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「42紙」(しにがみ)  作者: kiseki-ryu


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第17話「明日も、隣に」第2部

『42紙(しにがみ)』

第十七話 明日も、隣に

 仕事を終えた透は、いつものコンビニに立ち寄った。

 時計を見ると、午後九時を少し過ぎている。

 弁当の棚には、見慣れた商品が並んでいた。

  唐揚げ弁当。

  生姜焼き弁当。

  幕の内弁当。

 どれも、何度も食べたことがある。

 透はしばらく棚を眺めてから、ひとつの弁当を手に取った。

 レジに向かうと、紗季が顔を上げた。

「こんばんは、神谷さん」

「こんばんは」

「今日はそれなんですね」

 紗季は、透が持っている弁当を見た。

「……何か問題でも?」

「いえ。昨日とは違うなと思って」

「毎日チェックしてるのか?」

「チェックというほどじゃないですよ」

 紗季は楽しそうに笑った。

「でも、何を買うのかなって、ちょっと楽しみにしてます」

「弁当を?」

「はい」

「……ずいぶん地味な楽しみだな」

「いいじゃないですか。毎日の楽しみって、そういうものだと思います」

 透は返事をしなかった。

 ただ、少しだけ笑った。

 会計を済ませ、袋を受け取る。

「今日もお仕事、お疲れさまです」

「紗季さんも」

「ありがとうございます。気をつけて帰ってくださいね」

「はい。また」

「また来てくださいね」

 店を出ると、夜風が頬に触れた。

 いつもの帰り道。

 いつものコンビニ。

 いつもの弁当。

 その中に、少しずつ変わってきたものがある。

 明日も、あの店に寄ろう。

 そう思うようになったことだった。

     *

 それからも、透は仕事帰りにコンビニへ通った。

 紗季がレジにいる日は、少し話をした。

 今日は忙しかったのか。

 新しい商品が入ったのか。

 最近、急に寒くなっただとか、明日は雨らしいだとか。

 特別な話題があるわけではない。

 ほんの数分の、何でもない会話だった。

 それでも透は、店に入ると、ついレジのほうを見てしまうようになっていた。

 ある夜、透が弁当を持ってレジへ行くと、紗季は彼の顔を見て首を傾げた。

「神谷さん、少し疲れてませんか?」

「そうか?」

「はい。目の下、ちょっと」

「仕事が忙しかっただけだよ」

「ちゃんとご飯、食べてます?」

「今、買ってるだろ」

「そういう意味じゃなくて」

 紗季は困ったように笑った。

「疲れてるときこそ、おいしいもの食べてくださいね」

「……分かった」

「本当ですか?」

「本当、本当」

「じゃあ、信じます」

 そう言って、紗季はいつもの笑顔を見せた。

 透は袋を受け取ったあと、少しだけ振り返った。

 紗季は、もう次の客に対応していた。

 誰に対しても、きっとあんなふうに笑うのだろう。

 そう思うと、なぜか少しだけ落ち着かない気持ちになった。

 自分でも、その理由はよく分からなかった。

     *

 別の日。

 透がレジで会計をしていると、紗季がふと思い出したように尋ねた。

「神谷さんって、お休みの日は何をしてるんですか?」

「寝てる」

「それだけですか?」

「飯を食う」

「……それは、休みじゃなくてもしますよね」

「まあな」

 紗季は笑った。

「もったいないですよ。せっかくのお休みなのに」

「じゃあ、何をすればいいんだ?」

「映画とか、どうですか?」

「映画?」

「私、映画が好きなんです。映画館で観るのも好きだし、家でゆっくり観るのも好きです」

「そうなんだ」

「神谷さんは観ませんか?」

「たまには」

「じゃあ、今度何か観たら、感想を聞かせてください」

「感想?」

「はい。面白かったとか、つまらなかったとか」

「つまらなかったって言ってもいいのか?」

「もちろんです。人によって感じ方は違いますから」

 紗季は、少し考えてから付け加えた。

「私は面白かったのに、神谷さんはつまらなかったって言うかもしれませんね」

「十分ありそうだな」

「そのときは、どうしてそう思ったのか聞きたいです」

 透は、なんとなく返事に困った。

 映画の話をするために、次に会う理由ができた。

 それが、思っていたよりもうれしかったからだ。

「……分かった。何か観たら話すよ」

「約束ですよ」

 紗季は小指を立てた。

 透はその指を見つめた。

「……子供じゃないんだから」

「いいじゃないですか」

「分かったよ」

 透は苦笑しながら、小指を絡めた。

 ほんの一瞬だった。

 指を離すと、紗季は満足そうに笑った。

「約束です」

「はいはい」

「はいは一回です」

「……はい」

 紗季は声を立てて笑った。

 透も、つられて笑った。

 店内には、いつもの明るい照明があった。

 冷蔵ケースの音がして、入口の自動ドアが開いた。

 何も変わらない、いつものコンビニだった。

 ただ透にとっては、その夜が少しだけ特別なものになった。

     *

 それから数日後。

 透がいつものように店を訪れると、紗季がレジの向こうから声をかけた。

「神谷さん」

「はい?」

「この前の映画の話、覚えてますか?」

「……ああ。まだ観てないけど」

「実は、今週末から面白そうな映画が始まるんです」

 紗季は少しだけ言いにくそうに、指先を組んだ。

「もしよかったら……一緒に観に行きませんか?」

 透は、すぐには答えられなかった。

「……俺と?」

「はい」

「映画を?」

「映画を、です」

「……いや、それは分かってるけど」

 紗季は頬を少し赤くしながら笑った。

「神谷さんと、もう少しお話ししてみたいなって思って」

 透は、手に持った弁当を見た。

 それから、紗季の顔を見た。

 断る理由はなかった。

 むしろ、誘ってもらえたことがうれしかった。

 ただ、それをどう言葉にすればいいのかが分からなかった。

「……いいよ」

「本当ですか?」

「うん。俺も、行ってみたい」

 紗季の顔が、ぱっと明るくなった。

「よかった!」

 その笑顔を見た瞬間、透は自分が思っていた以上に、この人の笑顔を好きになっているのかもしれないと思った。

 会計を終えると、二人は連絡先を交換した。

「じゃあ、あとで時間とか送りますね」

「分かった」

「楽しみです」

「……俺も」

 店を出た透は、スマートフォンを何度も確認した。

 まだ何も届いていない。

 それなのに、画面を見るたび、少し落ち着かない。

 自分がこんなふうになるとは思っていなかった。

 透は小さく息を吐いた。

「……何やってんだ、俺」

 そう呟きながらも、口元は緩んでいた。

     *

 約束の日。

 透は待ち合わせ場所に、予定より少し早く着いた。

 映画館の前には、休日を楽しむ人たちが行き交っていた。

 家族連れ。

 友人同士。

 恋人らしい二人組。

 透はスマートフォンを見た。

 待ち合わせの時間まで、まだ五分ある。

 そのとき、向こうから紗季が歩いてくるのが見えた。

「神谷さん!」

 紗季は小さく手を振った。

「ごめんなさい、待ちました?」

「いや、今来たところ」

「よかった」

 紗季はほっとしたように笑った。

 店の制服ではない紗季を見るのは、初めてだった。

 少し雰囲気が違う。

 けれど、笑顔はいつもと同じだった。

「……何ですか?」

「いや」

「何か変ですか?」

「いや、そうじゃなくて」

 透は少し困ったように頭をかいた。

「いつもと違うなと思って」

 紗季は目を丸くしたあと、頬を赤くした。

「……そういうこと、急に言うんですね」

「悪かったな」

「悪くないです」

 紗季は視線をそらし、それから小さく笑った。

「ありがとうございます」

 二人はチケットを買い、映画を観た。

 上映中、透は何度か隣を意識した。

 紗季が笑う場面。

 驚く場面。

 物語に見入っている横顔。

 映画の内容だけでなく、隣に紗季がいることそのものが、透にとって新鮮だった。

 上映が終わると、二人は近くの店に入った。

 飲み物を前に、紗季が身を乗り出した。

「どうでした?」

「……面白かったよ」

「本当ですか?」

「うん。最後は、ちょっと意外だった」

「ですよね! 私もあそこはびっくりしました」

 紗季は楽しそうに感想を話した。

 透も、自分が感じたことを話した。

 普段なら、映画を観たあとに誰かと感想を語り合うことなどなかった。

 面白かったと思えば、それで終わりだった。

 でも今日は違った。

 自分が面白いと思ったところを、紗季も面白いと思ってくれた。

 違うところでは、紗季がどうしてそう感じたのかを聞くことができた。

 それが、思っていた以上に楽しかった。

「また一緒に観たいですね」

 紗季が言った。

「……そうだな」

「次は、私が選んでもいいですか?」

「今回も紗季さんが選んだだろ」

「じゃあ、次も私が選びます」

「……人の話を聞いてるか?」

 紗季は笑った。

 透も笑った。

 その日は、映画を観ただけでは終わらなかった。

 帰り道に少し歩き、途中で見つけた店に寄り、夕食を一緒に食べた。

 別れ際、紗季が言った。

「今日は、ありがとうございました」

「こちらこそ」

「また、行きましょうね」

「うん。また行こう」

 駅へ向かう紗季の背中を見送りながら、透は思った。

 また会いたい。

 次は何を話そう。

 次はどこへ行こう。

 そんなことを考える自分が、少し不思議だった。

 けれど、不思議だからといって、嫌な気持ちはしなかった。

     *

 それから二人は、何度か一緒に出かけるようになった。

 映画を観た。

 食事をした。

 休日の街を歩いた。

 特別な場所へ行ったわけではない。

 有名な観光地に出かけたわけでもなかった。

 ただ、二人で同じ時間を過ごした。

 紗季は、よく笑った。

 透の話が面白いときには声を立てて笑い、面白くないときには遠慮なくそう言った。

「それ、全然面白くないです」

「……ひどいな」

「だって、本当ですから」

「もう話さないぞ」

「それは困ります」

「どっちだよ」

 そんなやり取りをするたび、透は少しずつ、自分が自然体でいられることに気づいていった。

 無理に話題を探さなくてもいい。

 格好をつけなくてもいい。

 黙っている時間があっても、気まずくならない。

 紗季と一緒にいると、そういう時間が増えていった。

 ある日、二人で食事をしていたとき、紗季が箸を置いた。

「神谷さんって、最初に会ったときと少し変わりましたね」

「そうか?」

「はい」

「どう変わったんだ?」

「最初は、もっと話しかけにくい人なのかなって思ってました」

「……それは、よく言われる」

「でも、話してみたら、ちゃんと冗談も言うし、優しいところもあるし」

「優しい?」

 透は、少し困ったように笑った。

「俺、そんなに優しくないと思うけど」

「自分では分からないものですよ」

 紗季はそう言って、また笑った。

 透は、その顔を見つめた。

 この人といる時間が、好きだった。

 会えない日には、何をしているのか気になった。

 何か面白いことがあれば、紗季に話したくなった。

 仕事で嫌なことがあった日も、紗季と話せば、少しだけ気持ちが軽くなった。

 いつの間にか、透の日常には、紗季がいることが当たり前になり始めていた。

 そして、ある日。

 透は、紗季に伝えようと決めた。

     *

 その日は、夕方から二人で食事をしていた。

 食事を終えたあと、二人は駅までの道をゆっくり歩いた。

 話題は、いつもと変わらなかった。

 仕事のこと。

 最近観た映画のこと。

 次の休みに何をしようかということ。

 けれど透は、話をしながら、ずっと心の中で言葉を探していた。

 紗季が隣を歩いている。

 今なら、言えるかもしれない。

 そう思うたび、口を開くことができなくなった。

「神谷さん?」

「……ん?」

「どうしました?」

「いや……」

 透は立ち止まった。

 紗季も足を止め、彼を見た。

「紗季さん」

「はい」

「……俺、紗季さんと一緒にいるのが、すごく楽しいんだ」

 紗季は、黙って聞いていた。

「会える日が楽しみだし、話してると、もっと一緒にいたいと思う」

 透は、少しだけ息を吸った。

「だから……」

 言葉が途切れた。

 格好のいい言い方など、思いつかなかった。

 気の利いた言葉も出てこなかった。

 それでも、伝えたかった。

「好きです。よかったら、俺と付き合ってください」

 紗季は、目を丸くした。

 透は、返事を待った。

 ほんの数秒だったのかもしれない。

 けれど、その時間はずいぶん長く感じられた。

 やがて紗季は、顔を赤くして笑った。

「……はい」

「……え?」

「私も、神谷さんのことが好きです」

 透は、しばらく言葉が出なかった。

「本当?」

「本当です」

「……よかった」

 思わず出た言葉に、紗季が笑った。

「それだけですか?」

「いや、ほかにも何か言おうと思ってたんだけど……」

「忘れちゃったんですか?」

「……たぶん」

「もう」

 紗季は笑いながら、透の手をそっと握った。

 透も、その手を握り返した。

 紗季の手は温かかった。

 ただ、それだけのことだった。

 それなのに、透は胸の奥がいっぱいになるのを感じた。

「……これからも、よろしく」

 透が言うと、紗季はうれしそうに頷いた。

「こちらこそ。よろしくお願いします、透さん」

 透は、少し驚いた。

「……今、何て?」

「透さん、です」

「……初めて呼ばれた」

「これからは、そう呼んでもいいですか?」

「……うん」

 透は、握った手に少しだけ力を込めた。

「俺も……紗季って呼んでいい?」

 紗季は、はにかみながら頷いた。

「はい」

「……紗季」

「はい、透さん」

 二人は顔を見合わせた。

 どちらからともなく、笑った。

 帰り道は、いつもと同じ道だった。

 街灯があり、車が走り、店の明かりが見えた。

 何かが大きく変わったわけではない。

 それでも、二人の間には、今までなかったものが生まれていた。

 透は、紗季の手を握ったまま歩いた。

 離したくないと思った。

 この時間が、ずっと続けばいいと思った。

 その願いに、何か特別な理由があるわけではなかった。

 ただ、そう思った。

     *

 その夜。

 透が部屋に帰ると、42紙がいた。

 コンビニの袋を手に提げ、テーブルのそばに座っている。

「……おかえりなさい」

「ここ、俺の部屋なんだけど」

「知ってます」

「なんでいるんだよ」

「死神なんで」

「その理屈、便利すぎない?」

 42紙は、袋からプリンを取り出した。

「まあまあ」

「まあまあじゃないだろ……」

 透は上着を脱ぎながら、深く息を吐いた。

 もう驚くのにも疲れていた。

「……今日は、何かいいことでもあったんですか?」

 42紙が尋ねた。

「……何で?」

「顔が違います」

「そんなに分かるか?」

「さあ」

「さあ、って……」

 42紙はプリンの蓋を開けた。

 透は少し迷ってから、口を開いた。

「……俺、付き合うことになったんだ」

「誰とですか?」

「紗季と」

「そうですか」

 42紙は、ひと口プリンを食べた。

「よかったですね」

「……それだけ?」

「ほかに何か?」

「いや、もっとこう……驚くとか」

「驚いたほうがいいですか?」

「そういう話じゃないんだけど」

「では、よかったですね」

「繰り返すなよ」

 42紙は、少しだけ笑った。

 透も、つられて笑った。

「……誰かと一緒にいるって、いいもんだな」

 透は、椅子に座りながら言った。

 42紙は、特に表情を変えなかった。

「そうですか」

「そうだよ」

「一緒にいて楽しいなら、楽しいんでしょうし」

「……お前、もう少し何かないのか?」

「何か、とは?」

「……いや、いい」

 42紙はプリンを食べ終え、空になった容器を袋に戻した。

「なら、いいんじゃないですか」

 透は、少し笑った。

「……お前って、本当に分かりにくいな」

「そうですか?」

「そうだよ」

「まあまあ」

「それ、気に入ってるだろ」

「便利なので」

「認めるなよ」

 42紙は、いつものように小さく笑った。

 透は、その姿を見ながら思った。

 紗季と出会ってから、日常が少しずつ変わってきた。

 仕事帰りに寄るコンビニ。

 弁当を選ぶ時間。

 誰かと話すこと。

 明日の予定を考えること。

 どれも、特別なことではない。

 けれど今は、そのひとつひとつが以前よりも楽しみになっていた。

「……では、お幸せに」

 42紙が言った。

 透は思わず顔を上げた。

「お前が言うと、何か変だな」

「そうですか?」

「急に、ものすごく普通のことを言うから」

「普通のことを言ってはいけないんですか?」

「いや、そうじゃないけど……」

 透は少し考えた。

「……ありがとう」

 42紙は、ほんのわずかに首を傾げた。

「どういたしまして」

 それから立ち上がり、コンビニの袋を手に取った。

「じゃあ、俺は帰ります」

「……最初から帰ってくれればいいんだけど」

「そうですね」

「分かってるなら、次からは勝手に入るなよ」

「検討します」

「絶対しないやつだろ、それ」

 42紙は玄関へ向かった。

 透は、その背中を見送った。

 ドアが閉まる。

 部屋は静かになった。

 透はスマートフォンを手に取った。

 紗季からメッセージが届いていた。

 《今日はありがとうございました。とっても楽しかったです》

 透は、すぐに返信した。

 《俺も楽しかった。また会おう》

 少しして、返事が届いた。

 《はい。楽しみにしています、透さん》

 透は、その文字をしばらく見つめていた。

 そして、小さく笑った。

 明日も仕事がある。

 帰りには、またコンビニに寄るだろう。

 紗季に会えるかもしれない。

 そんな明日が、楽しみだった。

     *

 恋人になってからも、二人の日常は大きく変わらなかった。

 透は仕事へ行き、帰りにコンビニへ寄る。

 紗季はレジで彼を見つけると、いつものように笑った。

 ただ、二人の間には、小さな変化が増えていった。

 会計のとき、ほかの客には聞こえないくらいの声で、次の休みの予定を話す。

 帰宅したあと、短いメッセージを送り合う。

 仕事で疲れた日には、互いに「お疲れさま」と伝える。

 それだけで、少し気持ちが軽くなった。

 ある晩、透が帰宅してスマートフォンを見ると、紗季からメッセージが届いていた。

 《今日、新しいお菓子を見つけました》

 写真には、小さな袋のお菓子が写っていた。

 《透さん、こういうの好きそうだなと思って》

 透は画面を見て笑った。

 《よく分かったな》

 《何となくです》

 《何となくで決めるなよ》

 《じゃあ、今度買っておきますね》

 《いや、そこまではいいよ》

 《遠慮しなくていいんですよ》

 透は、少し考えてから返信した。

 《じゃあ、今度一緒に食べよう》

 すぐに返事が届いた。

 《はい! 約束です》

 透は、スマートフォンを置いた。

 今度。

 また。

 明日。

 最近、そんな言葉をよく使うようになった。

 そして、その言葉を口にするたび、当たり前のように未来が続いていくと思っていた。

     *

 ある休日、二人は少し遠くまで歩いた。

 目的地を決めていたわけではない。

 昼食を食べて、店を出て、気の向くままに歩いていた。

 小さな公園のそばを通りかかったとき、紗季が足を止めた。

「ここ、気持ちいいですね」

 木々の間から、午後の日差しが差し込んでいた。

「そうだな」

「もう少し暖かくなったら、もっと気持ちよさそう」

「そのころ、また来るか?」

 透が何気なく言うと、紗季はうれしそうに振り返った。

「いいんですか?」

「別に、いいだろ」

「じゃあ、来ましょう」

 紗季は、透の手を握った。

 その手を、透も握り返した。

 公園のベンチに座り、しばらく話をした。

 仕事のこと。

 子供のころに好きだったもの。

 いつか行ってみたい場所。

「私、海を見に行きたいです」

 紗季が言った。

「海?」

「はい。ゆっくり海を眺めて、おいしいものを食べて、帰ってくるんです」

「それなら日帰りでも行けそうだな」

「本当ですか?」

「うん。休みが合えば」

 紗季は、手を握ったまま頷いた。

「じゃあ、いつか行きましょうね」

「……ああ。約束」

「約束です」

 紗季は笑った。

 透は、その笑顔を見た。

 いつか。

 その言葉に、期限はなかった。

 来月かもしれない。

 季節が変わってからかもしれない。

 急ぐ必要はなかった。

 二人には、これから先の時間があると思っていた。

     *

 その日の帰り、二人は一本の傘に入って駅へ向かった。

 途中で雨が降り始めたのだ。

 傘は少し小さく、肩が触れるくらいの距離だった。

「透さん、もう少しこっちに入ってください」

「紗季が濡れるだろ」

「私は大丈夫です」

「大丈夫じゃないだろ」

 透が傘を紗季のほうへ傾けると、今度は透の肩が濡れた。

 紗季はそれに気づいて、傘を押し戻した。

「ほら、透さんが濡れてます」

「いいよ、これくらい」

「よくないです」

「じゃあ、どうすればいいんだよ」

 紗季は少し考えた。

「……二人で、もう少し近づけばいいんじゃないですか?」

 透は、一瞬黙った。

 紗季も、自分で言った言葉に気づいたのか、頬を赤くした。

「……そうですね」

 透は小さく笑った。

「それが一番いいかもな」

 二人は肩を寄せ合って歩いた。

 雨の音が傘を叩いていた。

 駅に着くころには、二人とも少しだけ濡れていた。

 それでも、紗季は楽しそうだった。

「また、こうして帰りたいですね」

「雨の日に?」

「はい。雨の日も、悪くないです」

 透は頷いた。

「……そうだな」

 雨が止んでも、また傘を持って出かけよう。

 そんなことを考えながら、透は紗季の手を握った。

     *

 そして、何度目かの約束の日。

 仕事を終えた透は、紗季と待ち合わせて夕食を食べた。

 店を出ると、夜の空気は少し冷たかった。

「次の休み、いつですか?」

 紗季が尋ねた。

「来週の土曜なら休めそうだよ」

「本当ですか? 私も休みです」

「じゃあ、海に行くか?」

 紗季の顔が明るくなった。

「いいんですか?」

「前から約束してただろ」

「はい。覚えててくれたんですね」

「そりゃ覚えてるよ」

 紗季は、うれしそうに笑った。

「何を着ていこうかな」

「まだ一週間あるぞ」

「一週間しかないです」

「そういうものか?」

「そういうものです」

 透は笑った。

「じゃあ、俺も何か考えておくよ」

「楽しみにしてますね」

 駅へ向かう途中、紗季がそっと手を握った。

「透さん」

「ん?」

「これからも、ずっと一緒にいたいです」

 透は、足を止めた。

 紗季は真剣な顔をしていた。

 それから、少し恥ずかしそうに笑った。

「……なんて、急に言ったら困りますよね」

「いや」

 透は、握られた手を握り返した。

「俺も、そう思ってる」

 紗季の表情が、ゆっくりと明るくなった。

「本当ですか?」

「うん」

「……よかった」

 二人は、しばらく手をつないで歩いた。

 駅に着くと、別々の改札へ向かう前に、紗季が言った。

「じゃあ、また明日」

「うん。また明日」

「おやすみなさい、透さん」

「おやすみ、紗季」

 紗季は手を振り、改札の向こうへ歩いていった。

 透は、その姿が見えなくなるまで立っていた。

 また明日。

 その言葉は、いつもと同じだった。

 明日も会える。

 来週には海へ行く。

 その先にも、きっといろいろな予定ができる。

 透はそう思いながら、家路についた。

     *

 翌日。

 仕事を終えた透は、いつものコンビニに立ち寄った。

 弁当の棚の前で少し迷っていると、レジから紗季が声をかけた。

「透さん、今日はこっちがおすすめです」

 紗季が指さしたのは、いつもとは違う弁当だった。

「……何で?」

「昨日、新しく入ったんです。おいしそうですよ」

「紗季が言うなら、それにするか」

 そう言って弁当を手に取ると、紗季はうれしそうに笑った。

「ありがとうございます。感想、聞かせてくださいね」

「分かった」

 会計を済ませ、袋を受け取る。

「じゃあ、また明日」

 透が言うと、紗季はいつもの笑顔で頷いた。

「はい。また明日」

 透は店を出た。

 その背中を見送り、紗季は次の客を迎えた。

 いつもと変わらない夜だった。

     *

 仕事を終えた紗季は、着替えて店を出た。

 外は、少し冷えていた。

 紗季は上着の前を合わせ、スマートフォンを取り出した。

 透からメッセージが届いていた。

 《今日の弁当、おいしかったよ。おすすめありがとう》

 紗季は思わず笑った。

 《よかったです! またおすすめしますね》

 少し迷ってから、もう一度文字を打った。

 《明日も会えますか?》

 送信して、すぐに恥ずかしくなった。

 毎日会っているのに、何を聞いているんだろう。

 紗季は小さく笑い、スマートフォンをしまおうとした。

 そのとき、返事が届いた。

 《もちろん。また明日》

 紗季は、画面を見つめた。

 たったそれだけの言葉なのに、胸の奥が温かくなった。

「……よかった」

 小さく呟いて、スマートフォンをしまう。

 明日は何を話そう。

 海に行ったら、何を食べよう。

 どんな服を着ていこう。

 そんなことを考えながら、紗季は帰り道を歩いた。

 道沿いの店は、いくつか明かりを落としていた。

 車が通り過ぎる。

 信号が変わる。

 歩道を、家路につく人たちが行き交っていた。

 紗季は横断歩道の手前で立ち止まり、信号を確かめた。

 青になった。

 歩き出す。

 頭の中では、まだ明日のことを考えていた。

 透は海が好きだろうか。

 海を見たら、どんな顔をするだろう。

 帰りには、何かお土産を買おう。

 また一緒に来たいと言ってくれるだろうか。

 考えるだけで、自然と笑顔になった。

 そのときだった。

 頭上で、金属が軋む音がした。

 古い建物の外壁に取り付けられていた看板が、固定具の緩みで傾いていた。

 音に気づいた通行人が顔を上げる。

 看板が、ゆっくりと傾いた。

 そして、一瞬のうちに落下した。

 紗季がそれに気づいたときには、もう――間に合わなかった。


――第十七話・完――




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