伝えることが、どうしてあんなに難しかったのだろう。
「明日でいいと思っていました」
和也は、うつむいた。
「明日も、いつもと同じ朝が来ると思っていたんです」
声は静かだった。
泣いているわけではない。
ただ、もう二度と伝えられないという事実が、ゆっくりと胸に沈んでいった。
「……伝えたかったな」
42紙は、何も言わなかった。
和也の死は、安らかだった。
そのことに疑いはない。
4という結果も、変わらない。
けれど、心残りまで消えたわけではなかった。
和也は、紙に浮かぶ4を見つめ続けていた。
その数字は、和也の人生を褒めているわけでも、罰しているわけでもなかった。
ただ、和也が迎えた死を示していた。
そして、その死の向こう側に、伝えられなかった言葉が残っていた。
四 残された朝
翌朝。
妻は、いつもの時間に目を覚ました。
隣には、和也が眠っていた。
「あなた、朝よ」
返事はなかった。
妻は、もう少し近づいて声をかけた。
「ねえ、起きて」
和也は動かなかった。
疲れているのだろうか。
昨日も仕事だった。
もう少し眠らせてあげよう。
そう思いながら、妻は和也の肩に手を置いた。
「あなた?」
その手が触れた瞬間、妻は違和感を覚えた。
いつもと違う。
何かが違う。
「……あなた、ねえ」
何度呼んでも、返事はなかった。
妻は、和也の顔をのぞき込んだ。
眠っているように見えた。
苦しそうな顔ではなかった。
ただ、何も返してくれない。
「……嘘でしょう?」
妻の声が震えた。
「ねえ、起きてよ」
昨日まで、そこにいた人だった。
いつものように帰ってきて、食卓を囲み、何でもない話をしていた。
明日も、その続きがあると思っていた。
「あなた……」
妻は和也の手を握った。
何度も名前を呼んだ。
けれど、和也はもう目を覚まさなかった。
妻は、昨日の会話を思い返した。
和也は、役所に来たおばあさんの話をしていた。
困っている人を前にして、もっと何かできたのではないかと悩んでいた。
妻は、そんな和也の話を聞いた。
いつものように。
そして、最後に和也は言いかけた。
「いつも……」
何かを伝えようとしていた。
けれど、その先は聞けなかった。
「……何だったの?」
妻は、和也の手を握りしめた。
「何を言おうとしていたの……?」
答えはなかった。
妻の頬を、涙が伝った。
長い間、一緒に暮らしてきた。
特別なことがなくても、二人で食卓を囲み、明日の話をして、同じ家に帰ってきた。
そんな毎日が、これからも続くと思っていた。
もっと話したかった。
もっと一緒にいたかった。
聞きたいことも、伝えたいことも、まだたくさんあった。
それなのに。
「……あなた」
妻は、声を押し殺して泣いた。
和也は、苦しまずに眠るように死んだ。
それは、和也にとっての幸福な死だった。
けれど、妻にとっては、大切な人を突然失う悲しい出来事だった。
和也の死が安らかだったことと、妻が深く悲しんでいること。
その二つは、どちらも本当だった。
幸福な死だからといって、残された人まで幸福になるわけではない。
そして、残された人が悲しむからといって、和也の死が安らかだったという事実が変わるわけでもなかった。
五 正しさの行方
透の部屋は、静かだった。
スマートフォンの画面には、紗季とのメッセージが残っていた。
《もちろん。また明日》
透は、その文字を見つめていた。
来週の土曜日。
二人で海に行く約束をしていた。
紗季は、何を着ていこうかと楽しそうに話していた。
あの日の続きが、まだあるはずだった。
けれど、明日は来なかった。
透は画面を消した。
顔を上げると、部屋の向こうに42紙がいた。
いつからそこにいたのか、透には分からなかった。
42紙は、いつものようにコンビニの袋を持っていた。
透は何も言わなかった。
42紙も、すぐには口を開かなかった。
二人の間には、言葉にされないものがあった。
紗季の死。
透が抱え続けている怒り。
42紙が何も知らず、何もできなかったという事実。
分かっていることと、許せることは違う。
透は、それを忘れていなかった。
しばらくして、42紙が言った。
「今日、4を選んだ人がいました」
透の目が、わずかに動いた。
「……それを、俺に話すのか」
「はい」
「どうして」
42紙は、少し黙った。
「……分かりません」
透は、鼻で小さく息を吐いた。
「お前らしいな」
それ以上、言葉は続かなかった。
透はスマートフォンを机に置いた。
「その人は、どうして4を選んだ?」
「選んだ紙に、4が出ました」
「そういう意味じゃない」
透は、42紙を見た。
「その人は、幸福な死だったのか」
「はい」
「苦しまずに?」
「はい」
透は、少しの間、何も言わなかった。
それから、低い声で尋ねた。
「……その人は、死ぬ前に何か言っていたのか」
42紙は答えた。
「妻に、ありがとうと言えなかったと」
透の表情が変わった。
「ありがとう……?」
「はい」
「伝えたかったのに?」
「はい」
透は目を伏せた。
スマートフォンの画面は、もう暗くなっていた。
《もちろん。また明日》
紗季の言葉が、頭の中に浮かんだ。
明日が来ると思っていた。
次の約束があると思っていた。
だから、言葉を後回しにすることもある。
伝えたいことがあっても、明日でいいと思ってしまう。
和也も、そうだったのだろう。
「……その人は、苦しまずに死んだんだな」
「はい」
「じゃあ、4なんだな」
「はい」
透は、唇をかんだ。
「でも、その人がいなくなったら、残された人は悲しむだろ」
42紙は、答えなかった。
透は、顔を上げた。
「それでも、幸福な死なのか」
「死に方は、4です」
42紙は静かに答えた。
「残された人の悲しみとは、別です」
透は、その言葉を聞いても、すぐには何も言えなかった。
42紙を許したわけではない。
紗季の死を納得できたわけでもない。
けれど、今、目の前にある問いは、以前とは少し違っていた。
和也の死は、安らかだった。
妻は、深く悲しんでいた。
その二つは、同時に存在していた。
どちらか一方を間違いにしなくても、両方が本当なのだ。
透は、暗くなったスマートフォンを手に取った。
もう一度、紗季とのメッセージを開いた。
《もちろん。また明日》
透は画面を見つめたまま、つぶやいた。
「……明日が来るって、思うよな」
42紙は答えなかった。
透は、スマートフォンを机に置いた。
「俺だって、そう思ってた」
声が少し震えた。
「来週、一緒に海に行くんだって。何を着てくるんだろうって。そんなことを考えてたんだ」
透は42紙を見た。
「それが、なくなったんだ」
42紙は、何も言わなかった。
「お前が何も知らなかったことは分かってる。止められなかったことも分かってる」
透は、拳を握った。
「でも、分かることと、許せることは違う」
沈黙が落ちた。
42紙は、言い訳をしなかった。
透も、それ以上は責めなかった。
許し合ったわけではない。
二人の間にあるわだかまりは、まだ残っていた。
それでも、透の中で、ひとつの問いが形になり始めていた。
幸福な死とは、誰にとっての幸福なのだろう。
死んだ人の苦しみがなかったこと。
残された人の悲しみが消えること。
その二つは、同じではない。
透は、スマートフォンの画面をもう一度見た。
それから、画面を閉じた。
「……俺は、まだお前を許せない」
「はい」
42紙は、いつもの調子で答えた。
透は、その返事に何も言わなかった。
しばらくして、コンビニの袋がかすかに鳴った。
透は、そちらに目を向けた。
「……中身、何だよ」
「パンです」
「またか」
「はい」
透は小さく息を吐いた。
笑ったわけではなかった。
悲しみが消えたわけでもない。
ただ、和也の話を聞いたことで、胸の中にあった問いが、少しだけ形を変えた気がした。
そのとき。
カチリ。
壁の時計が、小さな音を立てた。
透は顔を上げた。
針は、2時23分を指していた。
針が、ほんのわずかに進んでいた。
透は時計を見つめたあと、もう一度スマートフォンを手に取った。
紗季の言葉は、そこに残っていた。
《もちろん。また明日》
透は、画面を閉じなかった。
答えは、まだ出ていない。
42紙を許すこともできない。
けれど、考えることをやめるつもりもなかった。
幸福な死とは、誰にとっての幸福なのだろう。
その問いを胸に残したまま、透は静かな部屋に座っていた。
――第二十話・完――




