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「42紙」(しにがみ)  作者: kiseki-ryu


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第16話「いつもの場所」第1部

第十六話 いつもの場所

 透が会社を出るのは、たいてい夜の九時を過ぎてからだった。

 駅まで歩き、電車に乗り、いつもの駅で降りる。

 それから家に帰る途中のコンビニに寄る。

 特別な理由があるわけではない。

 ただ、家に帰ってから食事を作る気力がない。それだけだった。

 その日も、透は自動ドアをくぐり、弁当の並ぶ棚の前で立ち止まった。

 唐揚げ弁当。

 生姜焼き弁当。

 幕の内弁当。

 毎日見ていると、どれも同じように見えてくる。

「……今日は何にするかな」

 小さく呟いて、結局、唐揚げ弁当を手に取った。

 レジには、見覚えのない店員が立っていた。

 いや、正確には見覚えがないわけではない。

 何度か見かけたことはある。

 明るい声で挨拶をして、客が帰るときには必ず「ありがとうございました」と笑顔で言う。

 そんな店員だった。

「いらっしゃいませ」

 彼女は、透の弁当を受け取った。

 バーコードを読み取りながら、ふと顔を上げる。

「あっ」

「……はい?」

「昨日も、唐揚げ弁当でしたよね?」

 透は一瞬、返事に困った。

「……覚えてるんですか?」

「覚えてますよ。昨日も、その前も見た気がします」

「そんなに唐揚げばかり食べてました?」

「少なくとも、私が見ているときは」

「それは……なんか、恥ずかしいですね」

 彼女は楽しそうに笑った。

「別にいいじゃないですか。好きなんですよね、唐揚げ」

「嫌いじゃないです」

「じゃあ、好きなんですよ」

「その二つの間には、結構な距離があると思うんですけど」

「そうですか?」

「そうです」

 彼女は、また笑った。

 その笑い方が妙に自然で、透もつられて少し笑った。

「温めますか?」

「お願いします」

「かしこまりました」

 電子レンジが動き始める。

 店内には、控えめな音楽が流れていた。

 深夜に近い時間帯で、客は少ない。

 透はレジの横に置かれた新商品のお菓子を眺めながら、何となく口を開いた。

「……ちなみに、明日違う弁当を買ったら、分かります?」

「分かりますよ」

「即答ですね」

「だって、いつも同じなんですもん」

「じゃあ、明日は違うのにします」

「楽しみにしてます」

 何が楽しみなのかは、よく分からなかった。

 けれど、電子レンジから弁当を取り出してもらうころには、透の気分は来たときより少しだけ軽くなっていた。

「ありがとうございました。またお越しください」

 店を出ると、夜風が頬に当たった。

 手には、温かい弁当がある。

 それだけのことだった。

 それだけなのに、帰り道で透は、明日は何を買おうかと考えていた。

     *

 翌日の夜。

 透は、弁当の棚の前でしばらく悩んだ。

 昨日、違うものを買うと言った手前、唐揚げ弁当を選ぶのは何となく気が引ける。

 別に、約束したわけでもないのだが。

「……何やってるんだ、俺は」

 誰に聞かせるでもなく呟き、生姜焼き弁当を手に取った。

 レジに向かうと、昨日の店員がいた。

「あっ、今日は違いますね!」

「……本当に見てたんですね」

「はい。生姜焼きですね」

「何だか、弁当のことで知らない人に管理されてる気分です」

「管理はしてませんよ。ちょっと覚えてるだけです」

「その、ちょっとが怖いんですけど」

「じゃあ、明日は忘れるようにします」

「それはそれで、なんか寂しいですね」

 言ってから、透は自分の言葉に少し驚いた。

 店員も一瞬きょとんとして、それから笑った。

「じゃあ、覚えておきますね」

「……お願いします」

 弁当を温めてもらい、会計を済ませる。

 袋を受け取るとき、彼女が言った。

「今日もお仕事、お疲れさまです」

 透は顔を上げた。

 何気ない言葉だった。

 店員なら、客にそう声をかけることもあるだろう。

 それでも、仕事帰りに誰かからそんな言葉をかけられることは、思っていたより少なかった。

「……ありがとうございます」

 透は、いつもより少し丁寧に頭を下げた。

 店を出てからも、その言葉がしばらく耳に残っていた。

     *

 それから、何日かが過ぎた。

 透は相変わらず仕事をして、帰りにコンビニへ寄った。

 彼女がレジにいる日もあれば、いない日もあった。

 いる日は、少し話をした。

 新商品の弁当が思ったよりおいしかったこと。

 逆に、期待して買ったお菓子がそれほどでもなかったこと。

 天気のこと。

 仕事が忙しかったこと。

 どれも、わざわざ誰かに話すほどのことではない。

 けれど、彼女はそんな話にも、ちゃんと返事をしてくれた。

「それ、私も食べました。おいしかったですよね」

「えっ、あのお菓子ですか? 俺は普通でしたけど」

「えーっ、そうですか?」

「味の好みが違うんでしょうね」

「じゃあ、次は私がおすすめを教えます」

「コンビニの商品に、そんなに自信があるんですか?」

「あります!」

 彼女は胸を張った。

「……そこまで言われると、ちょっと楽しみですね」

 そんな会話をしているうちに、透は彼女の顔を見ると、自然に挨拶をするようになっていた。

 彼女のほうも、透が店に入ると気づいて声をかけることがあった。

 もちろん、彼女は仕事中だ。

 長話をするわけではない。

 会話はいつも、ほんの数分で終わった。

 それでも、透にとっては、仕事から家へ帰るまでの時間に、小さな楽しみができていた。

     *

 ある夜、透がレジに弁当を置くと、彼女は少し心配そうに顔を覗き込んだ。

「……大丈夫ですか?」

「え?」

「何だか、すごく疲れてません?」

「まあ、仕事がちょっと忙しくて」

「ちゃんと寝てます?」

「寝てますよ。一応」

「一応って……」

 彼女は困ったように笑った。

「無理しないでくださいね」

「ありがとうございます。でも、働かないと生活できないですから」

「それはそうですけど」

 彼女は弁当を袋に入れながら、少し考えた。

「じゃあ、せめて今日は、おいしいものを食べてください」

「……この弁当でですか?」

「いいじゃないですか。おいしそうですよ」

「まだ食べてないのに?」

「見た目は大事です」

「ずいぶん説得力があるような、ないような」

「あります!」

 また胸を張る。

 透は、思わず笑った。

「分かりました。今日は、よく味わって食べます」

「はい。そうしてください」

 袋を受け取り、店を出る。

 夜道を歩きながら、透は少し考えた。

 彼女は、どうしてあんなに気軽に人を気遣えるのだろう。

 特別なことを言っているわけではない。

 励まそうとして、大げさな言葉をかけるわけでもない。

 ただ、疲れていることに気づいて、無理をしないようにと言う。

 それだけだ。

 それだけのことを、彼女は当たり前のようにしていた。

 透は、手に提げた袋を見た。

「……今日は、ちゃんと味わうか」

 そう呟いて、家路を急いだ。

     *

 その夜。

 透が部屋のドアを開けると、見慣れた姿があった。

 42紙が、部屋の中にいた。

 テーブルのそばに座り、コンビニの袋を置いている。

「……また勝手に入ってきたな」

「まあまあ」

「まあまあじゃないだろ」

「死神でも玄関は開けてもらわないと」

「じゃあ、開けてもらってから入れよ」

「そうですね」

 42紙は、悪びれる様子もなく答えた。

 透はため息をつき、買ってきた弁当をテーブルに置いた。

「……何食べてるんだ?」

「おにぎりです」

「見れば分かる」

「じゃあ、聞かなくてもよかったんじゃないですかね」

「お前な……」

 42紙は、袋からプリンを取り出した。

「食後に食べようと思って」

「自由だな、お前は」

「そうですか?」

「そうだよ」

 透は椅子に座った。

 42紙がいること自体には、もう驚かなくなっていた。

 もちろん、勝手に部屋へ入ってくることを認めたわけではない。

 ただ、いちいち驚いていたら疲れる。

 それだけだ。

「……そういえばさ」

「はい」

「最近、コンビニの店員と話すようになったんだ」

 42紙は、おにぎりを持ったまま透を見た。

「ほう」

「……何だよ、その反応」

「いえ。珍しいなと思いまして」

「俺だって、店員とくらい話すだろ」

「そうですね」

「何か納得してないだろ」

「そんなことはないです」

 42紙は、ひと口おにぎりを食べた。

「どんな方なんですか?」

「明るい人だよ。よく笑うし、何でもない話でも楽しそうに聞いてくれる」

「それは、いいことですね」

「……ああ」

 透は、少しだけ表情を緩めた。

「名前、紗季っていうんだ」

「顔は、見たことがありますね」

「お前も、あの店に行くもんな」

「えぇ。よく行きますから」

「この前なんか、俺がいつも同じ弁当を買ってるって覚えられててさ」

「覚えられていたんですか」

「そうなんだよ。昨日と違う弁当にしたら、すぐ気づかれた」

「……よほど、唐揚げ弁当が好きなんですね」

「好きっていうか、選ぶのが面倒なだけだよ」

「なるほど。深い理由があるわけではないんですね」

「ないよ」

 42紙は、少し考えた。

「でも、明日から選ぶ楽しみができましたね」

「……まあ、そうかもしれない」

「よかったですね」

 あまりにも普通の言い方だったので、透は返事に困った。

「……お前、そういうことも言うんだな」

「どういうことですか?」

「いや……何でもない」

 42紙は、それ以上尋ねなかった。

 袋の中からプリンを取り出し、蓋を開けている。

 透は弁当の蓋を開けた。

 生姜焼きの匂いが広がる。

「……明日は、何を買おうかな」

 思わず口にすると、42紙が顔を上げた。

「もう明日の話ですか」

「別にいいだろ」

「えぇ。いいと思います」

 42紙はプリンをひと口食べた。

「……明日は、プリンにしようかな」

「お前は毎回プリン食べてるだろ」

「毎回ではないです」

「この前も食べてた」

「この前はこの前です」

「何だ、その理屈」

「死神なんで」

「その理屈、便利すぎない?」

 42紙は、少し笑った。

「まあまあ」

 透も、つられて笑った。

     *

 翌日。

 仕事を終えた透は、いつものコンビニへ向かった。

 弁当の棚の前で、少し迷う。

 昨日は生姜焼きだった。

 その前は、たしか幕の内弁当だった。

 唐揚げ弁当に戻るのも悪くない。

 そんなことを真剣に考えている自分が、少しおかしかった。

「……本当に何やってるんだ、俺は」

 結局、今日は焼き魚の弁当を手に取った。

 レジには紗季がいた。

「あっ、今日は焼き魚ですね」

「……もう何も言いません」

「えっ、どうしてですか?」

「何を選んでも、すぐ分かるんですね」

「だって、楽しみにしてるって言ったじゃないですか」

「いや、確かに言いましたけど」

「今日は焼き魚。明日は何でしょう?」

 紗季は、楽しそうに笑った。

 透は、少し考えるふりをした。

「……秘密です」

「えーっ、教えてくださいよ」

「明日のお楽しみです」

「あっ、そういうこと言うんですね」

「たまにはいいでしょう」

「じゃあ、明日も来てくださいね」

 紗季は、いつもの笑顔でそう言った。

 透は、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。

 明日も来てください。

 店員が客に向ける、何気ないひと言。

 そこに特別な意味があるわけではない。

 それでも。

「……はい。また来ます」

 透は、そう答えた。

 会計を済ませ、袋を受け取る。

「ありがとうございました。お仕事、お疲れさまです」

「紗季さんも、お疲れさまです」

 口にしてから、透は少し驚いた。

 今まで、名前で呼んだことはなかった。

 紗季も一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに笑った。

「ありがとうございます。神谷さんも、気をつけて帰ってくださいね」

 神谷さん。

 自分の名前を呼ばれただけなのに、いつもと少し違って聞こえた。

 透は軽く頭を下げ、店を出た。

 外は、いつもと変わらない夜だった。

 車が通り過ぎ、信号が変わり、遠くで誰かの話し声が聞こえる。

 何も変わっていない。

 明日も仕事がある。

 帰りには、またこのコンビニに寄るだろう。

 紗季がレジにいるかどうかは分からない。

 それでも、透は明日の帰り道を少しだけ楽しみにしていた。

 誰かと話すこと。

 今日あった、たいしたことのない出来事を聞いてもらうこと。

 相手の話を聞いて、少し笑うこと。

 そんな時間が、自分の日常に加わっていた。

 家に帰れば、いつもの部屋がある。

 いつもの食事がある。

 そして、時々、勝手に入り込んでくる死神もいる。

 何もかもが、急に変わったわけではない。

 ただ、帰り道にひとつ、楽しみができた。

 それだけだった。

 透は、手に提げた袋を持ち直した。

「……明日は何にするかな」

 そう呟き、少し笑った。

 明日も、いつもの一日が始まる。

 そのことを疑う理由など、今の透にはなかった。

――第十六話・完――



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